第19話
2
そのマンションは、住宅街の一角にあった。公園とコンビニに挟まれているかたちになっている。
草間町の一等地にあるものと負けないぐらい豪勢な雰囲気を漂わせている。タイル状の敷地が直径五メートル以上。マンションとセットになるように公園が隣接している。その公園の方角とは真逆の方から、神山たちはやってきた。
書類を携帯で撮り、住所と写真を見ながらここまできた。
ここですね。アリスがつぶやく。
神山とアリスは頷き合ってマンションの出入口を抜けた。
すると管理室から細身の中年男性が出てきた。管理人だろう。グレーのポロシャツを着た彼は、神山たちを見比べ、一瞬だけ眉をひそめた。
彼はにこりと表情を切り替えて、軽く会釈をする。
それから神山の脇を通って外へ出ていった。なんだったんだ。思いながら、首をかしげる。
違和を感じてアリスを見る。彼女は袖を引っ張りながら自分を見上げていた。早く行きましょう。目がそう言っていた。
それからエレベーターに乗って、『8F』を押した。鍵は八〇五号室。マンションは三十階建てで、低階層のうちには入る。八階について、左に折れる。
一階につき十部屋あるらしかった。
奥より少し手前に止まって、扉脇の部屋番号をたしかめる。間違いない。ここが八〇八号室だ。
アリスから持たされた手袋をつける。アリスも同様に手袋をつけて、例の鍵を手に持っていた。それを鍵穴に差し込む。半回転させる。
──がちゃっ。
鳥肌が立つ。本当にここだったんだ。期待感が高まった。同時に不安も渦巻いていた。このまま先に進んでいいのか。やばいことになるんじゃないか。
そんな嫌な予感が、しきりに頭をよぎるのだ。神山はかぶりを振り、先行してアリスが進んだ。
いちおう中から扉をロックして、前を向き直した。
短い廊下があって、奥は突き当たりだった。途中、左側に扉があった。手前は部屋だ。それより奥の扉はトイレのものだった。突き当たりに接近し、左右どちらにも扉があった。神山とアリスは頷き合い、それぞれの扉を開けた。
神山は左側の扉を開けた。個室だった。しかしベッドがない。ほぼ物置だった。ダンボール箱がかさみ、潰されたものと開けたまま放置されているもの、あげくまだ開いていないものまであった。ダンボールの海をかき分け、奥へ進む。隅に重ねられた未開封のダンボールを見つめた。
どうしようか。
「アリス」
向こうの扉に向けて呼んだ。
「はいー?」
「未開封のダンボールがあるんだけど、これどうすりゃいい?」
「開けてください」
やっぱりそう言うか。予想はしていた。抵抗はあるが、これも自分が解放されるためだと思って実行する。
割れ物注意のシールが貼られたダンボールを、上から下におろした。思ったよりもずっしりとした感触。手袋の状態だとガムテープをはがすのは困難だった。
殴って開けるか、と我ながら乱暴な考えが浮かんだが、床に落ちていたカッターを見てやめた。
カッターの刃を出してみる。錆びていない。それほど古いものではなさそうだ。神山はダンボールに刃を入れて開けた。中を覗く。
緩衝材を適当に取り払ってみると、中には水のペットボトルがあった。ラベルはなく、裸の状態だった。かなり怪しげだ。ほかのダンボールも開けてみる。同じく謎の水が二箱ぶんだった。
「トウヤさん」
アリスが呼んでいる。
彼女のもとへ向かう。そこはリビングだ。ダイニングキッチンがあるが、それ以外はとくに家具はない。冷蔵庫はあるようだった。
リビングの奥の洋室に、アリスがいた。
「どうした」
「これ」
なにかのちらしを手渡してきた。
どうやらセミナーの勧誘ポスターのようだった。見たことも聞いたこともない団体のセミナーだった。月浜町のビルで行うらしい。申し込み期日は今日まで。開催日は明日のようだった。
団体名を見る。
『聖命学会』
いかにも、といった名前だ。
「小坂みなみさんが持ってた部屋、なんだよな。ここ」
ええ、とアリスは頷く。
「もしかしたら小坂みなみさんはここの団体に加入していたのかもしれません」
