第3話 初めての危機!?

 授業中の教室は、休み時間の喧騒が嘘だったみたいに静まり返る。聞こえるのは教師の淡々と説明する声と、シャーペンを走らせるカリカリという音だけだ。

 でも、そんなの退屈だ。ボクは延々と続く授業に飽き飽きして、ふと俊樹の方を見た。


「……」


 彼は真面目に授業を聞いているようだった。その視線は真っ直ぐに黒板に注がれていて、時折手先が動き何事か書き留めている。

 彼は成績優秀者だ。具体的には、学年でトップ10に入るくらいには。

 だからボクはよく彼にテスト前に勉強を教わっている。つまり、彼が真面目に授業を受けているということはつまりボクの成績も伸びる、ということに他ならない。……のだが。


「つまらない。やっぱりあいつを揶揄って遊ぼう」


 せっかく女の子の顔を手に入れたのだ。活かさなきゃ損だ。ついでにあいつがボクに惚れてくれればラッキーだし。


 じっと俊樹を見つめていると、彼もこちらに気づいたらしい。けれど、すぐに蚊でも追い払うように手をしっしっと振られた。授業に集中しろ、と言いたいらしい。

 しかしボクは、そんな彼に優しく微笑みかけ、ひらひらと手を振った。


「……?」


 これこそ、二次元ヒロイン憧れの動作、目が合うと気さくに手を振ってくれる同級生女の子、だ。

 授業中、誰も見ていないのをいいことにこっそりと手を振ってくる女の子。主人公は、その動作に自分だけ相手と特別な絆を結んでいるような感覚になり、少し顔を赤く染めるのだ。


 さあ俊樹、恥ずかしそうに顔を赤らめろ!


 けれども、彼がただ呆れたような表情を浮かべるだけだった。というか、むしろ俊樹の後ろの席の男子たちが騒ぎ出した。


「おい、今見たか? 稲葉が俺に手振ってたぞ!」

「馬鹿、俺だって。あの優しそうな笑みは絶対俺に向いていたって!」


 馬鹿な事を言い口論をし始める彼らを、俊樹は馬鹿を見る目で見ていた。そんな彼に、「男って馬鹿だよね」というメッセージを籠めて肩をすくめてみせると、なぜか今度はボクを馬鹿を見る目で見てきた。


(後で話がある)


 俊樹の唇が動き、そんなメッセージが読み取れた。……なぜ、ボクが怒られる流れになっているのだろう。釈然としない気持ちのままで、ボクは授業を終えた。



「お前は馬鹿か! いらんことして誘惑してんじゃねえ!」

「ええー」


 休み時間になると、俊樹は開口一番ボクを叱った。


「お前みたいな見た目の奴が色香をふりまいたらロクなことにならないぞ。分かってんのか?」


 俊樹の高圧的な態度に腹が立ったボクは、少し反撃することにした。

 視線は上目遣いに。手を体の前で握り合わせ、できるだけ甘ったるい声を出す。


「でも……ボクは見ているのは俊樹だけだったんだけどな?」


 どうだ! ボクの精神攻撃を食らえ!

