第20話
3
十村とのあいだに距離がある。友人として接するときとはまるで違う距離感だ。なにより、これはとても息苦しい。喉になにか詰まったみたいだ。口の中が乾いて仕方ない。水が、ほしかった。
「さて、まずあなたは何者ですか」
十村は答えない。
「質問を変えましょうか。小坂みなみさんとはどういう関係にあったのか」
「小坂さんとはただの友達ですよ。同じ大学なので」
「仮にそれが本当だったとします。ですがそんなただの友人に、部屋の合い鍵を、しかもよりにもよってここの部屋の鍵を渡すなどあるのでしょうか」
「さあ」
十村は肩をすくめる。
「あるにはあるんじゃないですか」
「ふざけないでください」
「僕は至って大真面目ですよ」
十村はそれでもしらばっくれようとしていた。今ここにいる彼は〝友人〟として接していたときの彼ではなかった。はっきり言ってほぼ別人だ。あんな顔、今までに一度も見たことはなかった。あんな、他人を見下すような
「どうもまだ立場をわかっていないようですね」
夜人が動き出す。
「僕をどうする気ですか」
「指を一本ずつ砕きます」
「つまり拷問ですか」
「ええ」アリスは
夜人は十村をうつ伏せに倒す。その上に乗るようにして、夜人の手は十村に触れていた。片手が変形し、トンカチのようなものに変わる。あれで砕くつもりなのだろう。
神山は一歩踏み出して言った。
「おい、さすがにそりゃあ」
「トウヤさん。彼のこと、知っていたんですね」
「……友人だ」
「ではなぜここに現れたのか、説明できますか」
「俺が知りてえよ」
神山は半ば苛立っていた。とつぜん友人が現れ、その友人の言動が怪しいうえ裏があることは確定している。なにが起こっているんだ、くそっ。叫びたい気分だった。
「友人もこう言っています。そろそろ答えたらどうですか」
こういう危機に瀕しても彼は表情一つ変えなかった。アリスは十村の背を睨んでいた。この部屋全体に殺気が満ちていく。神山は息を呑んだ。止めなきゃ。そう思っても身体が動かない。空気がそうさせた。なによりアリスが、余計なことをすればあなたも殺す、とそう言っているように聞こえたからだ。
「では一本やりましょうか」
「アリスっ!」
アリスは問答無用で夜人に指示を下す。怪物は腕を振り上げる。高い位置から一気に振り下ろそうと夜人が勢いをつけたとき。轟音が鳴った。扉が壊される音だった。この部屋どころか近隣にまで響き渡っているはずだ。
「どーもー」
陽気な声がした。金髪の男がリビングに踏み込んできた。真っ白なフルスーツを着ている。全体的に明るい印象だった。左耳にピアスをつけていた。
「うちのものが世話になってます。十村君、なにやってんだよ」
「すみません」
「ははは」
男は高笑いをした。
「ごめんよ。君にだけは迷惑をかけたくはなかったんだけどさ」
アリスを見据えて彼は言った。
彼女は顔をしかめる。
「〈シャサール〉の創始者の一人、フォンテーヌの末裔。それが君、アリス・E・スコフィールド。フォンテーヌとは、まあ、いちおう友人だったんでね。その血縁の者となれば、それなりに敬意を払うつもりでいたんだ」
「…………」
シャサールの創始者。
では、アリスの祖先は狩人という存在を作り上げた人、ということだろうか。
「だから、僕が責任もって説明するよ。もちろん、そこの子にもね」
と言って、男は神山に一瞥を送った。どきりとした。
「だから十村君を解放してやってくれないか」
「今すぐ説明してくれるんですか」
「うーん」
男は顎の先を指で撫でながら唸った。アリスは眉根を寄せ、
「この期に及んで逃れようというのですか」
と叫んだ。
男は両手を忙しなく振って言った。
「もちろん説明したいのはやまやまなんだけどさ。ただ、第三者がいるのが好ましくない」
「第三者?」
アリスが首をかしげた。
