第18話
第三章
1
目を醒ます。
薄暗い空間の中にいた。心地のいい感触と、薄目から覗く天井。横たわっているのだ。そこで、昨夜のことを思い出した。〈地下の図書室〉のパソコンであの事件を目にして、発作が起こったのだ。
ふと、左手の温かみが気になった。横になった状態で首を伸ばした。アリスだった。ソファのふちに頬を乗せながら、神山の手を握っていた。いや、自分が握っているようだった。
ぱっと手を離す。
アリスが唸り、ゆっくりと顔を上げた。彼女は、目元をこすりながら周りを見回していた。最後には神山と視線がぶつかった。沈黙が数秒。心臓が止まった数秒間だった。
「トウヤさん」
アリスが微笑む。
「体調はどうですか」
息が詰まった。誰だ。自分の知っている限り、こいつは俺に優しく微笑むような柄じゃない。
「いや……俺は」
顔をそむけた。
「大丈夫だよ。ありがとう」
「そうですか──」
くちゅんっ。アリスがくしゃみをした。
鼻を両手でおさえている。伏し目がちに神山を見上げた。心なしか頬が赤くなっている気がした。それと意識していないのだろうが、上目遣いだったこともあり、どきっとしてしまった。
いや、なんだよ、どきって。不整脈か。
「毛布もなしに寝るからだよ。待ってろ、なにか温かいものを持ってくる」
「いえ、私は、」
「なにがいい?」
「……じゃあ、コーヒーで」
頷いて、エレベーターに駆け込む。上でコーヒーを淹れてから戻ってきた。
アリスは毛布を身体に巻いてソファに腰かけていた。やっぱり寒かったんだな。
彼女の前にテーブルを動かして、トレーごと乗せる。アリスはひとこと礼を言って、コーヒーをすすった。すると眉を上げてコーヒーカップを眺めていた。
「私好みの味です」
ならよかった。
「なんでわかったんですか」
アリスが神山を向いて訊いた。
「昨日いただいたコーヒーで、な」
アリスが目を見開いた。うつむいて、唇を小さく動かす。ありがとうございます。そんなつぶやきが聞こえた。
「どういたしまして」
「き、聞こえていたんですか、今の」
「ありがとうな」
「いきなり、な、なんですか」
「昨日は助かった。ほんとに」
アリスはまたコーヒーに目を落とす。礼を言われることに慣れていないのだろう。これ以上、掘り下げるのはやめることにした。
しばらく沈黙が続いた。
アリスは、慎ましい仕草でコーヒーをすすっている。口元が緩んでいた。表情に出やすいタイプなのだろうな、と神山は思った。
……さて。
「俺のことは、もう調べているんだろう」
「え」
「昨日、妙に行動が早かったよな。俺のこの〈瞳〉についても知っていた様子だったし、とっくに調べ上げていると思ったんだ」
しばしの沈黙の末に、アリスはこっくりと頷いた。
「そっか」
神山は
しかしアリスは顔をそむけている。後ろめたさからだろうか。
悪いことを言ったな。
「たしかに十五年前、俺は
苦笑を交えて語った。
「そのせいで薬代はかかるし、なによりハル姉や
「迷惑なんかじゃ──」
アリスがぱっと顔を上げて言おうとした。それを遮って、神山は言った。
「わかってる。でも、俺にとっては迷惑をかけたも同然なんだ」
なんだか、これじゃあ嫌味だな、と思った。
神山は、はにかみながら言った。
「そんな目で見るなよ」
「え?」
「気、遣っちゃうよな。ごめん。でも、俺はもう割り切ってるからいいよ。こういう過去は誰にもあるもんだと思うしな」
「誰にでも、って」
ショックを受けたような顔をするアリス。
「あー、どんな言い方しても嫌味だな」
頭の後ろを掻いた。
むかし、信じていた人間に過去を知られて「可哀そう」と言われたことがあった。むろん悪意はなかったろう。優しさのつもりだったのかもしれない。
次の日から友人の態度が変わった。可哀そうなやつを見つめる優しい眼差しだ。その優しさが、怖かった。
