第11話



 次に訪ねたのは、三人目の小坂みなみの母親の家だった。本当は二人目の、岡本昭三の遺族のもとを訪れようとしたが、留守だった。目撃者の自宅も訪ねたが同様に留守だった。

 小坂みなみの母親こと鈴江は、来栖町三丁目の一戸建てに住んでいた。レンガが積んである二階建てで、周囲はコンクリートの庭があり、それをブロック塀が囲っていた。

 アリスは、小坂みなみの情報を思い浮かべながら、インターホンを押した。

『はい』

 若干ノイズのかかった女性の声だった。アリスは、

「申し訳ありません。その、娘さんのみなみさんと友人だったんですが……」

『……えっ』

「エマ、と申します。大学時代、こちらに留学させてもらった際によくお世話になりまして。それでその、娘さんの訃報を耳にして、いてもたってもいられず……」

『……』

 くそっ、とアリスは胸の中で毒づいた。隣の神山の視線を感じる。これではまるで、彼に影響されたみたいじゃないか。とりあえず彼を睨んだあと、もう一度インターホンに話しかける。

「すいません、お気持ちも察せず、急に押しかけて……また出直しますので」

『いえ』

「え」

『大丈夫です。今、開けるので少し待っててください』

「あ、ありがとう、ございます」

 ノイズが消えるとやがて扉がわずかに開いた。婦人が神山たちを覗いた。二十二歳の娘を持った母親とは思えないほど、若々しい婦人だった。外見で言うなら、二十代後半ぐらいだ。背も高くスタイルもいい。だが、瞳は霞がかかったように曇っている。

 婦人はアリスを値踏みするかのように見て、言った。

「みなみの、お友達……」

「はい」

 頷くと、戸惑ったように目をそらした。どうやらつい口に出てしまったものらしい。たしかに、アリスと小坂みなみは趣味が合いそうな柄ではない。

「こちらを」

 アリスは途中の花屋で買ってきた白ユリの束を差し出した。礼を言いながら、婦人は受け取った。顔を上げる。

「……そちらの方は?」

 斜め後ろに立つ神山を見て、不審に思ったそうだ。

「私の友人で、娘さんとは大学で知り合った、と」

「はあ、そうですか」

「神山瞳也って言います」

 つい、バカ、と声を上げるところだった。本名を言ってどうするのだ。

「神山さん……」と鈴江がつぶやく。「ああ、すいません。どうぞ上がってください」

 中に入り、居間に通してもらった。キッチン側に置かれたテーブルの席に座り、鈴江にはお茶を出してもらった。香りのいい紅茶だ。

「すみません。わざわざいらっしゃったのに、これぐらいしか出せなくて」

 鈴江がうやうやしく頭を下げる。神山が慌てて両手を振って、

「いえいえ、私たちが急に押しかけたせいなので」

 と妙にかしこまっていた。

「それでその」

 鈴江が伏し目がちにアリスたちを見比べながら言った。

「みなみのご友人ということでしたら、焼香を……?」

 アリスは頷きながら言った。

「もちろん、それもなんですが」

「はあ」

「どうしても気になることがありまして」

「気になること、ですか?」

 訝るような瞳で、鈴江はアリスを見据えた。

「失礼ですが、みなみさんのお母上でお間違いありませんか」

「はい……ですが、なんでうちの住所を?」

「べつの友人から聞きました。その人も、みなみさんとは仲がよかったので」

「となると、遥ちゃんか亜紀ちゃんかしら?」

「ハル姉から聞いたそうです」

 神山が答えた。

 アリスは首をかしげた。ハル姉。いま挙がった遥という友人の愛称にも聞こえたが。

「なるほど、わかりました」鈴江が頷く。「遥ちゃんとは大学からの友達だったのよね。うちのみなみとはすごく仲良くしてくれて。たまに亜紀ちゃんといっしょにここにきたこともあったわ」

 微笑みを浮かべながら、鈴江は言う。綺麗な両目には涙がたまっていた。見ていると、胸を締めつけられた。下唇を噛む。これだから嫌なのよ、まっとうに対面するのは。

「その……」

 上手く言葉が継げなくて困っていると、

「みなみさんのお母さんは、何か知っていませんか」

 と、神山が尋ねた。

「何かとは……」

「ニュースではただ自殺とだけありますが、それ以降は何も報道されていない。……それに、みなみさんは違うでしょう。あの人は自殺をするような人じゃない。だって、あの人は卒業式を楽しみしていたんです」

