褒められたい

 ─ローマ・コロッセオ─

 ここはタルキウスが建造した史上最大規模の円形闘技場である。エルトリアのみならず、人類の建築技術の全てが結集した建造物だ。

 現在、この闘技場には約五万もの臣民が、剣闘士試合を見物しようと集まっている。というより、今日の剣闘士試合の主催者である黄金王タルキウスの姿を人目見ようと集まっていた。


 今日はエルトリアにとって重要な祭日であり、タルキウスはこの日を祝うために国費を投じて大々的な剣闘士試合を催す事にしたのだ。

 そして今日の催しを盛り上げるために、タルキウスはこの試合を勝ち抜いた優勝者自分への挑戦権が与えた。これが国中で話題を集めて、ローマ市内だけでなく、国中から黄金王に名を売ろうと考える剣闘士団ファミリア・グラディアトリアが集まり、黄金王の姿を一目見ようと観客が集まり、今日のコロッセオはこれまでに無い賑わいを見せていた。



 そして剣闘士試合も大詰めとなり出した頃、タルキウスはアリーナの地下に設けられている剣闘士達の控室にいた。

 と言っても、他の剣闘士達が1つの広い部屋に集まっているのに対して、タルキウスは専用の個室を使用しているが。

 そこは綺麗に掃除はされているものの、元々は剣闘士達が使う用に作られた部屋なため、部屋の装飾は皆無で、非常に質素な空間である。

 現在そこではタルキウスがリウィアに手伝ってもらいながら試合用の衣装に着替えていた。


 それは熊の毛皮を腰に巻き、国王の象徴たる紫色のマントを纏っている以外には衣服を身に着けていないという、とても国王の取る姿とは思えない恰好であった。


「陛下、本当にそのようなお姿で闘技場に出られるのですか?」

 そう問うのは老齢の元老院議員キケロ。彼は国王であるタルキウスが剣闘士の如く闘技場に立って戦う事を止めるべくコロッセオまで足を運んだのだ。


「無論だ。どうだ? 神話の戦士のようであろう?」


「……学の無い私には蛮族の王のように見えるのですが」

 本音を言えば、キケロは蛮族の『兵士』と言いたかったのだが、相手は黄金王である。言葉を選んで、あえて『王』という単語を使ったのだ。


「ふん。ローマ随一の弁舌家が学が無いとはよく言うな」


「とにかくです。剣闘士の真似事などして、エルトリア国王の権威に傷を付けては、国のためにもなりません。どうかご自重下さい」


「一度布告した事を軽々と引っ込めてはそれこそエルトリア国王の権威を傷付ける事になる。違うか?」


「そ、それは……」


「もう良いだろう。お前が何を言った所で今更止めるつもりは無い」


「……承知致しました。では私はこれにて失礼致します」

 キケロは渋々その場を後にする。


「あのように冷たく突き放さなくても宜しいのではないですか?」

 無念そうに帰るキケロの後姿を見て、少々哀れに思ったリウィア。


「良いの! キケロは口煩いからね! あのぐらいガツンと言ってやった方が良いんだよ!」

 やや強めの口調で言うタルキウス。

 そんな彼を見て、リウィアはやれやれと言った表情を浮かべた。

「もう、キケロさんも悪気があって言ってるわけじゃないんですから。そんな風に言わなくても」


「んん。それは分かってるけどさ」


 その時、天井の方、つまり地上の方から微かに多数のラッパが同時に音を上げるのが聞こえてきた。


「お。そろそろ時間か。んじゃ、リウィア、行ってくるよ。俺の活躍をちゃんと見ててよね!」


「はいはい。控え席の方からしっかり見させて頂きますから、大丈夫ですよ」

 無邪気にニッコリ笑うタルキウスを見て、リウィアも思わず笑みを零す。



 タルキウスは地上へと上がり、戦いの場となるコロッセオのアリーナへと姿を現す。タルキウスの姿を見るや、5万人の大観衆は一斉に歓声を上げる。

 このコロッセオは、神聖不可侵である国王と臣民が触れ合える数少ない場であり、自分達の王であるタルキウスを目にした臣民はそれだけで熱狂した。


「キャーッ! タルキウス陛下!」


「あ~一度で良いから、あの柔らかそうなほっぺに触ってみたいわッ!」


「私は陛下をギュッって抱き締めてみたい~」


 観衆の中では、多くの女性が一際大きな黄色い声を張り上げていた。

 タルキウスはその幼く愛らしい容姿から、エルトリア女性からまるで舞台俳優のような人気を勝ち取っている。

 本来こうした剣闘士試合は貞淑さを美徳とするエルトリア女性からは敬遠されがちなのだが、タルキウスの出場する催しだけは席の多くを女性陣が占めていた。

 こういう形で歓声を上げられるのはタルキウスとしてはやや不本意ではあったが、皆が喜んでくれるなら良いかと納得していたのだ。



 一方、観戦席からその様子を見ていたリウィアは何とも言えないモヤモヤした気分になっていた。その原因が一体何なのか本人は理解できなかったが、タルキウスが他の女性達に注目されている事がリウィアには、嫌で仕方がなかった。その感情は次第に胸を締め付けられるような感覚へと陥っていく。