「いや、これはセミナー募集のポスターだろ。これから加入しようとしたんじゃないか?」
「ポスターは一枚だけじゃなく、束でありました。配られたのではなく配る側だったのでしょう。これ以外にも書類が見つかったんですよ。一か月前に開催されたシンポジウムのメモや、ほかの勧誘ポスター、活動記録……いろいろありますよ」
「ちなみに、向こうの部屋に怪しいペットボトルがあったぜ」 アリスが眉根を寄せた。神山はリビングの冷蔵庫に向かった。この一室にある家電は洗濯機と冷蔵庫だけのようだった。ずいぶんと大きな冷蔵庫だった。上を開けてみる。首を伸ばして中身を見回すと、いくつか同じものが散見された。
次はゴミ箱。冷蔵庫の脇にあるゴミ箱を開いて中を覗く。だがゴミ袋が入っていない。むろんゴミ一つ見つからなかった。
眉をひそめたが、すぐに思い出した。そういや、昨日はプラスチックゴミの回収日だったじゃないか。
「……でも、合わないな」
「なにがです?」
アリスが横から顔を出してきた。
「ペットボトル。あれだけ数のあったダンボールと数が合わない気がするんだよ。せいぜいゴミ袋一枚ってさ、箱でいうと二箱か三箱。でも、あそこには何十箱ものの残骸がある」
「自分で消費するのであれば、あれだけの量は必要ありませんからね」
「そうだ。それに、ここには食べ物がなかった。まあ自分でも飲んでいたんだろうが、それにも限度がある」
「とすると、途中廊下にあった手前の扉かもしれません」
さっそくその扉の前までやってくる。ドアノブを回して、中へ入る。薄暗い部屋だった。窓のカーテンが日光をふさいでいる。ゆっくりとカーテンに近づいていく。途中でなにかに脚を引っかけて転びかけたが、立て直してカーテンを勢いで引いた。
陽の光が差し込む。その瞬間に、視界が明瞭になった。瞬きをして、部屋の中を流し見していく。と、自分が転びかけたところに視線が止まった。
「うわっ!」
驚いたあまり後ろへ転倒しかけた。
人の顔。それが神山を向いている。髪は乱れていた。無感動な瞳が髪の毛の合間からこちらを覗いている。胸の中に冷たいものが生まれて身震いした。
アリスは冷静だった。驚いたように目を見開いていたものの、膝を崩してその人間の髪を整えた。仰向けにさせる。
裸だ。いろいろ丸出しだったが、やらしい考えは一切浮かばなかった。むしろ、全裸なのが不気味さを際立たせていた。
「……これはホムンクルスですね」
「ほむんくるす?」
フィクションかなにかで聞いたことはあった。
「人造人間。ですが、本来サイズは小さく、このように等身大なものは作れません。ただ一人をおいて」
「ただ、一人……?」
その瞬間、甲高い音が部屋に響き渡った。インターホンの音だ。神山とアリスはお互いを一瞥し、頷き合った。
放置すると、また音が鳴った。
アリスに待てと指示し、部屋を出て、忍び足で玄関ポーチに入った。
張り詰めた空気が息を詰まらせる。神山は片目を閉じて、開いた目をドアスコープに近づけた。
向こうには、配達業者が立っていた。青色の制服を着て、帽子のつばで顔は見えなかった。業者はダンボールを抱えている。そこで安堵した。
そういえば、ここは珍しくオートロック式じゃなかった。
アリスにサインを送って、人差し指を立てる。インターホンはもう一度鳴ったが、それ以降はなにもなかった。再びドアスコープを覗くと、業者はすでに去っていた。ほっと息をつく。踵を返す。
──がちゃっ。
え。神山は声を洩らした。明らかに扉のロックを開ける音だった。どういうことだ。とにかく隠れないと。
後方からなにか強い力が神山の身体を引っ張った。途中で転びかける。半ば引きずられるかたちで、部屋の中へ入った。窓は閉め切っていて、部屋は薄暗い。さっきの部屋だ。
後ろを見ると、アリスが立っていた。神山をこの部屋へ引き込んだのはアリスだったらしい。
アリスが即座にカーテンで窓を閉め切った。
「誰なんでしょう」
アリスが囁く。
