第2話

第一章 三メートル弱での出逢い


  2


「ほんとにタクシー呼ばなくてよかったの?」


 店を出てすぐ、友人の十村誠一郎とむらせいいちろうが言った。


 後ろの暖簾のれんには、筆で書いたように〈銀太郎〉とある。そこは神山瞳也かみやまとうやたちの行きつけの店だ。よく、休日に集まったときにここを利用している。


「いいよ。それに」


 と、背負っている女の子──夢野遥ゆめのはるかに目をやる。まだまだ、と自分を追い込んだせいですっかり眠りこけている。あかりで照らされて、片頬の赤色がひどく濃い。


「家、すぐ近くだし」


「そっか。なら、よろしく頼んだ。後ろ気をつけろよ」


「ほんとに気をつけなくちゃな」


 かれたら困る。


 三月。

 今日、神山たちは大学卒業したお祝いで店へやってきた。三人とも同級生で、就活を無事突破した。


 神山は教職を選んだ。理由は過去の経験から、このほうが自分に向いている、と思ったからだ。友人の十村は営業職、夢野はアパレル関連の仕事を選んだと聞いた。


 本格的な社会人生活を機に、学生らしいことはできない。それを鑑みて、春休みは遊びまくろうと十村が言い出した。むろん神山も十村も首を縦に振った。さっそく計画を立てて、まず第一回目に行きつけの店でぱーっと呑む──を、実行した。


「それじゃ」


 神山は手を振ろうとした。が、夢野を背中に抱えていて両手は塞がってしまっている。


「うん、じゃあね」


「あ。そういや再来週、どこ行くんだったっけ」


 と、十村にたずねた。


「ウィーンだろ。そこ行って、二泊三日の旅行」


 チケットは来週に取っておく、と十村は言った。


「おーけー」


 神山は首をかしげつつ、


「金、土、日だったよな」


 そう、と十村はうなずく。

 神山も頷き返して、


「じゃあ、前日にまた会おうぜ」


 おう、と十村は手を挙げて、ゆっくりと振り返る。きびすを返した彼はそのまま歩き出していく。やがて群衆にさえぎられて、姿が見えなくなった。


 さて、と神山も振り返って歩いていった。

 ここから夢野の自宅まで、長い坂道を昇らねばならない。


「へっ、あれ」


 直後、夢野が目覚めた。


「よく眠れたか」

「え、え、え」


 なんでなんで、と狼狽ろうばいする夢野。

 混乱しているらしい。

 眠るまでの経緯を話すと、彼女は呆れたように息をついて、神山の肩にあごを乗せた。


「痛い痛い」


 顎が肩の筋肉に食いこみそうだった。


「はぁー」


 と二度目の嘆息たんそく


 呆れているのか、恥ずかしがっているのか。

 夢野が珍しく落ち込んでいた。


「ごめんね、下ろしていいよ」

「って言って、前にすっころんだろ」

「あ、あぁ」


 と夢野が気まずそうにする。


「でも重いでしょ」

「ぜんぜん」


 えぇ、ほんと? と苦笑する夢野。


「あーあ。うちら、もう社会人なんだなー」


 と上を向いて夢野が言った。


「もうバカみたいに騒げないなー」


 口調は明るいが、どこかかげりがあった。物悲しさが言葉から滲み出ている。その思いは共感できた。それも、すごく。夢野もやはり、卒業を事実と認めていても実感はないのだろう。


「また集まれる」


「……ん?」


「いつになっても、こうして飲みに連れてく。だから、」


「だから?」


「これからもよろしく」


 それ以上、神山は何も言うつもりはなかった。

 夢野も、ただ後ろで背中にもたれるだけでいた。


「……あのさ」


 くく、と笑いをこらえる声。

 ん?


「集まれないなんて言ってないんだけど?」


「へ?」


 ふと足が止まる。


「騒げないねって言っただけだっつうの」


「うん?」


「……ふふん。寂しがり屋だな、神山クンは」


 ひゅうひゅうとかすかな風が、神山の混乱と沈黙をうように通っていく。ぷっ、と夢野が吹き出して、背中をばしばし叩いた。痛みよりまず気恥ずかしさが一気にこみ上げてきた。


「かぁー! いっちょ前になっちゃって! お姉ちゃん嬉しいぞー!」


「降ろしていい?」


「まあまあそんなこと言うなって」


「あとお姉ちゃんってのはなぁ……」


「いいじゃん、お姉ちゃんって響き。よくね?」


「知るかい」


 ふ、っと笑いをこぼす。それにつられたように、頭の後ろで彼女もふふっと笑みをこぼしていた。


 闇に包まれた深い夜に、その声が重なってボールのように弾む。

 お互い酔いに酔いまくって、たがが外れたように声高こわだかに笑い続けた。


 自転車をこいで、通行人が横を通っていった。

 周囲は薄暗うすぐらく、表情は見えない。

 だがきっといぶかるように眉根をひそめて、まさか不審者かと疑っただろう。少なくとも視線を向けられているのは見て取れた。


「…………」


 笑い声はいつの間にか消えて、また静寂せいじやくに呑みこまれていく。

 やっぱ酔っぱらってるな、と苦笑してみても、声は返ってこない。

 小さな虫が飛び回る外灯の下、立ち止まる。

 ちょうど視界の端に夢野の顔が見えた。明るみのなかに入って、輪郭がはっきりとわかる。

 

 生暖かいはずの風が妙に冷め切っている。


 耳たぶにかかる、夢野の吐息がくすぐったかった。


「ねえ、瞳也とうや


 ねえ、とつけて名前で呼ぶ。

 そういうときは、たいていあの話だ。


「なに、ハル姉」


 みついた呼び名が、さらに神山の胸に不安をつのらせた。


「最近どうなの、その


「……まあ、上手く付き合っていけてると思うよ」


 まだまだ、とは言えなかった。

 ただ、押し込めることはできている。夢野の言うとおり、無暗にあの世界を視ているわけじゃない。

 だから結果的には上手く折り合いをつけている、と思った。


 そっか、と夢野は言って、


「……でも、これだけは言わせて」


 耳のすぐ後ろから息を吸う音が聞こえてくる。


「必要以上にその力を知ろうとはしないこと。いい?」


 声が耳の穴を突き抜けて、脳のしわに沁みつく。エコーがかかったように頭の後ろから同じ言葉が響いてきた。


「……うん」


 正体を知ることで恐怖心は薄れる。人間は未知を恐れる。だから夢野は言う、知ろうとはするな、と。恐怖心と背中合わせでこれからを生きてゆけ、と残酷なことをのたまう。  


 だが、夢野の言うことは正しいのだ。

 いつだって、正しい。


「やっぱ重いでしょ?」


 微笑わらいながら夢野は言った。


「わたしのことは、いつでも降ろしていいんだよ?」


「降ろさないよ」


 神山は即答した。


「ちゃんと背負せおっていく」


 冷たい空気を吸って、言葉を吐いた。

 背後の吐息は暖かく、くすぐったい。ちゃんとここにいる。安心感が胸の内から広がった。


 ハル姉は、いつだって──


「もう、いいってば。そろぼち恥ずーい」


 後ろで夢野がぶつぶつと文句を言う。

 溜息をついて、神山は、


「最近物騒なんだから、もうちっと自分を大切にしろよ、ハル姉」


 そのまま背中に身をゆだねて、「しょうがねーなー」などと言っていた。


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