「おい……聞いているのかね? 意識が朦朧としてきているのかな?」



 聞き慣れたその声と共に、頬をペチペチと軽く叩かれる感触を覚え、健吾は「はっ」と目を覚ました。



「君のタイミングでとは言ったが、出来れば意識を失う前に、いまこの場でやって欲しいね。もう少し頑張って、君の『誠意』を見せてくれないか……?」


 健吾の頬を叩きながら、そう語りかけていたのは。紛れもなく、この家の主、星野真一だった。健吾は慌てて顔を上げて、周囲の状況を確認した。真一の横には信子が座り、そして健吾の背後には、三ツ谷と運転手がいる。何も、変わっていない。



 ……そういうこと、か……。


 健吾は改めて、深いため息をついた。



 目の前にあるハサミを見て、加えて右手がいくらか動くようになったこともあり。健吾は、これが「反撃する最後のチャンス」だと考えた。しかし、この機を逃したらもう2度とチャンスはないだろうと思い、一番有効と思われる手段を、頭の中でイメージし始めていた。それがいつの間にか、夢とも現実ともつかない「白昼夢」のようなイメージになり、さんざ痛めつけられて疲労していた健吾の脳が、勝手に「実際にやったこと」だと勘違いしたらしい。



 そして改めて、先ほどの白昼夢を思い直すと。それは、あまりに「自分に都合のいい成り行き」であることを実感した。


 まず、このハサミで上手くロープが切れるかどうか。激痛にもがいていた健吾の背中を、今もしっかりと押さえ続けている頑丈なロープは、そう簡単には切れそうにない。もしかしたら、ロープの中にワイヤーが仕込まれているのかもしれない。


 そして、「最初の標的」にした運転手も、あんなに正確に目を狙えるものなのか。運転手の方が、リーチが長いのは間違いない。その腕から逃れ、ハサミを突き出して相手に決定的なダメージを与えるには、相手の懐に入るくらいの覚悟でないと駄目だ。もしダメージを与え損ねたら、たちまち両腕で抱え込まれ、身動き取れなくなるだろう。


 更に、もし上手く運転手を仕留められたとしても、ロープを切断するまでの間に、真一たちはもっと「総攻撃」を仕掛けてくるだろう。運転手がやられたのを見た後なら、尚更だ。


 この部屋には、右手から抜いたアイスピックだけでなく、ピックとドライバーを打ち付けたハンマーや、舌を挟むのに使うというペンチもある。今は熱が冷めているだろうが、足の裏を焼いたはんだごても。それに、止血するための道具を揃えて来たという三ツ谷のリュックの中にも、武器になるようなものが当然入っているだろう。奴らはそれを総動員し、3人がかりで止めにかかるはずだ。  


「白昼夢」の中では、三ツ谷は健吾を止めるより、まず運転手の応急処置を優先していた。だがそれもやはり、「都合のいい解釈」に思えた。奴らの残虐性を考えれば、運転手を放置して健吾を止めにかかる可能性は、十分にある。


 最初の運転手は虚を付けばなんとかなるかもしれないが、残り3人はそれを見て「ハサミを武器として使う相手」を当然警戒するだろうし、ロープで押さえつけられた状態で右手を振り回しても、仕留めることは不可能だと思われた。ゆえに、3人に対抗するにはロープを切断することが必須だったが、それが短時間で可能かどうかは不確定な上、切断している間に加えられるだろう妨害行為も、容赦ないものだと推測出来た。



 つまり、冷静に考え直せば。白昼夢の中で起きたことは、「現実的には、あり得ない」と判断するしかないものばかりだったのだ。だからこそ、疲弊しきった脳が「現実逃避」をしようとして、そんな「夢のようなお話」を健吾に見せたのかもしれないが。



 どう考えても、あんな風に上手く行くとは思えない。ならば、俺に残された道は……。健吾はもう一度、目の前のハサミを見つめ始めた。……これを使って、「舌を切る」。やはり、それしかないのか……!


 もはや健吾に、他の選択肢はなかった。これを拒んだら、いずれ自分も、あの「地下室行き」になる。だが、ここで勇気を振り絞って、言う通りにハサミを使えば……!!


 

 健吾は深呼吸をするように、一度二度と、深く息を吸いこみ、そして吐き出した。その呼吸さえ、震えているのがわかった。やるしかない。やるしかないんだ……!



 そして健吾は、真一を上目遣いで、じっと見上げ。

「……やります」と静かに言って、ゆっくりと口を開き。そこから恐る恐る、舌を突き出した。 


「おお、やってくれるか! さすがだ、私が見込んだだけのことはあるよ! それじゃあ、舌を押さえるからね。心配ない、これで痛めつけようとは思っていないから。ただ、固定するだけだからね。そのまま舌を出しておいてくれよ……?」



 健吾の「宣言」を聞き、真一は喜びに満ちた表情で、右手に持ったペンチを健吾の顔の前に刺し出した。ペンチの先端が舌先に触れ、その冷たさに反射的に舌を引っ込めそうになったが、健吾はなんとか我慢し、真一のなすがままになろうと試みた。


 真一はゆっくりとペンチの先端を開いて、そして慎重に、健吾の舌先を挟みこんだ。その微妙な力の入れ加減は、真一が自分で言った通り、決してそのことにより痛みを与えようというものではなく、あくまで「固定するための処置」であることを示していた。



 これで、全ての準備は整った。後は、健吾自身が「やる」だけだ。健吾は覚悟を決め、右手にハサミを持ち。刃先を開いて、真一が固定している、舌の方へと近づけた。



 目の前でペンチを握っている真一も、その隣にいる信子も。固唾を飲み、一瞬たりとも見逃すことのないよう、健吾の動きをじっと見守っている。背後にいる三ツ谷と運転手も同じなのだろう、応接間のテーブルの上が、異様な緊張感に包まれ出した。



 ゆっくりと移動させた、開いたハサミの両方の刃が、舌の上下に位置するところまで来た。『右手を迷わずに、ぎゅっ! と握る』。健吾は、真一が言っていた「アドバイス」を思い出していた。間もなく自分を襲うであろう激痛を想像し、目に涙を溜め、開けたままの口で苦しそうにはあはあと荒い息をつきながら。健吾はただすたすらに、真一の言葉だけを、胸の中で繰り返し繰り返し、呪文のように唱え続けていた。



 ……迷わずに、ぎゅっと握る。迷わずに、ぎゅっ! と握る……!

 



 そして、健吾は。

 ハサミを持った右手を、迷わずに、ぎゅっ! と「握りしめた」。



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