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こうして、本当に「平穏無事な高校生活」を手に入れた信子は、中学時代と同様に、「目立たない、大人しい女子高生」として日々を過ごしていた。ただ、これも中学時代同様に、時折信子の機嫌を伺うように、「貢ぎ物」を持って来る女子もいたのだが、信子はそれを素直に受け入れ、「何かの時は、お願いね」とだけ答えていた。
やさぐれ女子の弟や妹、父親を陥れたのは、中学時代にそうやって密かに「支配下に置いていた女子たち」にやらせていたことだった。妹をいじめたのは、支配下女子の後輩たちが。父親のパソコンに動画のデータを仕込んだのは、支配下女子の先輩が。弟を歩道橋で突き飛ばしたのも、電車で父親を痴漢だと訴えたのも、みなそれぞれ「別の女子」が担当し、確実に「使命」を果たしていた。信子は、自分の手を一切汚すことなく、やさぐれ女子への復讐を成し遂げていたのだ。
また、信子がやさぐれ女子の問いかけに「家族には、何の思い入れもない」と答えたのは、事実だった。信子の父親は、信子が幼い頃から酷い暴力を振るうようになり、母親も一人娘の信子も、毎日顔や体のどこかにアザが出来ている状態だった。信子が小学校に入ってからもそれは変わらず、見かねた担任教師が、地元の支援センターに相談を持ち掛けた。その結果、信子と母親は父親から離され、別の土地で新しい人生を始めることになった。
信子が小学校の時から「目立たないように」と心がけていたのは、そういう理由もあったからだった。父親には、母親と信子に対する接見禁止が言い渡されてはいるが、そんな常識が通用する人物とは思えなかった。もし父親に見つかったら、また酷い目に逢う可能性がある。それを思うと、「目立たない生徒でいよう」と考えるようになったのは、信子にとって必然だったと言えた。
自分や母親を毎日のように殴りつけていた父親を、「一生許さない」。信子は胸の中でそう誓う一方、父親の言いなりになるばかりだった母親のことも大嫌いだった。信子がやさぐれ女子に言った「逆にお礼を言いたいくらい」という言葉は、紛れもない信子の本心だった。
そんな、表向きは「目立たない、大人しい女子高生」として過ごしていた信子が、3年生になった頃。1年の時に信子を呼び出した、ヤンキー女子の後輩がやって来た。
もちろんその「後輩女子」は、同級生でもある信子のことは、1年の時から知っており。何度か「貢ぎ物」を届けたこともある、信子にとっては「顔馴染み」と言っていい女子だった。
「信子さん……すいません。ちょっと、お願いしたいことがあるんですが」
後輩女子は同い年の信子に、中学の時と同じく、自然と敬語を使うようになっていた。とはいえ、珍しく「頼み事」とはいったいなんだろうと、信子は考えていた。これまでに、いわゆる不良と呼ばれるような生徒たちの間で、校内のみでなく、他校の生徒とも揉め事があったらしいが、信子はそういった諍いに一切加わることなく、「普通の女子高生」であることを貫いていた。
そんな状況だったのにも関わらず、あえて「お願い」をしてきたのは、よほどのことなんだろうと信子は想像していた。
「珍しいわね、どんなお願い?」
「はい……相手はまだ2年生なんですが、クソ生意気というか、いわゆる相当に『ヤバい奴』でして。こんなことをお願いしてほんとに申し訳ないんですが、ここは信子さんから、ビシッ! と言ってもらえればと……」
後輩女子は、腋の下を冷や汗でびっちょりと濡らしながら、信子の返答を待った。ヘタをして信子の機嫌を損ねたら、自分が「一生忘れない」立場になってしまうかもしれない。そうなったら、中退した『やさぐれ先輩女子』の二の舞だ……。そのくらいの覚悟で、皆を代表して「陳情」に来ていたのだった。
信子は「はあ……」と軽いため息をつき。後輩女子に、淡々と答えた。
「そうね、たまには付き合ってもいいかしら。あなたには、いつもよくしてもらってるしね」
