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健吾は汗に濡れた手を掲げ、ピックを振り下ろした。……大丈夫だ。最初の一往復を、ゆっくりと、確かめながらやればいい。2往復目からは、徐々にスピードを上げていけばいいんだ。最大スピードでやる必要なんてないし、俺が出来るスピードのMAXがどのくらいかなんて、こいつにはわかりっこないんだからな……!
自分にそう言い聞かせがら、健吾は慎重にピックを移動させた。1往復目が終わりに近づき、再び心臓が早鐘のように鳴り始めた。さあ、スピードを上げるぞ。焦らず、徐々に徐々にだぞ。一気に上げなくていいんだぞ……!
カツ・カツ、カツ・カツ……
それは、1ゲーム目とノーカウントになった2ゲーム目と比べると、明らかに「ゆっくりとした動き」だった。目にも止まらぬ速さでもなんでもなく、健吾は指と指の間を確かめるように、ピックを突き立てていった。緩めのペースが功を奏して、2往復目はそのまま、どちらの指も刺さずに済んだ。よし、もう一往復だ。半分まで行けば、「6回以上刺す」ことはないだろう……!!
健吾はそう考え、3往復目も顕著にスピードを上げはしなかった。そして、3往復目の「復路」に差し掛かるところで、ようやくスピードを上げた。だが、完全にペースが狂ったピックの動きは、身体に染みついたものとは全く違っていた。復路が終わるまでに、ピックは健吾の指を2回、真一の指を1回刺した。計、3回。真一の予想は外れ、6回以上刺すこともなかった。2ゲーム目も、健吾の「勝ち」に終わった。だがこの結果は間違いなく、健吾の自信を打ち砕く、「完敗」でもあった。
「私の2敗、負け越しということだね。仕方ない。すぐに、『2回戦』を始めるのかね……?」
尚も落ち着き払ってそう言う真一に、何か言い知れぬ違和感を覚えながら。健吾は力なく「いえ……」と答え。ゲームを終えて以来、ソファーにぐったりともたれていた体を、ゆっくりと起こした。
「2回戦は、やりません。これで、終わりにしたいと思います。僕の勝ち越しということで、僕自身も満足しましたし。……宜しいですね?」
そう言って健吾は、「ちらっ」と真一の様子を伺った。さっきのように、「それは、私に有利なルールだろう?」と反論されるのではないかと、警戒しながら。
「ああ、もちろん。ゲームを終えることに関しては、私に異論はないよ。だが、仕方ないね。私の負けが決まった以上、好きなものを持っていくといい。私たちも、警察に通報しようなどとは考えないから、安心してくれ」
真一の返答を聞いて、健吾は「そう……ですね。そうさせてもらいます」と、言葉を返すのがやっとだった。ノーカウントになった2ゲーム目と、なんとか完走した3ゲーム目で、健吾は肉体的にも精神的にも、疲労困憊していたのだった。
すると、「それじゃ、早速」と言いながら。一朗は、信子の座っているソファーの前方に回り、手足を縛られた信子を、ソファーに押し倒した。
「えっ……?!」
信子が怯えたように、自分を押し倒した一朗と、そして健吾の方を見た。健吾は、明らかに何かを訴えようとしている信子の視線を無視して、ソファーから立ち上がった。
「へへへ……さっき胸を揉んでからもう、ずっと我慢してたんだよ。たまんねえなあ」
そう言って一朗は、信子が着ていた部屋着を、強引にひっぺがそうとした。
「いや……やめて!」
手首を縛られているので、思うように抵抗できない信子は、身をよじるようにして一朗をはねのけようとしている。
「おい、やめろ! どういうことだ? 私にも妻にも、危害は加えないんじゃなかったのか?!」
縛られた足で、必死に信子と一朗がいるソファーに近づこうとしながら、真一は健吾に向かって叫んだ。しかし健吾は、何を今さらとでも言うような様子で、ポツリと呟いた。
「変に抵抗しなければ、暴力を振るったりはしませんよ。彼の目的は、奥さんを痛めつけることじゃありませんから。彼の求める『お宝』が、奥さんだったということです。素直に受け入れてもらえれば、ケガをするようなことはありませんから」
「何を……そんな、馬鹿な……」
