第4話

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 知らないにおい。


 もやのかかった頭の中で、まず思ったことがそれだった。

 花畑が浮かぶような甘さと、紙特有の渋い匂いが混ざったような、そんな匂い。


 重い瞼を開ける。


 と同時に、徐々に意識がはっきりとしてくる。

 ひらけた視界に差しかかる眩しい光から、顔をそむける。


 横にうなだれて、まず目についたのは椅子の脚だった。

 赤い絨毯じゆうたんから木が生えているようにも見えたのは、いつまでも安定しない視界のせいだ。ずきずきと鈍痛が頭の奥から響いてくる。嘔吐感もあって、気持ちが悪い。


 視線をゆっくりと上げると、今度は綺麗な横顔があった。

 その顔はいくらか落ち着きを払っていて、自分よりずっと年上に見えた。

 ただ、見憶えがあった。


 むかしだろうか、最近のことだろうか──ひどくおぼろげだけれど、記憶の中にその顔が残っている。


 正体も気になるが、なぜこのようなところで眠っているのだろう? しかし考えようとすると、痛みがさらに際立つ。


「大丈夫ですか?」


「うひゃぁっ!」


 と、素っ頓狂な声を上げて飛び起きた。


 少女が神山の顔を覗き込んで、そっと囁いてきたのだ。顔が近い。心臓が飛び出そうになった。美人は好きだが同時に苦手でもある。見かけはいいし、言葉遣いも丁寧でいい。


 だけど、怒るとかなり怖い。とくに顔が。そのいい例が夢野遥である。


 だが、この少女は一味違った。見る者すべての意識を奪い去るほどの美しさがある。


 その薄い瞼から覗くあおい瞳は、見れば見るほど吸い込まれてしまいそうになる。


 恐怖もあったけれど、見ていて感動したし、同時に後ろめたい気持ちさえ芽生えてきた。


 少女は顔を離して、


「元気なお目覚めですね」


 と、言った。


 後ろの椅子に座って、少女は隣のテーブルにあった本を手に取る。


「……誰、ですか」


「一晩で人の顔を忘れるのですね。しかも、あんなにいっぱい追いかけっこをしたのに」


「…………」


 言っている意味がまるでわからない。

 だが、少女の言うことになんとなく心当たりがあった。


「では」


 と、少女が本を閉じる。


「まず結論から言いますと……あなたは犬になりました」


「は?」


 身体に目を落とし、頭を触った。

 肌は毛で覆われていないし、頭から耳なんて生えてもいない。


「そうではなく」


「え、じゃあどういうことだぁ?」


 ん、と少女が自分の首元を指差した。口角こうかくを上げて。


 自分の首を確かめてみろ、ということらしい。


 神山はうながされたとおりにしてみた。


 おそるおそる指を首に近づける。指先から、何やら革みたいな感触かんしよくがした。


 形をなぞってみると、それは首を巻かれたみたいになっていて……。


「こっちのほうが早いですね」


 少女は手鏡てかがみを神山に向ける。

 そのガラスに映った姿は紛れもなく自分だった。

 違うとすれば、首許くびもとに何か黒いものが巻きついているところ。


 彼女の言うとおり、犬のように首輪をつけられている。


 黒い革でできたチョーカー。デザインはシンプルで、金属でできたシルバーの留め具があるだけで、とくに趣向は凝らしていない。


「ひぇぇ、なんだよこれぇ……」


 その時点でもう涙声になっていた。


「何って、首輪ですよ」


「首輪ぁ!?」


 少女と手鏡を見比べるように見る。


 神山は涙ぐみ、少女は悠然と微笑わらっている。


「う、嘘だろぉ……てか、なんでこんなこと、」


「犬だからですね」


「そういうことじゃなくっ」


「ん?」


「……質問。せめて、質問させてくれ……」


 怒りはある。助けて、と叫びたい。せめていまどうなっているのかを聞きたい。


「もちろん。あとからしつこく嗅ぎ回られるのは面倒ですから」


 少女は偉そうに言って、


「答えられるぶんには答えます。どうぞ」


 椅子の上でふんぞり返って、少女は神山を正面から見る。

 目が合って、思わずそらしてしまう。


「ええと、まず……あんたは、誰なんだよ……?」


「私はアリス。アリス・スコフィールド。昨日、言いましたけどね」


「じゃあ、素性は?」


「素性……一般の方に説明するのは難しいですね。ではあなたは、ドラキュラや人狼、幽霊などの都市伝説上の生き物はこの世にいる。そう思いますか?」


「お、思わない、けど」


「それがいるんです。一般には知られていない、認められていないだけで存在しているんです。なぜ存在しているのか、それが都市伝説の中では認められているのかに関しては追々説明する形にはなりますが……。