ふだんから「大丈夫?」や「悩みがあったら聞こう」と繰り返し言われる。その中で、本当に自分は可哀そうな人間だと思い込みかけた。
可哀そう。可哀そうだから、俺はどうしようもないんだ。
そんなときに会ったのが、十村だった。大学一年のころ、講義中に〝発作〟で過呼吸を起こしたときにすぐさま助けてくれたのが彼だった。保健室に連れて薬を飲ませてくれた。彼に謝ると、こう言った。
「授業抜け出せたからラッキーだった」
ふだん真面目な雰囲気を漂わせているが、実際はやんちゃだったのだ。神山は、俺のことを訊かないのか、と尋ねた。
すると、
「やだよ」
と彼は笑った。
「そんなことを聞いたって僕はなにもしてあげられない」
それに面倒だ、と十村は付け足した。いいやつ、とは思わなかった。ただ、楽そうなやつ、とは思った。こういうやつとなら気兼ねなく付き合えるだろう。
以来、その居心地のよさを求めて十村とつるむようになった。
「アリスは、なんかないの?」
彼女は眉をひそめながら見返した。
「嫌な思い出とかさ」
「私は、べつに」
「俺だけ一方的に話すのもフェアじゃないだろ」
「まあ、たしかにそうですが」
アリスは顎を撫でながら考え込んだ。
「強いて言うなら」
「おっ、強いて言うなら?」
「あなたキャラ変わってません?」
「ふだんはこんな感じ」
「嫌な人ですね」
ストレートに言うなあ。
「むかし兄が死んだときです。死ぬ直前、私と兄は電話をしていました。そのとき兄は『新しい妹ができた』と言っていたんです。たぶん養子のことなんだと思います。兄はいつも道端で捨て犬なんかを拾ってきますから。そして兄は言いました。今度、必ず会わせるって。今にも死にそうな、か細い声で」
実際、死にかけていたんですけどね。
アリスが自嘲するように言った。
「私が幼すぎたんでしょう。そのことにも気づかなくて、呑気に『楽しみにしてる』なんて言ってしまいました。
──いつも思うんです。もしお兄ちゃんが生きていたら、家族でどこかへ出かけたり、兄の帰りを妹と二人で待ったり。そういう日常もあったのかなって」
「……そっかぁ」
天井を見上げながら、神山はつぶやく。
「やっぱり、そうだよな」
アリスの視線を感じた。
「誰にでもそういう過去はあって、もしもの世界を考える。俺もよくやっていたよ」
「馬鹿げていますがね」
「そうかな」
「そうですよ」
「でも、俺はそういう馬鹿が好きだな。人間として信頼できるし、共感できる。そう考えるとアリスって、いいやつなんだろうな」
なっ、とアリスが声を上げた。
「Sッ気あって無愛想で、ワードチョイス癖強いうえ年上の男に首輪をつける趣味がある。でも、たぶんいいやつ」
「スーツは似合わない、頼りがいはないしどこかズレていて、子供に首輪をつけられてなおその子供をいいやつだとのたまう誰かさんには敵いませんよ」
「じゃあ、対等ってことだな」
なんだか楽しくなって、神山はつい笑ってしまう。
「なんか、吹っ切れたよ。アリスとどう接するべきか悩んでいたけど、あれだ。相棒っ。いい響きだよな」
「コンビを組んでたった数日ですが」
「まあ、たしかに」
「いつコンビ解消するかもわかりませんし」
「それもそうだけど、まあいいじゃん。ちょっと楽しいし」
「……ふ」
そうかも、しれませんね。
神山は、一瞬聞き流した。アリスの今の囁きは、珍しくも肯定してくれたということ。それが嬉しくてたまらなかった。
「でも、あなたはペットですから」
「相棒って話はどうなったんだよ」
「相棒犬です」
どうしても俺を犬にしたいんだな。半ばあきれながら神山は笑みを洩らした。
エレベーターの到着したときの音が聞こえた。そのほうへ視線を向けると、青木暁が仏頂面を顔に貼りつけながらやってきていた。