男は肩をすくめながら、廊下のほうへ向かう。アリスが一歩踏み込んでなにかを言おうとした。けれどその前に、なにか悲鳴が聞こえた。きゃあっ。女の子の声だった。アリスは慌てて夜人を首輪の中におさめた。すると、男が戻ってきた。神山は目を見張った。制服姿の女の子の腕をつかみ、引きずってきたのだ。
しかも、その子は見たことがある。
岡本昭三の孫、岡本加奈子だ。
「この子さ」と言って、男は加奈子から手を離した。それも、放り投げるように。
神山は加奈子に駆け寄った。
「大丈夫か」
「え、ああ……」
「とりあえずなんでここにいるのかはあとで説明してもらうからね」
加奈子は黙り込んだ。
神山は男を見返し、思い切り睨みつけた。彼はちっとも怯まない。
「ごめんごめん。子供の扱いは慣れていなくてね」
違う。こいつは人間そのものを見下している。
そんな確信が胸の中にあった。
「その子がいたら僕、なにも話せないよ。だってそうだろ。君たちには〝守秘義務〟ってもんがあるし、機密情報がバレれば秘匿するために行動しなきゃならない。気持ち、すごくわかるよ。面倒くさいもんね」
「あなたに労われたところで気持ち悪いだけです」
「ごめんごめん」
「では、どこで説明してくれるというんです。明日の昼、カフェテリアで集合だなんてふざけたことを言うわけじゃありませんよね」
「まあカフェテリアではないかな」
男は上を向きながら言った。
「今度、『聖命学会』のセミナーがあるんだ。そのときにきてほしい。明日の午後三時ごろだね」
言いながら、男はともに場所も告げた。
「それはたしか、新興宗教の。ではあなたは……」
「理事長。または教祖っていうのかな」
アリスの眉がぴくっと跳ねた。神山も驚いていた。そのうえ、加奈子まで。その反応が気になった。
「……本当に説明してくれるんでしょうね」
「もちろんさ。言っただろう、君には敬意を払っていると」
アリスは鼻を鳴らして、男の顔を見据えた。男は変わらず柔らかい笑みを浮かべているが、アリスから視線をそらさない。物言いは柔らかいものの、この男にはなにか腹に一物抱えている。
「それじゃあ僕は、ここで退散するとしますよ、っと」
彼は十村を立たせ、背を向けた。その瞬間にアリスが懐からなにかを取り出そうとしたが、
「無駄だよ。僕を攻撃しても、僕は死なない」
男が一切こちらに振り向かず、そう断言した。
アリスは舌打ちし、腕を下ろす。
しばらく、神山の中で呼吸の音だけが聞こえていた。
マンションを出るころには、すでに夕焼けが空に滲んでいた。
郷里を思い出させるような夕空の向こうに、神山は視線を投げていた。マンションの出来事を脳裏に再生させていた。小坂みなみが新興宗教に入信していた疑い、十村がその宗教に関連している可能性、そしてとつぜん現れた教祖と名乗る外国人の男。
なにがなんだかわからない、というのが正直な感想だった。
神山たちはマンションを出て住宅街に入った。加奈子を家まで送るためだった。夜人の姿を見たわけでもないので、アリス曰く「秘匿対象ではない」とのこと。よって、このまま送り返すことにした。
重なっていた足音の一つが消える。視界の端にいたはずの加奈子がいなかった。振り返ると、彼女が立ち止まっていた。
「どうした?」
神山が声をかけると、うつむいていた顔が少し上がった。
「いえ、その……訊かないんですか」
「なにを?」
「わたしが、なんであんなところにきたのか、とか」
「訊いたほうが都合いいんですか」
アリスが加奈子を無感動な目で見つめていた。ただ、邪険にしている様子だった。
加奈子は気まずそうに顔をそむけた。下唇を噛んでいる。
「まあまあ」
神山が手で制すると、アリスは引き下がってくれた。
加奈子に向き直す。
「まあたしかに、訊きたいこともあるんだけど。でも今はほら、あんなものを見たあとだし。心の整理みたいなものがつかないんだと思う」
「…………」
「岡本さん、たぶん知ってるでしょ」
「え?」
伏し目がちだった加奈子が、顔を見せた。