 やがてタルキウスはアリーナのほぼ中心に立ち、既に自分を待ち受けている、自分への挑戦権を勝ち取った剣闘士と対峙する。

 タルキウスの目の前にいる剣闘士は、タルキウスよりもずっと巨躯の大男であった。小柄のタルキウスと並んでみると、巨人がいるかのようにさえ思える。

 その男は腰に黒い布を一枚巻いているのみで、他の衣服はおろか防具類は一切身に着けず、大柄で筋肉質の肉体が露わになっていた。その身体にはこれまで数多くの修羅場を潜り抜けた事を示すかのように無数の傷跡が刻まれている。


 両者が立つアリーナは一面白い砂で覆われている。アリーナとは元々この砂を意味する言葉で、それが転じて今では試合が行われるこの闘技場そのものを指すようになった。この砂は、剣闘士が流した真っ赤な血をより際立たせて観客の臨場感を煽る事と流された血を吸収する事から撒かれている。


 やがてコロッセオの進行役の男の声が、拡声魔法を通してコロッセオ内に鳴り響く。

『今日! 我等が王、黄金王タルキウス陛下への挑戦権を見事に勝ち取ったのは、東方の地より連れてこられた剣闘士! ザダーラ!! ……ザダーラは剣闘士となる以前は戦士として幾多の戦場で数百の兵士を打ち倒し、剣闘士となって以降も闘技場で幾多の試合を通して数百の剣闘士の命を奪ってきた歴戦の勇士!』


「ほお。少しは腕が立つようだな。せっかく余が相手をしてやると言うのだ。ちょっとは楽しませろよ」

 やや小馬鹿にするような笑みを浮かべつつ挑発をするタルキウス。


「……」

 しかしタルキウスの挑発に対してザダーラは一言も発しなかった。代わりに殺気に満ちた鋭い眼光をタルキウスに向ける。


 それを受けてもタルキウスは一切動じる様子はなく、小さく一笑した。

「ふん。剣闘士というよりは猛獣だな」


 タルキウスがそう言った途端、ザダーラは試合開始の合図を待たずに獣の如き雄叫びを上げながら突進する。


 これには進行役も観客も一瞬驚くが、タルキウスは猪の如き突進を、ひょいッと横に動いて軽く避けてみせた。

 しかしザダーラもすぐに右足を軸に身体を回転させてタルキウスの前に立ち、すぐに握り拳をタルキウスの小さな身体に叩き込もうと殴りつけようとする。

 凄まじい勢いで襲い掛かる拳を、タルキウスは右手だけで易々と受け止めた。


「な!」

 ザダーラは自分の目を疑った。己の渾身の力を籠めた一撃を、子供の小さな手1つに、しかも簡単に止められたのだ。驚かない方がおかしい。


 一方、当のタルキウスは大男の拳を右手1つで抑え込んでいるというのに、顔色1つ変えずに涼しい顔をしている。

「ふ~ん。大柄の割に動きは意外と俊敏だな。でも、見た目よりパワーは弱いかな」


「グルルル」

 タルキウスの挑発にザダーラは獣の唸り声のような声を口から漏らす。


 その瞬間、タルキウスはザダーラの手を離して、俊敏な身のこなしでザダーラの懐まで迫り、そこから彼の腹を思いっ切り蹴り上げた。その凄まじい衝撃に、タルキウスの倍はあるであろうザダーラは地から離れて宙へと浮かび上がる。

「くはッ!」


 ザダーラの巨体はふわりと空中へと舞い上がった後、重力に従ってドサッと勢いよく地面に叩き付けられた。

 そのままザダーラは気絶してしまったらしく、まったく動かなくなる。


「何だ。この程度か。大した事ないな」


 そうタルキウスが呟いた途端、5万の大観衆は熱狂的な歓声を上げた。

 何とも呆気ない試合ではあったが、タルキウスの鮮やかな圧勝劇に観客は歓喜したのだ。


 そしてタルキウスは観客に対して手を振るような事もせずにそのままアリーナを後にする。アリーナを出て、人目に付かない場所に入ると途端に歩く速度を上げて一目散に地下の専用控室へ向かった。

 扉を勢いよく開けて中に入ると、そこには観戦席から一足先に戻ってきていたリウィアが笑顔で出迎える。

「お疲れ様でした、タルキウス様」


「うん! ねえリウィア! 俺の活躍ぶりはちゃんと見てた!?」


「はい。しっかりと。今日もとてもカッコ良かったですよ」


「ふふふ」

 リウィアに褒められてタルキウスはとても幸せそうに笑う。

 タルキウスがこの剣闘士試合に出場する最大の理由はコレである。リウィアにカッコいい所を見せて自分を褒めてほしいという、子供っぽい事を考えている。

 五万人の大観衆の歓声よりも、タルキウスはたった一人の最愛の女性からの褒め言葉が欲しかったのだ。

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