健吾が一朗を止めるつもりがないことがわかり、真一は手足を縛られたまま、一朗にタックルして信子を守ろうと試みた。だが自由の効かない体ではいかんともしがたく、一朗は「邪魔だよ!」と真一を突き飛ばした。
「ですから、変に抵抗しなければ、あなたも奥さんも、ケガはしませんから……」
そう言って健吾は、応接間の壁際にあった、ガラスケースに歩み寄った。
だが、この家の「お宝」を持ち帰ることなど、今の健吾にはどうでもいいことだった。強引に押し入った家で、無様な「失敗」を見せてしまったことで、一刻も早く立ち去りたいというのが本音だった。
一朗の行動も、普段の冷静な健吾なら、「やめとけよ」と諫めていたかもしれない。だが、これまで見せたことのなかった得意技の失敗を、一朗に見られてしまったという「負い目」から、ここは一朗の好きにさせてやった方が、後々面倒がないと考えたのだ。抵抗しなければ、それだけ早く終わる。だから無理に抵抗せず、さっさと終わらせてくれよな……。それが、健吾の正直な心境だったのだ。
そしてやはり、自分のペースで進めるはずだった「ゲーム」の主導権を、途中から完全に真一に握られてしまったことへの、悔しさもあったかもしれない。何かやり返してやりたいという、子供じみた復讐心が、一朗を止めることより勝っていたのかもしれなかった。
そんな心境だったので、健吾は一応、ケースの中身を見るような「素振り」だけをしていたのだが。それまで気付かなかったが、ふと横を見ると、応接間と隣接した部屋との間に、別の部屋への入口のような扉があることに気付いた。家の造りからして、何か不自然な位置に作られた扉に、健吾は興味を惹かれた。
これはなんだろうと、その扉の前に健吾が立つと。それまで必死に一朗を止めようとしていた真一が、健吾の方を振り向き。健吾を諭すかのように、「その扉」について語り始めた。
「出来れば、その扉は……扉の中は、無視してくれると有難い。勝手なお願いだということは、重々承知しているが。どうかそのまま、見なかったことにしてくれないか……?」
そう言われて、健吾は「扉の中」に、余計に興味が湧いて来た。無視してくれると有難いって、どれだけの「お宝」がこの中にあるんだ……? ゲームの緊張感から解き放たれた今、健吾はもう、真一の言いなりになるつもりなどなかった。健吾は自分の欲望に従い、扉のドアノブに手をかけた。
「これが、最後だ。その向こうには、行かない方がいい。これは、君のためでもあるんだよ……?」
真一のその声を背後に感じながら、健吾は振り向くことなく、ゆっくりと扉を開けた。「俺のためでもある」って、どういう意味なんだ。この中に、いったい「何が」あるんだ……? 健吾は自分の中に湧き上がった好奇心を、抑えきれなかった。
扉から入ってすぐに電気のスイッチがあり、それを付けると、扉の向こうは行き止まりになっていて、その代わりに、地下へ続く階段があるのがわかった。
金持ちの家のことだ、いざって時のためのシェルターでも作ってるのか……? 家の中とは様相を変え、コンクリートで固められた狭い階段と両側の壁は、そんな「閉ざされた場所」のような雰囲気を漂わせていた。健吾が階段を降りていくと、その突き当りに、更に鉄製のガッチリとした扉があった。
ほんとにこれは、シェルターなのかもな。放射能とか通さない造りになってるのかも……。健吾はそう思いながら、鉄製の扉に手をかけた。その途端、健吾の背中に「ゾクッ」とした悪寒が走った。何か本能的なものが、「この先には、行ってはいけない」と忠告しているかのようだった。
しかし健吾は、その忠告が真一の言葉と同じ内容だったことで、従わずに無視してしまった。健吾は、「ぎいぃぃぃぃぃ……」ときしむような音を立てる鉄の扉を、静かに押し開けた。
扉を開けた途端、もの凄い異臭が、健吾を襲った。これは本当に「行かない方が良かった」のかもと、少し後悔しながらも。健吾は、その異臭の正体がなんなのかと、扉の脇にあった電気のスイッチをオンにした。
最初は、目に入ったものの正体が、わからなかった。だが、電気が付いたのと同時に、地下室の四方から、「ううう……」という呻き声のようなものが、幾重にも漏れ聞こえて来た。……これはなんだ? ここは一体、「何の場所」なんだ……??