後輩女子はそれを聞き、「ほんとですか?! ありがとうございます、ありがとうございます!!」と、信子に何度も頭を下げた。地道に貢ぎ物を届けてきた日々が、報われた思いだった。
こうしてわざわざ、あたしにお願いしに来るほどの2年生……。いったいどんな子かしらねと、信子は密かに、胸がわくわくするような感触を覚えていた。
それから、数日後。信子は「陳情」に来た後輩女子とその仲間と共に、「ウワサの2年生女子」との待ち合わせ場所に向かった。冷たい風がシートの隙間から吹き込んでくる、取り壊し中のビルの3階という「いかにも」な場所で、その女子は信子たちを待っていた。
信子を含め、6名の「大所帯」で来た信子たちに比べ、赤毛の2年生女子は、たった1人でそこに立っていた。信子は内心、『へえ~……』と感心していた。相当ヤバいっていうウワサは、どうやら本当のようね、と。
「センパイ、なんか用っすか? こんなとこまで呼び出して。工事中で階段しかなかったから、もう、足がガクガクっすよ」
ヘラヘラと笑いながら、2年生女子はおどけた口調で、そう啖呵を切った。一応敬語らしきものは使っていたが、2年生女子が後輩女子たちを「ナメきっている」のは間違いなかった。……まあ、確かに「クソ生意気」なのも間違いなさそうね。信子がそう思っていると、後輩女子は「ふふふ……」と不敵に笑い。
「そんな口がきけてるのも、今日までだよ。それを今、思い知らせてやる。……信子さん、お願いします!!」
そう言って後輩女子は、信子に深々と頭を下げた。後輩女子の仲間たちもそれに倣い、信子は「やれやれ……」と思いながら、ゆっくりと前に進み出た。その信子の姿を見て、2年生女子は「へっ?!」と素っ頓狂な声をあげた。
「ありゃ、センパイたちの『隠し玉』ってなんなのかと思ってたら、極めて一般ピーポーなJKのご登場っすか? 確かに意表は突かれましたけどね、でもこの一般JK、大丈夫っすか? 何の警戒心もなく、あたしの前に出て来たりして……」
そう言うと、2年生女子は「ばっ」と上着を脱ぎ捨て、上半身はブラだけの姿になった。さっきから風が吹き込んで来てるのに、寒くないのかしらねと、信子が心配していると。2年生女子は、信子に向かって「ぐっ」と左手を突き出した。
「わかるかい? 手首と、二の腕と、それから肩にも、鎖骨の下にも。何本も赤い傷跡が刻まれてるだろう? これはね、あたしが小さい頃からずっと、自分に付けて来た傷なんだ。あたしはそうやって、刃物で自分を切り刻み、血を流しながら生きてきた。だからあたしに、怖いものなんかない。いつ死んだって構わないと思いながら、生きてきたんだからね!!」
その、白い肌に幾重にも、何か所にも刻まれた生々しい傷跡を見て、後輩女子たちは「ビビって」いるようだった。……なるほど、ね。確かに迫力というか、凄みはあるわね。見たところ、傷が重なってる部分もあるのは、同じところに何度も切りつけたってことね。そういう度胸は、確かにあるんでしょうね……。
「何年か前に、あたしみたいに体中傷つけてた女子高生がさ、ラブホテルで自分の首をかき切って死んだっていう事件があったんだよね。その女子高生は、血まみれのベッドで、安らかな笑顔で死んでたっていうんだ。凄いだろ? ホテルで何が起きたのかはわからないけど、きっと、何度も何度も死のうと思って、死ねなくて。やっと死ねるってわかったから、安らかな顔だったんだよ。その女子高生の生き方に……あれ? 死に方かな? まあいいや、とにかく、あたしはずっと憧れてるんだ……!」
2年生女子は信子の前で、遠い目をしながら、熱くそう語った。
……この子にも一応、「憧れの人」がいるのね。まあ、赤の他人が死んだ時の気持ちとか、わかるはずもないし。この子が頭の中で作り上げた「偶像」なんでしょうけど……。
信子のそんな思いを他所に、幾重にも傷跡の残る左手を、更にぐっと前に突き出し。2年生女子は語り続けた。
「だからあたしは、自分を傷つけることをやめない。その女子高生みたいになりたいからさ。あんたにも出来るかい? いつ死んでもいいって、覚悟はあるのかい??」