「『命の泉』のこと。詳しく知っているのかわからないけど、でも少なくとも存在は知っていた。あの男が教祖だってわかったとき、君も驚いていたから」
あ、と声を洩らす加奈子。
思っていることが表情に出やすいところはアリスと似ている。
「衝撃だったと思う。だから、なにも訊かない。俺にしたってまだ心の整理はついていない」
「……アイザックさんも、そうなんですね」
アイザック、と聞いて首をかしげかけたが、彼女の前で名乗った偽名だと思い出す。
「まあな」
言って、前を向き直そうとしたとき。
「あの」
加奈子が言った。
「わたし、じつはおじいちゃんがなんで死んだのか、探っているんです」
「うん」
振り向き、神山は頷いた。
「おじいちゃんのことは大嫌いだったけど、でも自殺なんかするやつじゃない。ぜったいになにか裏があるって、そう思って。だから、おじいちゃんの家に勝手に入って探したんです。そしたら、あの新興宗教のグッズとかポスターとか見かけて。怪しいメモの走り書きなんかもあって」
アリスも加奈子を見る。なにか言おうとしているところを、神山は制した。
「そのメモに、あのマンションのことが書いてあって。〝荷物の中継地点〟だって。メモのそばには鍵もありました。だから、行ってみようって。そしたらアイザックさんたちが先にきて……」
なるほど、と神山は顎を引いた。
それから加奈子に再び視線を向けて、神山は息を吸った。
「自分なりに、がんばってみたんだよな」
「……いえ、わたしは」
「納得できなかった。理解できなかった。家族が死んだ理由がうやむやになって、それが嫌だった。違うか?」
加奈子は黙りこくっていた。が、やがて小さくこくりと頷いた。
「おじいちゃんがああなったのは、おばあちゃんが死んでからだった。わたしも、おばあちゃんがいなくなって悲しかったしたくさん泣いた。だから……おじいちゃんのこと大嫌いだけど、憎めなかった。わたしも、ひょっとしてああなったかもしれないって思うと、どうしても責め切れなかった」
「そっか。すげえな」
「すごい……?」
神山は精一杯に笑ってみせた。
「わからないことをそのままにしない。自分で自分の気持ちを理解して、自分で行動する。たぶん、俺なんかよりもいい大人になれるよ」
加奈子は自信なさげに、地面に視線を落とした。大丈夫、と声をかけた。これまで大人に教わった、大丈夫という言葉に込められた思いを、頭に浮かべながら。
「でも、一人でなにもかもやっちゃだめだ。俺たちやあの男のような危険なやつに遭遇して、とても危ない目に遭う。そうなれば、君がおばあちゃんの死を悲しんだように、君の身近な人たちがさらに悲しむ。そうなってもいいのかい」
「それは、いやだ」
「だろう」
神山は微笑をそのままに加奈子の前でかがんだ。
「自分のことは自分で決める。大事だと思う。でも度が過ぎればそれはただのわがままだ。だからもう、このことには二度と関わらないこと。約束できるかな」
「……うん」
加奈子はこっくりと頷いた。その仕草がいくらか幼く見えて、そのときノイズがかかった。頭の中で、白い少年が座り込んでいる。その少年は、目に包帯を巻いていて──。
かぶりを振った。
「うん、ならよかった」
神山は立ち上がり、踵を返す。
そこでふと思いついた。
「それと、俺はアイザックじゃない」
「え?」
「神山瞳也。今年度から双木高校に赴任する、新米教師だよ」
「カミヤマ、トウヤ……って、
「お、こりゃまた会えるかもな」
それから加奈子は、神山が驚くくらい饒舌になった。志望校について話したり、神山の高校時代のことも尋ねてきた。そのときに、いらないことまで彼女に話したりもした。自分に生徒ができたみたいで、神山もつい口が軽くなったのだ。
加奈子とは、ぜひとも双木高校で再会したくなった。
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