夜光【Crimson Saga/II】

静沢清司

〈春の章〉 甦る記憶 還る残骸

第一章

第1話

  1


 気づけば、その場から逃げ出していた。


 足が、うそみたいに軽かった。


 地面を思い切りって、我が身で空気を切り裂く。最初の数秒間は息が入ってこなかった。呼吸という行為がすっかり頭から抜け落ちていた。


 平坦な道を選び、人混みのある場所へ。


 しかし遠い。遠くないはずなのに。


 呼吸が乱れる。思考が乱れる。


 何度も外灯の下を通り、どこを走ってもどこを曲がっても、同じような景色に遭遇する。もううんざりだ。そう叫びたくなるのをこらえる。


 安全な場所よりまず、じりじりと背中から感じる殺気さつきから逃げたかった。遠ざけてしまいたかった。それが起因してか、まともな判断がつかず、結局、袋小路へ逃げ込んでしまった。


 袋のねずみ


 入り組んだ道を通り抜けていけば、きっとあの少女をまけると思い上がった結果がこれだ。


 先は行き止まりで、たった一坪ほどの空間があっただけ。


 いままでの走りがすべて無駄になった。


 本当は、道があったんじゃないか……天の神様とやらが悪戯心で、本来あるべき道が塞がれてしまったのではないか。


 やばい、と神経がぴんと張りつめた。

 かなり切羽せつぱ詰まっている。  

 頭も痛いし、横腹もだめだ。

 棒が突き刺さったような鋭い痛みが、波のように寄り返してくる。


 壁に背を預ける。細い路地ろじからやってくる人影を見据える。

 三角形型のスカート。長い髪をかき上げて、ゆっくりと歩み寄ってくる少女と──その後方に、彼女の従属している人型の化け物。


 神山は苦笑を浮かべた。終わったなこりゃあ。


 一歩一歩、ゆっくりと近づいてくる少女。


 来週、ずっと楽しみにしていたゲームが届く。


 シリーズもので、前作のシナリオや魅力的な登場人物たちには胸がおどった。


 さらに再来月の新刊には、約三年ぶりのシリーズ最新作だ。


 三年のブランクを乗り越えて書いたであろう渾身こんしんの一作。早く読みたくて仕方ない。それに、恋人だっていない。


 何より──あいつらがいる。十村に、夢野の二人。


 十村との約束を反故ほごにする気か。夢野を独りにさせまいと決めただろう。あの二人は何よりも大切な親友で、家族のような存在だ。その二人とは、ちゃんとしたお別れをするつもりでいた。   

 

 ……だから、まだ死ねない。


 そうだ、ここで死ぬわけにはいかない。

 一メートルほど前で立ち止まる少女。


 神山は乱れる息を止めて、血液の流れ、心臓の音に意識を向ける。

 ふざけるな。どんな手段使ったって生き延びてやる。泣くなバカ野郎。こんなところで泣いたって仕方がないじゃないか。


 せめて最後ぐらい足掻あがいてみせろ。


 瞼を閉じる寸前、神山は彼女をにらみつけた。


「一か八か、だ……!」


 視界をぜろにする。まくが取れる。

 覆い隠していたベールを取っ払って、〈瞳〉の中の世界を顕現させる。


 無限に広がる虚空こくう、色という色を失くした景色。


 そのモノクロの世界の中で、紫色の光を放っている何かがあった。


 いつけられた傷みたいなものが、少女の白いシルエットの上で浮かび上がっていた。


 まっすぐ見据えた先にあるのは、彼女の核となる〈魂のカタチ〉。


 その輪郭をはっきり捉える。頭からノイズ。無視だ。目を凝らせ、もっと見ろ、決して躊躇うな。もっとだ、ズームしろ。口から洩れるのは自分を無理やり動かすためのむちに等しい言葉。


 だが、このおかげでちゃんとわかるようになる。

 あのカタチを捉えたあと、後ろから生える〈白い手〉がそれを奪い去ろうとした、そのとき。


 途端とたん、シルエットが動いた。首をかしげている。なぜだか不思議そうにしていた。

 もしや、こちらの思惑を悟られたのかもしれない。


 黒いヒトの足が出る。そろそろだ。あれより先にこちらが行動に出ないとまずい!


「なるほど」


 少女の言葉が、脳内に響く。何もない空間かつ人通りからも程遠い場所だから、より一層いつそう声の響きは重い。


 ふと、世界を閉じてしまった。


 少女は武器を下げた。従えていた化け物を自ら消し去った。


 再びベールがかかり、世界に色が戻る。と、少女は何かを手に握っていた。首輪? 通常のものよりも一回りほど大きい。


「マゾクがいるといううわさは本当だったようですね」


 マゾク? 


「こんにちは、チンピラさん」


 警戒が高まる。

 神山は彼女を見ながら思う──殺す気満々だったくせに急に笑顔になるやつだいたいやばい奴だと。漫画で履修りしゆう済みだ。


「まあ警戒するわよね……」


 溜息をこぼす少女。


「まずは自己紹介をしましょう。私は、アリス・スコフィールド。呼び名はどんなものでも構いませんよ」


「……なんで、追いかけてくるんだよ」


「見られてはいけないものを見られてしまった。あなたも、見てしまったという自覚があるから無様ぶざまにも逃げ出したのでしょう?」


 唇のはしが頬にまでつり上がっていた。


「い、言わねえよぉ……っ! だから頼む、見逃してくれっ。だいたいこんなこと、誰に行ったって理解してもらえるわけが、」


「そういう問題ではありません」


「どういうことだよっ……」


「まあ、それについては私の家に来てから話しましょう?」


「やめろ、もう逃がしてくれ……悪かったよぉ……」


 そのとき、舌打ちする音がして、


「……大人のくせに、泣き虫」


 神山はまばたきをする。その一瞬の隙をつけ狙ったのか、次に瞼が開いたとき、アリスと名乗った少女は目の前にいた。


 しまった、と声をこぼす前に意識の所在しよざいがゆらりと曖昧になる。


 ……あぁ、この独特の脱力感。これが、気を失うってことなのかぁ。

 呑気のんきにも神山はその一瞬に気絶という感覚を味わっていた。

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