第15話
8
青木にはスコフィールド邸にまで送ってもらった。彼には二人で改めて礼をして、邸宅に戻った。
食事を済ませ、風呂に入り、すでに眠気が襲いかかってきたとき。階段のところでアリスが神山を手招きした。
風呂上がりということもあって、日中のときのような派手な恰好じゃない。上には無地のTシャツ、下には黒の短パンだった。大きな落差だ。化粧もすっかり落ちているが、それでも綺麗な顔だった。
「なんだ?」
接触を恐れつつ、神山は近づいた。
「少し、調べてみたいことがあるんです。ぜひトウヤさんも」
「調べるってなにを?」
「三年前にあった事件を、それぞれ調べていくんです。手伝ってください」
「三年前?」
なぜ三年前なのか。
考えて、すぐに思い至った。正田勝彦の恋人や、小坂みなみの父親が死亡したのが三年前と、同年だった。ちょっとした偶然だが、調べる価値はある。
神山は承諾した。
階段の裏側に回って扉が開く。エレベーターに乗って、下へ降りる。エレベーター内のボタンでわかったのだが、いちおう二階にも通じているらしい。
しばらくして、〈地下の図書室〉に着いた。
アリスはさっさと真ん中のエリアへ向かい、そこにあるデスクに向かい合った。幻想的な空間の中に文明の利器。神山は首をひねりたくなった。
パソコンを起動させる。アリスはマウスを使って検索サイトを開いた。検索欄に打ち込む前に、
「なんて打ちましょうか」
「三年前、事件、長尾友里、でいいんじゃないか」
「よく憶えていますね」
「舐めるなよ」
アリスは頷き、キーボードを叩く。
エンターキーを押すと、左側の新聞会社のアイコンが表示され、見出しが表示された。まずアリスは、いちべん上に表示された見出しをクリックしていた。
『N区 通り魔殺人事件 犯人逮捕』
被害者は退勤中だった長尾友里、二十六歳。三月七日に通り魔に遭い、道端で倒れる。その十分後に通りがかったサラリーマンが通報し、その場で死亡確認がとられた。
一週間も経たないうちに、当時フリーターだった二十三歳の男性が逮捕された。犯人が自主をしたのだそうだ。現在、男性は懲役刑の判決を下され、二十年のあいだはおそらく刑務所の中だ。
「これは……むごいな」
神山がつぶやいたのをよそに、アリスはそのニュースサイトから離れる。欄にあった単語を『三年前 事件』とだけ残して検索した。
そこに表示された見出しを一つずつクリックして、文章を流し見していった。
その作業を続けて、また二件見つかった。
岡本昭三の妻、
「……どれも、人の手によって亡くなっていますね」
アリスがつぶやく。
「でも、事故なんだろ?」
「いえ、そうとも限りませんよ」
「……誰かがそう仕向けた、と?」
ええ、と彼女は頷いた。
パソコンの画面がアリスの操作で、下へすらすらと流れていく。
そこでふとあるものが目に入った。それは十五年前の事件に関することだった。
神山の脳裏に、とっさに嫌な(うすぐらい)記憶(サカシタくん)が甦った。アリスの動かすマウスに手を重ねる。アリスが「ひゃっ」とも「きゃっ」ともつかぬ短い悲鳴を上げた。神山は構わずサイトをクリックした。
アリスが何か文句を言ったが、神山は夢中になって文章を読み進めていた。
『──聖陽園事件』
十五年前にあった児童虐待事件。犯行のあった場所は児童養護施設で、犯人は施設の指導員複数だったとのこと。当時、十代の少年が脱走し、交番に駆け込んで事件が発覚。
児童への性的暴行を中心に、虐待が行われていたことがのちの調査で明らかになった。聖陽園はそれ以後、存続されることはなく潰れた。
「……トウヤさん!」
声が聞こえて、我に返った。
神山の汗ばんだ手に、アリスの手が重ねられていた。見れば、心配そうな顔をしている。
「あ、悪い」
すぐに手を離す。彼女から数歩下がった。これでは立派なセクハラじゃないか。
「いえ」
アリスはかぶりを振った。
「私は大丈夫ですが、それよりトウヤさんが……すごい汗だし、あと……」
アリスが言いにくそうに神山を見つめる。神山は手のひらに目を落とした。極寒の中にいるように寒い。指先が冷たい。震えている。涙が、あふれる。動悸が早い。
ソファになだれ込んで、頭を抱えた。
「これは」
アリスが、パソコンの画面を見たようだ。察したような声を上げた彼女は、神山のそばに来た。
「水でも飲みますか」
いつもと変わらない淡白な口調。だが、その言葉には思いやりが込められていた。
「い、いや」
大丈夫だ、と言いかけて神山はとっさに口をふさいだ。なにかが腹からこみ上げてくる。喉もとにまできている。
「なにか、薬のようなものは持参してきていますかっ?」
慌てたようにアリスが叫んだ。神山はなんとか胃液を腹に戻して、
「俺の……部屋に」
アリスがすぐに駆け出した。エレベーターに乗っていく彼女を見届け、瞼を閉じた。深呼吸をする。大丈夫だ、大丈夫だ。そう言い聞かせる。
また、記憶が浮かぶ。
サカシタという少年が、上から神山の手を押さえつけている。痛くて、苦しくて、気持ちが悪い。組み伏せてへこへこと腰を動かして、神山の身体に傷を刻み込んでいく。
少年の口元が歪む。あの笑みが、今でも忘れられない。なにかが頬に垂れてくる。唾液だろう。神山は横を向いて、喘ぐこともしない。流すべき涙も、もうない。
ぼくは、まるで人形だ。
そのとき、神山はそう思った。こうして扱われるのはまるで人形のようだった。だから人形になればいい。このひとときだけは──違う。
これからも、人形に……。
「トウヤさん」
いつの間にか、アリスが戻ってきていた。彼女は水と薬の袋を持っている。薬を取り出し、手のひらに乗せて神山の口に近づけた。無意識に唇が開く。錠剤が口内に入って、やがて水で流し込まれた。
「しばらく休んでいてください」
「ああ、ごめんよ」
「いえ、べつに」
神山は微笑む。
「アリスも、もう寝たほうがいい」
「ですが」
「これぐらいは慣れている」
そう言うと、アリスがより一層表情を曇らせた。
余計なことを口走った。だが、神山は微笑むことに徹した。彼女は不安な表情のまま、しぶしぶ図書室を去った。
静寂が訪れ、神山は再び瞼を閉じた。
「……く、そ」
なにやってんだ、バカ野郎。
あのサイトをクリックしたのは、衝動的なものだった。そういえばあの施設がどうなったのか、知らなかった。なにより『サカシタ』がどうしているのかを知りたかったのだ。
あのサイトでは名前はなかった。当然だろう。いちおう彼も被害者ということになっている。だが……。
「もう、寝てしまおう」
頭の隅々まで黒いものが広がっていく前に、神山はそうつぶやいた。
余韻のように、瞬きのうちによぎる邪念。
──殺したい。
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