健吾が恐る恐る、地下室に足を踏み入れると。地下室の壁に見えたものは、鉄製の柵が付いた「檻」だとわかった。呻き声は、その檻の中から聞こえてきている。檻は地下室の壁沿いに、右側と左側に3つずつ作られていて。部屋の中央には縦長のテーブルと、鉄製のイスがあった。そのイスには、よく見ると、手足を拘束するためのベルトが巻きつけられており。そしてベルトの端々には、こびり付いたような、ドス黒い鮮血が滲んでいた。
……これは、ヤバい……!!
健吾は、先ほどの「本能的な忠告」が、本物だったのだと悟った。今すぐ、逃げた方がいい。そう思った瞬間、檻の方から「がっしゃーーーん!!」という衝撃音が響いて来た。檻の中で呻き声を上げていたものが、誰が地下に降りて来たと察したのか、檻の鉄柵に突進してきたのである。
「う、うわあああああああ!!」
健吾はたまらず、悲鳴を上げていた。鉄柵に突進して来たのは、間違いなく「人間」だと思われたが、その見てくれは、人間の様相を呈していなかった。
頭髪がほとんど抜け落ちた頭部は、皺がれた皮膚に覆われていて、両目は縫い付けられて塞がっており、口もまた同じように、しっかりと上下に縫い付けられていた。ほぼ全裸に近い体は、あばら骨が浮出るほど痩せこけ、それでいてお腹だけは妙に「ぷくん」と膨らんでいる様は、古い書物に描かれた「餓鬼」のように見えた。
その「人間もどき」は、檻の中から助けを乞うように、健吾に向けて必死に手を伸ばそうとしていた。鉄柵の隙間は狭く、伸ばした腕は肘から先しか檻の外に出なかった。その「助けを乞う手」を見て、健吾は思わず後ずさった。その手には、指がなかった。5本とも、その付け根から切断されていた。
「うぁぁぁぁ。うぁぁぁぁぁ!!」
「ぬあぁぁ、ぬわあぁぁぁぁぁぁぁぁ」
気が付くと、6つある檻のほとんどから、同じように「肘から先」の手が伸び、助けを乞う「叫び」をあげていた。その腕は、どれも同じように痩せこけ、指が5本ともないもの、親指だけがかろうじて残っているもの、3本は残っているがその爪が3本とも剝がされているもの……と、様々な状態になっていた。その全てが口を縫い付けられているわけではなかったが、どの檻の中からも同じく、「言葉」らしきものは聞き取れなかった。
……ダメだ。ここにいてはダメだ……!!
健吾は急いで、鉄製の扉を抜け、階段を駆け上がろうとした。すると一階から、「ぐわあっ!」という、一朗の悲鳴が聞こえた。
「やめろ……おい、やめろ!!」
一朗の声は、次に聞えた「ぐえっ」という嗚咽と共に、そこで唐突に途絶えた。
一朗、どうした一朗?! 健吾がポケットから警棒を取り出し、階段から応接間に飛び出そうとした、その刹那。足の脛に激痛を感じ、「ぐわっ!」とその場に倒れこんだ。
「脛を打つのが、やっぱり一番効果的だね。痛みに思わず屈みこむし、足を押さえて顔ががら空きになるからね。そこで、これも君への『お返し』だ」
倒れこんだ目の前には、ゴルフのアイアンらしきクラブを持った、真一が立っていた。「お返し」という言葉の意味を、健吾が理解する前に、大きな拳が健吾の顔面を直撃し。健吾はそのまま、気を失った。
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