合い鍵を持っていた。神山たちが所持しているものを複製したのだろうか。いや、そういえばスペアキーが見当たらない。となると、今ドアを開けた者は小坂みなみの許可があってスペアキーを使用していることになる。強奪したとは思えない。
では、ここへきたのはなぜだ。小坂みなみを訪ねたのか。本人が自殺したことはまだ知らないのか。だが小坂みなみが合い鍵を渡すほどの仲なら知らないはずはない。
それにここは住まいではない。全体が物置部屋となっている。しかも彼女本人の趣味が詰まった場所だ。となると、その趣味を知る人間──『聖命学会』の関係者をおいてほかにない。
「聞き出しましょう」
足音がリビングのほうへいったあと、アリスは提案した。
「なにを」
「あなたもわかっているでしょう」
にやりとアリスが笑みを浮かべる。
神山はしぶしぶ承諾した。なにをすればいい。そう問うと、アリスはかぶりを振った。
「大したことはべつに」
「ほう」
「おとりになってくれるかしら」
にっこりとアリスは唇を歪ませた。悪魔の笑みだ。小悪魔ではなく、悪魔。こいつは見た目はかわいいくせして、かなりのやり手なのだ。
ため息をつき、立ち上がった。
「吠えるぐらいなら」
扉を静かに開けて、リビングのほうへ向かう。そろりそろりとつま先立ちで歩いていった。
どうやら例の者は左側の部屋にいるらしい。あのダンボールのゴミがいっぱいのところだ。神山はあることを思いついて、しずしずと洋室に向かった。
洋室の中に入る。内側から扉を閉めるとき、深呼吸をした。次いで叩きつけるように閉めた。部屋中に音が響き、振動が渡ったはずだ。
壁にもたれて、その場で待つことにした。
瞼を閉じて耳をすませる。緊張が走る。開錠したときといい今の状況といい、寿命の縮まる体験ばかりだ。
いい加減、もとの日常に早く戻りたい。
扉が閉まる音がした。少しして、床の振動がわずかに伝わった。足音も聞こえる。
どく、どく、どく、どく。
足音と重なる動悸。苦しくなる呼吸。そしてとうとう足音が神山のすぐ近くにまでやってきた。洋室の扉が、ゆっくりと開かれる。ついに例の者と目が合う。神山は眉間にしわを刻み、睨みつけた。いざとなれば目力が解決してくれる。つまり虚勢だった。
──いや、待て。
「え、神山」
「は?」
十村が立っていた。
十村はきょとんとした顔で神山を見据える。きっと俺も同じ顔をしている。神山は確信した。
次いで十村はさらに目を見開いた。視線は後ろへ向いている。彼の後方に立っているのは、先日見た漆黒の化け物だ。人型で十村より一回りも大きい。
「失礼」
アリスが右から現れた。
「手を挙げた状態のまま、こちらへきてください」
十村は黙ったまま指示に従った。取り乱さないのか。それともあまりの恐怖で声が出せないのか。それはないような気がした。十村の顔に怯えは見られなかった。
十村はリビングの中央に立つ。両手を挙げてアリスと向かい合う。
「アリス、待った」
神山は片手で制した。
アリスは怪訝そうな目つきで見返してくる。
「まず俺に話させてくれ」
「なぜです」
「まあ、なんだ」
「はっきり言ってください」
「友達なんだ」
沈黙が落ちる。
静寂。壁にかかった時計の秒針が動く音だけが、部屋にあった。そんなとき、十村が大きなため息をついた。あからさまな態度だった。
「すみません、腕疲れるので下げていいですか。実際なにも持ってませんし。調べてくれたっていいですよ」
「なら万歳した状態で。〝あとで〟調べますよ」
十村は眉を下げた。
「おまえ、なんでここにいるんだ」
神山は尋ねた。
「小坂さんとは仲がよかったので」
「冗談のつもりか? 面白くねえぞ」
十村は神山を一瞥したあと、床に目を落とした。
「おまえもここでなにをしてる」
「俺は──いや」
「僕も言えないんだ」
夜人が十村の両腕を掴んだ。がっちりと固定するように。いま十村は腕を下げようとしたのだ。
「どなたか存じえませんが」
アリスは唇に指をあてがう。舌なめずりをして、にやりと笑んだ。
「
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