信子の背後にいた一朗も、「表を向いたメモ」に気付き、「はあ??」と素っ頓狂な声を出していた。信子は、夫の「意外な行動」に、どうしたものかとオロオロしているようだった。



「……表と裏をお間違えになったんでしたら、やり直してもいいですよ。ただ、同じ数字を書くかどうかは、あなたの判断にお任せしますが……」


 健吾は、真一の様子を伺いながらそう言ったが、真一に書き直すような気配はなかった。むしろ、今度は逆に、真一が健吾の様子を伺うように、キッパリと言い放った。



「……いや、このままでいい。君は、『パーフェクト』を目指しているんだろ? 私は、君のその自信を信じる。しかも、一度やって感覚を掴んだ後の、2回目だ。『0』になる可能性は、限りなく100%に近い。ならば、隠す必要もないだろう?」



 真一の言葉に、健吾は唖然とするしかなかった。ここまでの展開も、真一の幾つかの問いかけも、全て「想定内」だったのだが。「こんなこと」が起きるとは、1ミリも予想していなかった。それゆえに健吾は、1ゲーム目で指を刺してしまった時よりも、明らかに動揺していた。


「そ、そうですか。あなたがそれで宜しいのなら……このまま、2ゲーム目を始めますが。本当に、いいんですか?」


 健吾の言葉を受け、真一は「こくり」と大きく頷いた。

「ああ、いいよ。始めてくれ」



 健吾は「それでは……」と言いながら、テーブルに置かれたピックを持ち上げたが。それを振り上げた時、自分の胸の鼓動が、バクバクと高鳴っているのに気付いた。思いもしない展開になって、動揺している……だけじゃない。これは……これは、俺がメモの数字を見て、こいつの態度を見て。「プレッシャー」を感じているのか……?!



 すべては、真一の言った通りだった。健吾はこのゲームで「パーフェクト」、一度も刺さないことを目指している。そして、ついさっき1ゲーム目を終えたことで、テーブルに置かれた2人の手の「感覚」も掴んでいる。指を刺す回数が「0」になる確率は、100%に近い。だが……もし、こいつの予想が「外れたら」? 俺が、自分かこいつかどちらかの指を、一度でも刺してしまったら……??


 そう考えると、健吾の緊張感は増していくばかりだった。……このゲームには自信があると、自分で言い切った。それを受けて、こいつは「0」を予想し、それを俺に見せつけた。「もう、失敗なんか、しないだろ?」とでも言うように。……その通りだ。ここで一度でも刺してしまったら、俺は笑い者だ……!!



 ピックを握った健吾の右手に、「じわり」と汗が滲み始めた。こんなことは、ここ数年経験していなかった。健吾はそのままゲームを始めようとして、慌ててピックをテーブルに置き、服の裾で手の汗を拭った。


 ……何やってんだ。汗ばんだ手で、ゲームをやろうとするなんて。少しでも滑ったら、間違いなく指を刺すぞ。「パーフェクト」なんて出来っこないぞ……?!



 健吾は目を閉じ、深呼吸をするように大きく息をつき、集中を高めようと試みた。そして、手の汗がいくらか引いたことを確認し、もう一度ピックを握り直した。


 ……やってやるよ。「パーフェクト」を、やってやる!!



 信子も一朗も、テーブルを挟んだ2人の間に流れる空気が、先ほどとは変わってきていることに気付き始めていた。何か、ヒリヒリするような緊張感が漂う中、健吾は宣言した。


「……では。2ゲーム目を、始めます」


 健吾はゆっくりと、ピックを振り下ろした。だが、健吾は予想外の展開に動揺するあまり、気付いていなかった。自分がいつの間にか、「追い詰める側」から「追い詰められる側」に、変化しつつあることに。



 最初の1往復目は、先ほどと同じく、ゆっくりとしたペースで始め。そして2往復目に入るや否や、健吾は先ほどよりスピードを上げて、ピックを移動し始めた。それは明らかに、健吾が「ムキになっている」と言える様だった。



 カツカツカツカツ、カツカツカツ……!!



 だが、2往復目を始めてすぐ、「スピードが速すぎる」ことに、健吾の体が感づいた。頭で考えるのではなく、幾度となく同じことを繰り返し、「体で覚えていた感覚」が、今の健吾の動きに違和感を覚えたのだ。体は「速すぎる」と訴え、頭の中は「やってやる!」という無我夢中な想いが支配していた。健吾の頭と体が、同じベクトルを向かなくなっていた。


 その影響は、すぐに表れた。2往復目の半分もいかないうちに、健吾はまず、自分の中指にピックを刺してしまった。「くう……!」ピックは中指の真ん中辺りに突き刺さり、健吾は痛みをこらえながら、次に真一の指の間を刺そうとしたが、これも狙いが狂い、ピックは真一の薬指に突き刺さった。真一が「ぐっ……」と痛みをこらえている表情を見て、健吾は自分も痛がってはいられないと思い、先ほど刺した「自分の中指」に注意を向けてしまった。それがまずます狙いを狂わせることになり、今度は薬指の付け根あたりに、ピックの先が「グサリ」と突き刺さった。


「ぐわぁっ……!!」


 指の付け根の「柔らかい部分」を刺してしまい、健吾は思わず左手をテーブルから離し、持っていたピックも投げ捨てるようにして、右手で刺された指の付け根を押さえた。




 少しの間、激痛にうめいていた健吾だったが、そこで自分を見つめる視線に「はっ」と気が付いた。目の前にいる真一も、傍らにいる信子も、そして一朗も。「どうしたんだ、お前?」とでも言いたげな視線を、自分に浴びせている。……さっきまで自信満々だったのに、その情けない姿は、どういうことだ……?!!


