第7話
着替えを終えて部屋を出る。すぐ横でアリスが待っていた。すでに恰好はゴシック調に変わっていた。壁にもたれて、目を閉じながら腕を組んでいる。呼吸で小さな肩が上下している。がく、がく、と舟をこいでいる。
「おーい」
声をかけると、ぱっと目を開いた。神山を見返す。すぐに前へ向き直して、壁から離れる。
「では、行きましょうか」
と、言った直後にあくびをするアリス。寝不足なのだろうか。目元にクマなんてなかったように見えたのだが……。
彼女についていくと、すぐに青木葵の部屋に着いた。昨夜どおりの話なら、今日の朝に青木葵から話を聞くことになっている。
こんこん、とノックをするアリス。だが五秒経っても、部屋から音はしない。二回目、三回目、と繰り返す。部屋を開けてくれるどころか、こちらへ歩いてくる足音さえもないので、アリスがしびれを切らして、
「葵さーん! 朝ですよー!」
ロビーホールに飾ってある時計を振り向く。朝の九時ごろだった。
「昨日は眠そうだったみたいだし、寝ているんじゃないかな」
アリスはため息をつく。
「そうみたいですね」
大人しそうに見えて、少しせっかちらしい。
早朝だからか、苛立っているように見えた。
どうしたものか、と神山が口の中でつぶやくと、
「仕方ありません。さて、駄犬さん。朝ごはんにしましょう」
「誰が駄犬だよ」
アリスが踵を返す。今度は一階の奥から続く、東棟のエリアに踏み入った。
扉の数は二階のエリアよりも少ない。しばらく壁紙が続いて、ふとアリスの足が止まる。彼女が向き合った左側には両扉があった。明らかにほかとは違う存在感を放っている。この部屋のさらに奥は、たしかあの桜の木が連なる奥庭ではなかったか。
アリスがノックをする。返答はない。
一つ頷いて彼女は中へ入った。神山はそれに続いた。
すると、想像していたとおりの広大さだった。
横幅は客室の三部屋ぶん。奥行きも、人が十人ほど余裕で並ぶぐらいだ。中央には縦に長いテーブルの上に、赤いランチマット。五個の椅子が横に並び、奥と手前で二列で並んでいた。右奥には背景画があった。左奥には厨房だった。横に長い
何より驚いたのは、真正面のガラス窓。どうやらフルオープンになっているらしく、ベランダと食堂のあいだに三枚、それで隔てられている。ベランダには丸テーブルと椅子のセットがあり、アリスがそこで紅茶をたしなむ姿が浮かんだ。さらに奥へ視線を投げる。青く澄み渡った空、その下で桃色の花をつけた樹木たちが奥に向かって植えられている。さらに奥には広場となっており、中央には噴水があった。
「マイコ! そこにいるのでしょう?」
アリスが、左側へ視線を向けていた。厨房の向こうへ呼びかけていたのだ。
しかし、今度も返事はない。
「……まさか」
何かを予感したアリスは、脇の扉に駆け寄った。開けてすぐ中へ入っていくと、「マイコさん!」と叫ぶ声が聞こえた。なんだ、と思って神山もすぐに駆けつけると、中で人が倒れていた。
「え」
「……やられたわ」
え、とさらに声を洩らす。
唇を噛むアリスから、静かな怒気を感じる。もう一度、うつ伏せに倒れている人に目をやった。若い女性だった。推定、二十代後半ぐらい。長い髪だが、頭の後ろで結っている。恰好はいたって普通だった。真っ白なTシャツに、淡い青色のジーンズ。
「やられたって、まさか……」
「ええ」アリスが頷く。「寝てしまわれたの、またここで」
「まあ、息あるしな」
呼吸は正常。耳をすませると、寝息が聞こえてきた。
「この人はマイコさん。泊まり込みで私が雇っている家政婦です」
マイコ、というのは舞子という字を書く、とも言った。
「へーえ」
「たまにあるんです。夜遅くまで清掃をしているがために、こうしてどこかへ雑魚寝することが。前は廊下、その前は階段、そのさらに前はあの噴水で寝ていました」
「個性強くなきゃここに住めないルールでもあるのか」
