第3話

  3


 夢野を自宅(一丁前にマンションに住んでいる)まで送って玄関前で別れた。

 最後の最後まで、彼女は酔った調子で「ホルモンホルモン」などと何度もつぶやいていた。


「……アホらし」


 思い出し笑いを噛みしめる。が、結局苦笑くしようがこぼれた。


 マンションから離れて坂道を降りる。

 完全に降り切ったところで、反対側のガードレールに人影が視界の端にちらついた。


「ん?」


 目を向ける。気のせいではない。人影はあった。それはそのまま前へ、ガードレール側へ寄ってくる。その人影はとうとう外灯の明るみに踏み入った。目を凝らして、それを注視してみる。


 銀と白と黒、だった。


 腰あたりまで伸びた銀の髪。リボンのついた白のブラウスに、真っ黒のスカート。英国のお嬢様みたいなスタイルでありながら、黒と白が織り交ぜられたファッションはどこか魔女を思わせる。


 端正たんせいな顔つきであることはなんとなくわかる。

 顎の形がじつにシャープだ。


 しかし、あれは──かなり若くないだろうか?


 もう日にちをまたいでいる。

 こんな遅い時間に何をしているのか。

 いや、関わるのはやめておこう。

 きっとやばいやつだ。


 逃げようとして目をそらした。

 が、何かが肩をつついてきている。気のせいだ。けれども首をひねり、少女を振り向いてしまった。視線。その少女の視線が肩をつつき、神山の意識を無理やり自分へ向けたのだ。結局目が合って、その視線に射止められたのか、顔が動かなかった。


 やめろ、やめるんだバカ野郎。

 もう一人の自分がきつく言った。


 ──もしかしたら声をかけたほうがいいんじゃないか。何か困りごとかもしれないよ。


 何を考えてんだ。明らかに怪しいだろ。声なんてかけたら、それこそこっちが困ることになるかもしれないだろ。そもそも関わらないって決めただろうが。早々に立ち去るべきだ。視線を感じたなら、なおのこと逃げるべきだ。


 ──そうだな、そうだよな。


 そう、しっかり理解はしている。何か危険なことにきこまれてはたまったものじゃない。


 早く逃げよう。


 そう決断し、右足を地面から上げようとする。


 が、釘で固定されてしまったみたいにぴくりとも動かない。

 だが、目は動く。

 神山は少女との距離を測ろうと彼女に目を移す。

 と、自然と少女の背後に立つ一回り大きな男に視線を引っ張られた。

 

 嫌な予感がする。


 すぐさま神山は駆け出していた。

 とにかく動け、ともう一人の自分が命令している。ガードレールを越えようとしたがうまく足が上げられず──。


 怖気おぞけがムカデとなって背筋を走り抜ける。

 早く取っ払いたくてたまらない。


「おい、後ろっ……」


 上手く声が出なかった。

 語尾がかすれて、とても三メートル先の少女に届くとは思えない。


 神山と少女の距離はそれほど開いてはいない。


 三メートル弱。


 決して届かない場所にいるわけじゃない。

 だが、その三メートル先の少女に警告をするにはあまりに神山は調子が悪い。


 視界が揺らめている。いまになって眩暈めまいが押し寄せてきた。顔の熱もたまったものじゃない。上手く声が出せなかった。


 一瞬、イメージが浮かんだ。


 建ち並ぶビル群の見下ろされて、ネオン街を行き来する人たちは、いまもおそらく飲みつづけている。さっきの〈銀太郎〉の店長や店員はいまもまだ働きつづけている。店長がぴりぴりして、店員はなにかミスをして怒られているかもしれないし、むしろ店長の機嫌が良くて、笑い声で賑わっているかもしれない。夢野はどうしているだろうか。十村は無事ぶじ帰宅できただろうか。彼らは、神山がこんな体験をしていると予想しただろうか。もし彼らに語るとしたら、どこから始めればいいだろう。


 とりあえずまずは、一歩はこんなにも長いんだ、と伝えたい。


「──振り向けっ‼」


 ようやく一歩目を踏み出し、喉から飛び出してきた叫び。

 声が鋭く頭に響いて、ずきずきと痛んだ。

 にごった声だが音量は充分。


 きっと届いた。届いたはずだ。


「ん、ん?」


 男は倒れす。


 転んだわけではなさそうだ。何かに邪魔されたように見えた。

 足元に視線をずらすと、その後ろ側で何かが動いている。それは人の形をしていながら、倒れた男に食らいついている──。


 野性味を感じない。

 人がハンバーガーを頬張るように、その〝黒いヒト〟も男の身体を手でちぎって口に入れていた。


 少女は依然いぜんとしてこちらを見ている。


 少女との距離は遠くない。ガードレールをあいだに隔てて、三メートルほど。幸い、そのとき車は通らなかった。


 が、不幸中の幸いという言葉とは逆の状況に直面してしまった。


 見てはいけないものを見てしまった。

 校長室の前の花瓶を倒してしまったのをかげでこっそり見てしまったときと同じ感覚だ。


 背後の正体不明の人型が〝食事〟を終えたのか、少女の隣に立った。

 彼女より頭一つ分背の高い男性のような体つきをしていた。口や目のような顔のパーツは一切見えない。


 いや……ないのだ。


 いくら夜だからといっても灯りが少なく、薄暗いというだけだ。

 手前の少女のように、顔のパーツぐらいは見分けられる。

 なのに、あいつは見えない。


 〝無い〟のだ。


 ふと、黒いヒトの鼻の下あたりに皮膚ひふが裂けたような隙間ができた。


 それは、口だった。


 たったいま、見えた。違う。たったいま、現れた。なかったはずのものがふとして現れた。

 三日月型にゆがむ唇からわずかに、白い牙らしきものが並んでいる。牙と牙のあいだには舌があって、口許を舐めた。獣らしい所作に、それは生きているのだ、と実感させられる。


 その隣で、少女が隣の人型とは違って無表情でいた。


 ただ、その生気の感じられない小顔に不快感を滲んでいるように見えた。


 次に、妙になまめかしい唇が動いた。




 見 ま し た ね ?


 

 その瞬間から、鬼ごっこが始まった。

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