 健吾はその場を取り繕うかのように、慌てて話し始めた。


「に、2ゲーム目はこれで終わりです。あなたの予想は『0』でしたから、一度僕が刺してしまったところで、『ゲームオーバー』ですからね。これで、僕の『2勝』になりました。僕の勝ち越しが決まったわけです……!」



 だが、この健吾の「勝利宣言」には、一朗ですらも「納得いかない」様子だった。確かに、3往復すると言ったのに、2往復もしないうちにやめてしまった。それでも、真一が2回続けて予想を外したことは間違いない。「俺の勝ち」で、ゲームは終わりだ……!!


 そんな思いを胸に、健吾が顔を上げ、真一を見ると。真一は、動揺しまくっている健吾とは裏腹に、ソファーにずっしりと腰を据え、微動だにしていなかった。それは、テーブルに置かれたままの、真一の左手も含めてだった。真一は健吾に向かって、静かに言葉を吐いた。


「……今のは、ノーカウントだろう。3往復しなかったんだからね。3往復目まで行けば、辞めた時点ですでに3回刺していたし、さっきの君の状態からすると、『6回以上』刺していたかもしれない。6回以上なら、『私の勝ち』だろう? それがわからないまま終わってしまったんだから、ノーカウントにせざるを得ないと思うがね。……君は、どう思う?」


 そう言って真一は、今度は脇にいる一朗の方を見た。一朗は、「えっ、俺?!」と戸惑いながら、なんとか返答を絞り出した。



「そ、そうっすね。6回刺したらあなたの勝ちっていう、約束でしたもんね。途中でやめちゃったし、やっぱりノーカウントにした方がいいっすよね……?」


 言い終えてから一朗は、恐る恐る健吾を見た。健吾は、「余計なこと言いやがって」と言いたげに一朗を睨みつけていたが、真一の言ったことへの反論は、健吾にも思いつかなかった。……まだやるのか。本当に……??


 健吾は、一日に2回以上も自分の指を刺してしまったことで、自信喪失状態に陥り、勝ち越した時点で「一回戦で終わりにしよう」と考えつつあったのだが。ノーカウントを宣言した真一に、テーブルに置いた手を動かす様子はなかった。それはすなわち、「ゲームを続けよう」という、紛れもない意思表示だった。




「そ、それじゃあ……わかりました。今のはノーカウントということにして、2ゲーム目を再開します。宜しければ、今の結果を踏まえて、もう一度予想して頂いても……」


 健吾の言葉に従い、真一は再び膝の上でメモに書き込み、そのメモをテーブルに置いた。しかしメモは、先ほどの再現のように、数字が書かれた面が表を向いており。そして、これも繰り返しかのように、数字の「0」が書き込まれていた。



 健吾は思わず、ソファーから立ち上がって叫んだ。

「な……なんでそうやって、数字の方を上にしてるんですか?! 数字を伏せて置いて下さいって、説明したでしょう? ルールは、ちゃんと守って下さい!!」


 激高し、声を荒らげる健吾に対し。真一は、落ち着き払った声で答えた。


「裏に伏せておくっていうのは、予想した数字を君が知ることで、指を刺す回数を操作する可能性があるからだろ? つまり、『私に有利なルール』だ。それを放棄することに対し、君から反論される言われはないと思うがね……?」


 真一の「正論」に、健吾は絶句していた。何も言い返す言葉が思い浮かばなかった。いつの間にか、「はあ、はあ」と息が荒くなり、額にも汗が滲んでいた。……どういうことだ、なんでこうなっちまったんだ? なぜ俺は、こいつの言いなりになってるんだ……??



 しかし、言い返す言葉が見当たらない以上、健吾はゲームを続けるしかなかった。自分から言いだした、この「スリルに満ちたゲーム」を。


「わ……わかりました。そこまで言うんでしたら、このままゲームを続行します。あなたの予想は、『0回』。それでいいんですね?」


 健吾は、これが最終確認だと言わんばかりに、真一を睨みつけた。真一は尚も落ち着き払ったまま、静かに頷いた。健吾は仕方なく、テーブルに投げ捨ててあったピックを握りしめた。……ダメだ。手が汗でビッショリだ。健吾はもう一度、服で手のひらを拭ったが、何度拭っても汗は引かなかった。真一も、信子も、一朗も。健吾の様子を、じっと見つめている。健吾はもう、後には引けなかった。「やるしかない」。健吾は諦めたように、汗ばんだ手のまま、ピックを握り直した。



 このまま始めても、「パーフェクト」など達成出来るはずがなかった。それは、ゲーム上では健吾の「勝ち」を意味するが、同時に違う意味で、健吾の「敗北」でもあった。このゲームには自信があります。滅多に失敗などすることはない。自分は、パーフェクトを目指す……! 自信満々に語った言葉の全てが、自分自身に突き刺さっていた。恐らくこのままでは、パーフェクトなど出来っこない。ならば、いま自分に出来ることは……3往復目までやり通して、指を刺す回数を、「5回以下」に留める。それしかない……!!



 健吾は、「すう……はあ……」と、何度も息を吸い、大きく吐き出した。少しでも気持ちを落ち着けてから、ゲームに臨みたかった。大丈夫だ。3往復させて、6回以上刺さなければいい。それで、「終わる」んだ……!!


 完全に追い詰められていた健吾は、自分が「早くここを立ち去りたい」という、この家に侵入した時とは全く正反対の心境になっていることに、まだ気付いていなかった。それだけ健吾の動揺は激しく、思考は混乱しきっていた。


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