「そうです」
言い切った。
「清掃は食堂やトイレ、あとは使用している部屋だけでいいと言っているんですけどね。どうにも責任感が強すぎるというか潔癖症というか」
「ってことは、全エリア掃除しようと?」
かもしれません、とアリスは言う。
「こうなったら二度と起きませんからね。……これじゃあ朝ごはんが」
「この際、抜きにするしかないだろう」
「さすがもやしの言うことは格別ですね」
「もやし」
「朝ごはんは一日の活力。そして、基礎そのもの。土台をつくらずして、何を積み上げられるというのか。さすが魔族ですね、人間というものを知らない」
「お、俺だって人並みに朝ごはん食べたりするわ! あと魔族呼びすんなっ。俺は人間だっての」
「あなたと言い争いをしている暇はありません。どうしましょう……」
「おまえが始めたんだろうが」
「さて、どうしましょう」
しかとしやがった。
神山はため息をついた。アリスは本気で困っている様子だ。
──瞳也。今じゃ女が料理するのが当たり前っていうけどね、主婦系男子はきっと十年後になって重宝されるよ。練習しときな。
夢野から言われて、料理を練習した。大したものは作れない。一般的な料理を、何品か模倣できるようになっただけだ。
「ちょっと待っていてくれ」
アリスが首をかしげた。
「朝飯は俺が作る」
「作れるんですか? 犬が」
「犬じゃねえから作れる」
「……そう、ですか」
きょとんとするアリス。
彼女が厨房から出る。作業に取りかかった。ふと思い出す。
「……この人、どうしよ」
厨房で堂々と雑魚寝している舞子を見て、眉をひそめた。
食堂で待っていたアリスに、一皿差し出す。サンドイッチだ。冷蔵庫に残っていた材料で組み合わせた、簡単なミックスサンドである。
「綺麗な見た目ですね……」
素直に褒められて、気恥ずかしい気分になった。
アリスがサンドイッチを頬張った。神山は立ちながら反応を待った。
次の瞬間、アリスは顔を上げた。目を輝かせている。表情豊かだな。
「ほんとにおいしい」
「そりゃよかったよ」
口元が緩んでしまう。
「その笑顔、気持ち悪いですね。絞めましょうか」
アリスが頬を染めながら言った。
表情と言葉のギャップが激しい。
「いや」神山はかぶりを振った。「何だか、昨日の態度が嘘みたいに思えて。──と、ちょ、ちょっと待った。その怪しい構えはやめてくれ」
むう、とアリスが眉をひそめる。
慌てて身を翻し、
「じゃあ俺、葵さんのところに届けてくるよ」
すぐに食堂を出た。舞子のぶんは厨房に。あとは青木葵のぶんを部屋まで届けるだけ。
食堂から離れ、ロビーの客室へ向かう。葵の部屋の前に立ち、ノック。
すぐに扉が開いた。
「んー、なんかいい匂い……」
相変わらず声はしわがれているが、昨夜よりは顔色がいい。本当に疲れていたのだろう。
「あ、えと、おはようございます。朝食作ったんで、よかったら」と、サンドイッチと、ペットボトルの水を差し出す。
「え、いいの?」
とろけた顔で、神山を見上げる。
「君、いい男だねえ。もし売れ残ったらあたしがもらったげる」
「はは……俺にはもったいないです」
「またまたぁ」
葵がにっこり笑った。
「じゃ、ありがたくいただくよ」
皿からサンドイッチを取って食事を始めた。リスみたいに両頬を膨らませている。
「喉に詰まりますよ」
葵は親指を立てて顔を縦に振った。
「んっー!」
言わんこっちゃない。水を渡す。葵は一気に水を口の中へ流した。やがてほっと息をつく。
「もっとゆっくり食べてください。ほら、お皿ごとあげますから」
「ああ、そうするよ」
あと、と葵が言う。
「もうアリスちゃん呼んでくれちゃっていいよ。昨日の話、するんでしょ?」
頷いて、再びアリスのもとへ向かった。
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