 ともかく、それら魔族まぞくを狩ることが私の素性です」


「えーと、つまり──化け物を殺すのが、あんたの素性だと?」


「はい」


 と、当然のようにアリスは頷く。


 嘘をついているようには見えない。とはいえ手放てばなしで信じられる話でもない。そもそも理解が追いつかない。


「じゃあ、そんな仕事をしてる人が、どうして俺のような一般人を? たぶんほとんど関係ないと思うんですけど」


「あなたが魔族の一員だからです」


「……へ?」


「あなたが、魔族の、一員、だからです」


「ち、違うっ! それだけは違うっ! 俺は人間だ!」


「と誤認している魔族も、まれに見かけますからね。とくに吸血鬼なんかは」


「お、俺の容姿か? たしかに変だけど、それとこれとはべつだろう。ほら、アルビノなんていうのもいるだろ?」


 髪は異常なほど白く、肌もあまりげていない。一部から羨ましがられるかもしれないが、この見た目のせいでどれだけ苦労してきたことか。


「あなたの容姿はどうでもいいんです」


 と、アリスはさも当然のように言ってのけた。


 彼女にとっては些細ささいな一言でも、神山にとってはこれほど衝撃的なことはない。


 いままで奇異なものを見るような目つきで注目されてきた。黒髪が多いなか、それに混じってたった一人だけ枯れたように髪が白い。染髪を禁止されている中学、高校ではとくに目立っていたし、いやな噂も流された。


 ──あれさ、何? ジジイみてえ。

 ──やめなよ。何かの病気でしょたぶん。

 ──えぇ。近づかないでおこ。伝染るかもだし。

 ──それがいいよ。あと、あんまりそういうこと言わないこと。

 ──なんで?

 ──だってああいうやつが一度キレたら、何するかわからんしさぁ。


 気味悪がられ、汚い言葉を吐かれ、同情されてあわれまれて。そんな人生で、彼女のように「どうでもいい」だなんて言う他人がいただろうか。


「問題は、あなたのその。それが、魔族に足るに相応しい象徴なんです」


「……なんで、それを」


 こみ上げてきた暖かいものの次に、冷たいものが背中をいあがってくる。


「情報網を駆使しただけのことです。あなたの出生はだいたい把握しているので、自己紹介の必要はありませんよ、カミヤマ・トウヤさん」


 異界の住人は、ニヤリと口角を上げて言う。


「ですが、一つ教えてほしいこともあります。その、いったい何がえているのでしょう?」


 それは、と言いかけて口を一度閉じる。


「……い、いまは、俺が質問をする番だろ?」


「さすがに乗りませんか」


 にっこりと笑って、椅子に座り直した。


 身長は神山のほうが上で、アリスを見下ろしている形なのだが、どうも見下されている気がしてならない。


 拉致らちされているのだから、そうなのだろうが。


「それじゃあ質問。なんで俺をここへ連れてきた?」


 笑みが消える。憮然とした表情で、指を三本立てた。ただし、彼女は親指から中指までの三本を立てていた。


「理由は三つです。一つは情報管理のため」と、


「情報管理?」


 はい、とアリスがうなずき、


「あなた、私が魔族を狩るところを目撃したでしょう。本来なら一般の方に目撃された場合は、殺処分とするか記憶消去とするか。そのどちらかになるのですが、まあそれは状況次第です」


「ひとつが殺処分って……理不尽すぎねえ?」


 そもそも、住宅街内でああいったことをする側のほうが責任を問われるべきだ。


「そうですね。本来なら、ああいった人が通る場所で魔族を狩ることはあまり感心されることではありません。──ですが今回は、あえて理不尽にそうした。あなたにあの場面を目撃させ、精神的拘束を狙っただけのことです」


「……卑怯ひきようだ」


 言って、唇を噛みしめた。


「そう、それが二つ目の理由で、あなたには、私の使い魔になってもらいます」


「は?」


「魔族を使役する。業界ではそれを魔物使いと言うのですが、要するに私とあなたで主従関係をきずくんです」


「だから俺は魔族じゃねえってっ、頼む信じてくれよ……」


「……その首輪は、本来魔族には効果がないものなんです。だから純粋な人間であった場合、留め具は一切の意味を為さず、首輪として機能しないんです。それは、対象を人間だと判断したから。〝純粋〟な人間、だと、ね」


「だったらこれは故障か何かに決まってる。俺は人間だからな」


「仮にそうであったとしても、あなたはもうどのみち、殺される運命にあるんですよ?」


 唇のはしをさらにつり上げて、アリスは言った。


「……なんの話だ」


 ひんやりとした風が、頬をでた。風なんて吹いてこないはずなのに。


「こちら側で、あなたの処刑が決まっています」


「…………はぁ!?」


「驚くのも無理はありませんね。でも、たしかなことなんですよ?」


「な、俺は何もっ、」


「こちらでは、何かしたからと言って処刑になるだけじゃないんです。あなたが存在している。それ自体が、あなたの罪状なんですよ」


 生きていることを否定されたような──いや、実際に彼女は言ってのけた。神山の人生を否定した。


 なぜ、何も知らぬ他人にそのようなことを言われなくてはならないのか。

 そもそもこれは本当に起きたことなのか? 実際はいま、あの居酒屋で酔って眠ってしまっているじゃないか。それで変な夢を視ているだけじゃないのか。


「……ですが、安心してください。私はあなたを殺すつもりはありません。次いで言うことがあなたをここへ連れてきたことへの、三つ目の理由です」


 膝の上で手を組んで、視線を正すアリス。


 眉をひそめながら、そんな所作しよさにいちいち警戒心を立てながら、アリスの言葉に耳をかたむけた。


「あなたには、私のお仕事を手伝ってもらいたいのです」

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