やはり風の感触が冷たいのか、ブラだけになった上半身に鳥肌を立てながら、威勢のいい言葉を吐き続ける2年生女子に向かって。信子は表情を変えることなく、いつものように、淡々と歩み寄った。
「いつ死んだって、構わない……。それ、ほんと?」
思いもしない信子の質問に、2年生女子が「え?」と口にした瞬間。信子は、2年生女子が突き出していた左手を、「がしっ」と掴むと。風が吹き込むシートの方、つまり本来は建物の「壁際」だった場所に、2年生女子を強引に引っぱりこんだ。壁は工事により完全に取り壊されており、今や壁際ではなく、3階から下を見降ろす「崖っぷち」になっていた。
「おい……おい?!」
信子は2年生女子の戸惑いに一切構わず、掴んだ左手を振り回すようにして、2年生女子の体を崖っぷちの「向こう側」に押し込んだ。
「わあああああああ!!!」
2年生女子自身も、後ろで見ていた後輩女子たちも。2年生女子が「そこから落ちた」と思って、思わず目をつぶった。だが、信子は掴んだ左手は放しておらず、ピン! と張った左手を、「ぐいっ」と自分の方に引き寄せた。
体を引っ張られた2年生女子は、両手で必死に信子にすがりつこうとした。が、その瞬間信子は、掴んでいた左手を「ぱっ」と放した。
「わああああああああああ?!!」
今度こそ、自分は「落ちた」と思った2年生女子だったが、その前にかろうじて信子が、女子の左手を捕まえ。なんとか落下を防いでいた。
2度に渡って続けざまに、「崖っぷちから落とされる恐怖」を味わった2年生女子は、その後信子によって、「壁の内側」へと引き寄せられ。その場にぺたりと尻をつき、涙目になって、「はあ、はあ」と荒い息をついていた。
そんな2年生女子に、信子は「淡々とした口調」で言い放った。
「……わかった? 迂闊に『いつ死んでも構わない』なんて人前で口にしたら、『じゃあ、今すぐ死ねばいいじゃん』って考えて、それを即座に実行する人が、世間にはいるから。これからは、自分の言うことに十分気を付けた方がいいわよ」
そう言って信子は、2年生女子にくるりと背を向け。唖然とした表情でここまでの経緯を見守っていた後輩女子に、「これで、良かったかしら?」と告げると。2年生女子と後輩女子たちをその場に残し、淡々と、1人で階段を降りて行った。
壁際に座り込んだままの2年生女子は、「うっ、うっ……」と嗚咽をあげて、泣きじゃくり始めた。後輩女子は慌てて2年生女子に駆け寄り、「よしよし」と赤く染めた髪を撫でてあげた。
「わかったろ? この世には、どうあがいたって勝てるはずのない、とんでもない奴がいるんだよ。これはあたしの勝手な想像だけど、もしあそこであんたが逆らう素振りを見せたら、あの人ほんとに、あんたをここから突き落としたと思うよ。そのくらいのことは、平気でやる人だからね。
でもまあ、これであの人の『怖さ』を知ったっていう意味で、あんたはもう、あたしと同じ、あたしの仲間だ。服を着て、なんかあったかいものでも飲みに行こうよ」
2年生女子は、後輩女子に手を添えられて立ち上がり、「すいません、すいません……」と泣き続けていた。取り壊し中のビルを出てもまだ、涙が止まることはなかった。
この信子との衝撃的な出会いが、2年生女子にとって「人生の転機」になった。それからは、むやみに「死にたい」などと思わず、後輩女子と一緒に、信子に貢ぎ物を届ける高校生活を送り。卒業後は専門学校へ進み、手に職を付けることにした。
そして、専門学校に入ってから、しばらく経ったある日。見知らぬ大学生から、声をかけられた。「ナンパかよおい」と思ったが、その大学生は自分のことを知っているらしかった。心理学か何かを専攻していて、自傷行為を行っていた女子に直接話を聞きたいらしい。
自分はもうそういうことはやめたんですけどね、「ある人」の影響で……と、正直に話すと。大学生は、その「ある人」に興味を持ったようだった。緊張しながら、卒業以来久し振りに、信子と連絡を取り。これが、信子と星野真一との、「運命の出会い」に繋がったのだった。
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