挨拶をして、アリスが「どうしたんですか、わざわざ」と尋ねた。
「昨日の件で話がありまして」
青木はポケットから袋に入れた鍵を取り出した。
「鍵のこと、わかったんですかっ」
アリスが立ち上がった。青木はそれをなだめるように両手で制した。落ち着いてゆっくりと腰を下ろす彼女。
彼は神山たちの前にあるテーブルに袋を置いた。
「調べてみた結果、月浜町五丁目のマンションの合い鍵だとわかった。八〇五号室のな」
「すごいですね、警察の捜査力……」
「半ば力業だ。来栖町の監視カメラを追っかけて月浜町に向かっていくのを確認した。最後に訪れた日は二月二日だった」
「では、今日はマンションに行ってみましょう」
アリスが言い、神山と青木は頷き合う。
「それと、小坂みなみの死因の、睡眠薬についてなんだが」
これだ、と言って青木はファイルを手渡してきた。開くと、先日見た記録の下に新たな項目が追加されている。
「自宅のアパートから見つかったものだ。中身は市販薬だった。かなり強めのやつでな。なんだっけか、あんもばんとかいう──」
「アモバン。非ベンゾジアゼピン系の睡眠薬ですね」
神山は首をかしげた。
「なんだ、その非べんなんとかっていうの。便秘薬みたいな名前だな」
「まずベンゾジアゼピン系睡眠薬はBZD受容体という──」
そこからの説明は聞かないことにした。
だが最後にアリスが言っていたことだけは頭に入れた。
即効性の高い薬ほど耐性がつきやすいのがベンゾジアゼピン。それとは逆に、耐性がつきにくいのが非ベンゾジアゼピンだという。
「わざわざ効果の高い、しかも耐性がつきにくい薬を選んだのはなぜでしょう」
「なんだろうな」
ああ、そういえば、と青木が続ける。
「財布の中を見てみたら、数か月前までのやつも残っていてな。そこから薬局のレシートを見つけた。実際に行って裏も取ったが、三年前から薬局で睡眠薬を購入していたらしい」
「三年前?」
「彼女の父親が亡くなってから不眠症に悩まされていた、と聞いた」
なるほど、それで。
「なんていうか、捜査ファイルみたいなもの見られないんですか」
「どれも捜一(捜査一課)の管轄だからな。未解決事件に秘匿性があった場合しか、あいつらの捜査ファイルは見られん。それも刑事部長の判断次第。動きづらいんだ、秘匿課は。署に出入りするものの、表向きは生活安全課の人間だからな」
なるほどなあ、と神山は頷いた。警察の組織図には疎い自分だが、もちろん捜査六課なんて存在も知らなかった。彼らは情報を調べ上げ、それを管轄の狩人に届ける。実働部隊だ。
「仕事先や目撃者への聞き込みは俺たちに任せろ」
と、青木。
「いいんですか」
「おまえたちだと怪しくて仕方ないんでな」
アリスが礼を言ってから、
「どうしたんです?」
と尋ねた。
青木が顔をそむけながら、ちらちらと神山たちを見ていた。たしかに様子がおかしい。
彼は少し考えたあと、言った。
「邪魔したな」
にやりと微笑を浮かべて、青木が立ち去っていく。神山はただそれをじっと見つめていた。大きな背中はじつに男らしい。
「邪魔ってなんの──アリス?」
彼女は顔を赤くしていた。ゆでたタコのようだった。なにかをこらえているかのように、肩を震わせている。膝の上で握りしめられた両手が、スカートにしわを作っていた。
「なんでああいうところは親子同士似てるのかしらまったく……っ!」
アリスは素早く立った。神山に顔だけ振り向かせて、
「ほら、早く行きますよ!」
と怒鳴った。
アリスがエレベーターの向こうへ大股で歩いていく。肩が上がって鼻息を荒くしていた。怒っているのは間違いなかった。
「……なんで怒ってんだろ」
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