としより髄脳

沢城采奈

としより髄脳

 月ってのは、満月から三日ほど経ったのがいいんだよなア。

 塾帰りに信号待ちをしていると、横断歩道の向こうに自転車に乗った女の子がいた。彼女はスマホを斜め上に向けていた。何かあるのかと見上げると、月があった。月はなんだか普段よりも大きいような気がした。あと一、二日で満月になりそうな月を見ていると、ふとそんな考えが浮かんだのだ。自転車にまたがりながら苦笑ともため息とも判然としない声が出た。なんでおっさんみたいな口調になってんだ。花の女子高生だぞ?

 信号が青になりペダルに力を込める、自転車は向かい風を受けながらもぐんぐん進む。進みながら考える。でも確かに、満月をゼロとして考えると、三日前よりは三日後の方がわたしにはしっくりくる。「ああ、しばらくは望月が見られないなあ」と感傷に浸っていると、色々なこととかすかな間、隔絶されるような気がしないわけでもないのだ。

 でもこんなことを考えるのは、ちょっとわたしじゃないような気もする。教室の真ん中にいる子たち。一番大きな声でしゃべる子たち。わたしはそのコロニーの中にいる。端の方だけど、群れの中心にいる子と中学校のときから仲がいいから、いる。その中ではわたしはにこにこ笑ったり、友人のノロケに相槌あいづちを打ったりして生計を立てている。月は云々…なんて言ったら、「何言ってるの」と返される。だから絶対に言わないのだ。

 わたしは保守的なんだ。大人っぽい言葉を使って自己分析を試みる。

 だけど、時々発作みたいにこんな世俗を捨てたような考えが浮かんでくる。 欠けようとしている月が美しい、日本人は影に美を感じる、なんて考えが。周りのちゃんとした「女子高生」には 浮かばないであろう、大人びすぎた老人性の発作。この発作は早朝か夜に起こる。トリガーになるのは主に月、季節の花、夜に吹く生ぬるい風、等々。この発作がわたしを大人にする。 教室の中のあの集団をひどく面倒くさいものにする、笑顔を張り付けた自分の顔が剥がれていないか心配になる、息が詰まる。だからよくないのだ。


だけど今みたいに一人のときならば、あるいは。


シャカシャカ自転車を漕ぎながら考える。塾から帰る道の途中には大きな池がある。その名も大池。池をぐるりと一周できる歩道があって、二週間ほど前にそこに植えられたツツジが一斉に咲いて芳香を放っていた。今は緑が濃くなって、諸手を上げて夏を歓迎しているようだ。わたしが一番好きなのは、この夏になりかけの季節だ。

 いつもは渡らない横断歩道で止まる。これを渡ったら大池だ。いつもは塾の帰りにこの歩道を通ることはしない。でも今日は、釣りをしている老人や、歩道に点在するベンチに深く掛けながらラジオを聴いている彼らの、同頬になってもいいかも。

 そのとき、すぐ後ろに気配を感じる。視界の隅に映ったのはおそらく女子高生だ。うわっ、と心の中で呟く。 急にどきどき、他人の目を意識しておろおろ。 彼女には何の罪もないが、まさに女子高生のデフォルトから逸脱しようとしているわたしを暗に批判しているようだ。やっぱり、やめようか?信号が青になった。行くしかないのか。今日は土曜日だから、少しくらい女子高生らしさを捨てても二日後の学校には響かないはずだ。ペダルに力を込める。今頃わたしの友達は何をしているだろう。勉強、彼氏、ユーチューブ。 老人性発作の起きたいまのわたしにとっては、そのどれもが青臭く感じる。

 大池の歩道は池を一周できる。 そして池に橋が渡してある。 池の周りの歩道は両側に木々や草花が植えられて、それを眺めながら漕ぎ進めるのが心地よい。 六時半を過ぎているが、明るいため散歩やランニングをする人がちらほらいる。その中にわたしのような女子高生はいなくて、その事実がは安堵と寂しさを生む。

 池の周りを、自転車の変速ギアを「2」にして漕いでいく。生ぬるい風は首に鳥肌という結果を残す。いまのわたしは、わたしであれば私でもあり、また他人でもある。女子高生でも、主婦でも、あるいは何だろう。小学生の頃は母親の真似して介護士になると息巻いていたものだった。中学校を卒業する頃は獣医。その夢は今でも、わたしの心の一番底の部分で静かに冷光している。少しの「本当にそれでいいのか」という迷いと共に。

 あーあ。意識しないままに呟いていた。発作が起きて、大池に寄らなければ、こんな迷いは浮かばなかっただろう。クラスの中心でたたずんでいれば。友達の他愛もない話に、太陽光を浴びて頷く置物みたいになっていたら、こんな発作も起きなかったかもしれない。老人性発作は、わたしの将来を照らす道しるべを脅かす。石橋を渡っているはずなのに、足元がワラを踏んだいるような覚束なさをわたしに与える。人生が思っているほど明るくなく、安直でないとわたしをさいなむ。だから嫌なのだ。こんな発作無ければ良い。

 ただ、救いようがないことに、高慢なことに、わたしはこんなわたしを少し、誇らしくも思ってしまう。自転車は池を渡る橋の上で止まっている。水面の小さな波と水辺の草を少しの間眺めて、

 よし、帰ろう。

 どうやらわたしの中の老人は満足したようである。ペダルを踏み込み、わたしはむせ返るような濃緑の中を進んでいった。

 この発作にはもうひとつ、困ったことがある。この発作が起きた日は、なかなか寝付けなくなるものであるのだ。

 

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