第16話

  9


 アリスはエレベーター前に立つ。時間はすでに午前四時を回っていた。部屋に戻って、いちおうベッドに寝転がった。だが寝られなかった。目を閉じて、羊の数を数えても、ずっと意識は覚醒したまま。

 なのでたびたび彼の様子を見に行っていたのだ。これでおそらく六回目だろう。

「なにしてんの?」

 アリスは「ひゃっ」と悲鳴を上げて、後ろを振り返った。

 青木葵が立っていた。パジャマ姿で、眠そうに瞼を手の甲でこすっている。

「葵さん」

「アリスちゃんならいつもこの時間、寝てるのに。珍しい」

 エレベーターのほうに向き直す。

「……私だって、徹夜で仕事するときはあります」

「嘘だな」

 葵はずばりと言った。

「瞳也君になにかあった?」

 アリスは眉根を寄せて葵を見返した。彼女はへらへらをにやけながら返答を待っている。ペースに乗せられてしまったことに悔しさを感じつつ、アリスは答えた。

「トウヤさんが、聖陽園事件のことを思い出して──」

「なるほど」

 葵は納得した。

「調査書にも書いてあったね。彼がPTSDだってこと。そのきっかけが、全国的にも有名な児童虐待事件。彼はまさしく被害者の一人だった」

 はい、とアリスは弱々しく頷いた。

 後悔している。先に気づくべきだった。聖陽園という文字をすぐに見つけて、彼の視界に入れなければ。そんなたらればが頭の中を回っていた。

「アリスちゃんは偉いね」

 葵はアリスの頭を撫でた。

「ちゃんと精神衛生のことも考える。なかなか魔物使いにはない体験だけれど、人を扱う立場になってくれば重要な要素なんだ。君の成長にも──」

「そういう問題じゃないでしょう」

 苛立ちも込めて言い放った。

 葵へのではない。自分への苛立ちだった。

「……危険だよ」

「はい?」

「彼に入れ込むのは危険だ、ということさ。今はまだその予兆だからいい。でもこれ以上、彼に過度な干渉をすれば君の悪い癖が出る」

「悪い癖、ですか」 

 葵はいたずらっぽく笑って、アリスの耳元に囁いた。

「ああ。たとえば、彼を庇って──」

「あり得ません」

「あら、そぉ?」

 葵はへらへらとおどけた調子で去っていった。彼女はアリスの師匠のような存在だが、やはり好きにはなれない。彼女と会ったり話したりするのは年に数回でいい。

 とはいえ、〝契約〟の条件としてここに住まわせているので、とうてい無理な話だが。

 エレベーターが開く。アリスはすぐに下へ降りた。

 神山が寝ているソファまで歩み寄って、かがんだ。いちおう神山の部屋から持ってきた毛布を被せているが、はみ出た左手がいまだに震えている。自分よりもずっと大きい手だ。マウスの上から重ねてきたとき、それを実感した。

 その手に触れた。最初は躊躇したが、触れると神山のほうからぎゅっとアリスの手を握ってきた。驚いたが、このままにしておく。膝を折りたたんで、楽な姿勢になる。

 葵の言うとおりだ。このままだと、その悪い癖とやらが発揮する。

 十五年前、兄のアイザック・スコフィールドが亡くなった。あとになって知ったのだが、魔王とも呼ばれ恐れられる、〈オーヴァーロード〉の手下に殺されてしまったらしい。フランスのある市で、公衆電話ボックス内で身許不明の幼女を抱え込んでいる姿を発見されたらしい。その幼女もともに死んでいたようだ。

 はっきりと憶えている。

 新しい妹ができた、今度おまえに会わせてやる。あの記憶の中で、兄はそう言っていた。細々とした声だったが、当時アリスはそんなことは気にせず、喜んだ。新しい家族ができる。兄はいつも外で仕事をするばかりで、自分の相手をしてくれるのはいつも従者だった。従者はいつも淡白で口うるさい。ちっとも楽しくない。そう思っていた矢先に、新しい妹ができた──喜ばないはずがなかった。

 だが、兄は電話の向こうで事切れてしまった。

 おそらく、兄が抱え込んでいたという幼女が新たな妹だったのだろう。どこかの施設か、道端で拾った子なのかもしれない。

 二人に会いたかった。兄に会ってたくさん遊びたかった。妹と一緒に、家で兄の帰りを待つ日々を楽しみにしていた。

 そんな日々は、決して訪れなかった。

 その経験から、アリスはあまり物事に対して期待をしなくなった。何事においても冷淡であれ。最悪のパターンを想定していけ、と。

 そして、アリスは弱っている人間を見過ごせなかった。これが例の〝悪い癖〟だ。兄の最期の言葉のように、小さく細々とした声を聞くと、耐え切れなくなる。もう癖は治った……そう思っていたが、じつは健在だった。それはつい数時間前、判明したことだ。

「トウヤさん……」

 兄と似ている。

 一目見たときからずっとそう思っていた。そんな印象には引っ張られず、いつもどおり冷淡でいようと思ったが、どの言動も中途半端だった。

 つまりアリスは、この青年に親近感を持ち始めている。もっと言えば、好意を持ち始めているのだった。我ながら引っかかりやすい人間だ、と苦笑する。

 彼の肌。手の中のひんやりとした感触。心地よかった。アリスはソファに頭を乗せてゆっくりと目を閉じる。兄との思い出を頭の中に浮かべて、やがて訪れる眠りを待った。







  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る