 アリスは神山を振り向いた。彼はただまっすぐに、鈴江を見つめている。一方、鈴江は困惑したように眉根を寄せていた。

「……申し訳ありません。他人が、知ったような口を言って」

 沈黙が流れる。気まずさがこの空間に充満して、アリスの肌がひりひりとそれを感じ取っていた。

 鈴江が、息を吸った。

「神山さん、と言いましたね。あなた、嘘をついているでしょう」

「…………」

 神山は黙っていた。

 やはりだめだった。彼の言葉にすっかりほだされてしまった、数十分前の自分を叱りつけたくなった。

「あなたは、たしかにみなみと交流があったと思います。ですが、直接の交流ではなかった。ですよね?」

 うつむいていた神山が、顔を上げる。

 続けて鈴江は言った。

「わたしはあなたのこと、お葬式で見かけましたよ」

「……さすがに、憶えていますよね」

 自嘲めいた笑みを浮かべて、神山はつぶやいた。鈴江は「ええ」と顔を縦に振る。

「遺影を見つめるあなたの瞳、すごく悲しそうだったもの」

「……はい。義姉あねの友人でしたから」

「遥ちゃんの弟、なんですよね」

 神山はこくりと頷いた。

 鈴江の指が、唇に触れる。にこり、と弱々しくも微笑んだ。

「……自殺には、心当たりがあります」

 流れが変わった。いったいなぜだ、とアリスは眉をひそめる。

「わたくしの夫、つまりみなみの実父なんですが。三年前、あの人が亡くなったことが、おそらくあの子の大きなトラウマになったのだと思います」

 三年前。

 正田勝彦が恋人を亡くしたときと、同じ年だ。

「夫はその夜、残業で遅かったんです。それから仕事が終わって帰る途中、車に撥ねられて、即死だったそうです。飲酒運転をしていた運送業者が、夫にまっすぐトラックを突っ込ませて。その日はちょうど、みなみの誕生日で。夫もすぐ帰ると言って帰ってこなかったので、みなみは拗ねていたんですが……日付が変わって誕生日が終わるころに、電話が鳴ったんです。その電話を、みなみが取ってくれて。そしたらあの子、表情をこわばらせてわたしを振り返り、言ったんです。

 ──お父さんが、事故で、と」

 トラックの勢いの強さも相まって、鈴江の夫は即死。救急搬送する間もなかったのだそう。その後、トラックの運転手だった男は裁判で、無期懲役の刑を下された。

 判決理由は、男には過去に強盗殺人の前科があり、裁判中、容疑を否認し言い訳するばかりで、裁判長から『改悛の情なし』と判断されたからだという。

「みなみは、わたしなんかより夫のほうが好きだったから……だから、学校の中では明るく振る舞っていても、ずっと苦しんでいたんだと思います」

 そのあいだ、鈴江の両手がぎゅっと握りしめられていた。濡れた瞳、震える肩、手を開いたときの爪痕……鈴江のため込んでいた感情すべてが、身体全体に表れている。いや、そもそも彼女の中の感情に、限りなどないのだろう。

「わたしなんかより、とは」

 アリスはそこを突いた。

 神山がびくっと肩を動かしていたが、そんなのはよそに、鈴江を見た。

「……わたしが、まだ高校生のときにあの人との子を妊娠して。あの人は、わたしの親に土下座してから学校を辞めて、仕事を見つけて、必死に稼いでいました。わたしと、わたしとの子のために、です。わたしなんてそのときは後悔でいっぱいでした。バカですが、こんな歳で妊娠なんて、っていうふうに。

 あの子が産まれて、その認識はこの子をちゃんと育てよう、って決心して。でも、それが空回りしちゃったんでしょうね。厳しくしすぎて、わたしのことが嫌いになっちゃったんだと思います。夫が死んだあとも、電機工場で働きっぱなしで、とにかく稼いで養うことだけを考えていたし……」

 はは、と乾いた笑みをこぼして、鈴江は答えた。

「そんなことはないです」と断言したのは、神山だった。「義姉から聞いたことですが、お母さんには感謝してる、とそう言っていたそうですよ」

「……え」

「嫌いなところもあるけど、それでも憧れている人はお母さん、だって。義姉も私も感心しました。こんなにお母さん想いのいい子なんだな、と」

 そう言って、神山はふっと微笑った。

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