 けれど、彼はボクの望んだような反応は返してくれなかった。


「うえ、気持ち悪」

「な、なんだよー!」


 ボクは憤慨した。いつものように肩をバシバシ叩こうとしたが、思ったよりも肩が高くてやめる。


「いやいや、お前が見た目通りの美少女だったならまだしも、中身がお前だって分かってる状態でそれをやられてもなあ」

「くそお……」


 恥ずかしさを堪えてやったというのに、なんだか負けたような気分だ。そう思っていたが、ふと彼の言葉を思い出した。


「待って、中身がボクだって分からなきゃ効いたってこと?」

「……まあ、そうとも言う」


 俊樹は少し気まずそうに視線を逸らした。


「それってつまり、ボクのことを最初から女の子だと思ってる他の奴らにやったら、効果あるってことだよね! うおおおおお! ちょっと男引っ掛けてくる!」


 勢いよく走り出したボクだったが、しかし俊樹がその肩をがっしりと掴んできた。


「馬鹿かお前! 朝に忠告したばっかだろうが! 」

「離せ―! あんな恥ずかしい思いをしたんだから一人くらい男を堕とさないと納得できない! 他のやつで試して、男に戻るんだー!」


 じたばたするが、ボクの足は一歩も前に進まなかった。


「女としての危機感が絶望的にないお前がそんなことしたら目も当てられないことになるって! 朝も似たこと言ったよな!?」


 それは話し合い、というよりもボクが一方的に駄々をこねているだけだった。


「じゃあ俊樹はボクが男に戻れなくてもいいのかー?」

「それは……色々と困るが、だからといってお前が女のうちに致命的な間違いを犯すのも見てられないだろ。俺も調べるから、ちょっと待てって」


 諭すように言う彼は、いつも通り冷静に見えた。けれども、どこかその態度に違和感を覚える。ボクが他の人と交流することを恐れているような、そんな不思議な意図が見え隠れしている気がした。


「……なあ、俊樹」

「なんだよ」


 煮え切れない態度の親友に、ボクは素朴な疑問をぶつけた。


「お前、もしかして嫉妬してる?」

「…………は?」


 その時の彼の表情は、まるで生ごみの中に湧きだしたゴキブリを見るようだった。





「もう知らん、お前は勝手に男誑かした気になってろ」


 そう言ったきり、彼はボクと話をしてくれなくなった。


「なんだよー。あんなに怒らなくたっていいじゃないかよー」


 放課後になっても、彼はボクを無視したままだった。そのことにぶつくさ言いながら、ボクは帰り支度をしていた。既に外は橙色に染まっていて、カラスが鳴いていた。

 今日はあいつと一緒に帰れそうにない。久しぶりの一人での下校か。なんだか寂しいな。

 そう思っていたら、ボクに近づいてくる大きな影があった。


「よーっす、稲葉。一人とは珍しいな」

「ああ、鈴木。今日は帰りか?」

「ああ、バスケは今日は無し。体育館がバト部に使われてるからなー」

「ああ、体育館の部活は大変だよなあ。帰宅部のボクからしたら、みんなよくやるなーって感じだよ」


 自然に会話を交わす。昨日までと変わらない、男友達だった頃と変わらない会話だった。そのことに、ボクは内心安堵する。良かった。ボクが女になっても、男子は友達でいてくれるようだ。


 けれど、そんなボクの安堵は、あっさりと裏切られることになる。


「……鈴木?」

「稲葉さー、やっぱり親しみやすくていいよな。男子に対して壁がないっていうかさー」


 言いながら、彼は不自然に近づいて来た。彼の上背がボクの体に覆いかぶさるようにして立ちふさがり、夕暮れの日差しを隠した。


「あの、鈴木……?」

「今日もさー、授業中に目が合った俺に、手を振って笑いかけてくれたよなー。俺嬉しかったぞ」


 彼の顔が、ぐいと近づいてくる。その何気ない仕草が、不思議と今のボクには恐ろしいものに見えた。


「やっぱり、俺のこと好き?」

「なに、言って……」

「ああー、照れてる稲葉も可愛いなー」


 何か一人で納得したような態度を見せた鈴木は、気持ちの悪い笑顔を見せた。普通に話せていた鈴木が、突然宇宙人にでも変わってしまったような感覚が、ボクの全身を刺激した。


「なあ。手、握るぞ」

「ヒッ」


 耳に当たる生温かい吐息。全身に寒気が走った。やがて、ボクの手にぬめぬめとした気持ち悪い感覚が当たる。

 何か良くないことが起きている。そう直感したボクは、鈴木の顔を睨みつけてはっきりと告げた。


「鈴木、お前今日なんか気持ち悪いぞ! ボクの手なんか握っても面白くないだろ? ほら、どいたどいた。ボク今日は帰るから!」


 ボクの勢いに押されたように、鈴木が一歩下がる。その様子に、ボクは内心安堵する。

 けれど、彼は諦めなかった。


「おい稲葉」

「いたっ」


 ボクの肩が強く掴まれる。無理やり振りほどこうとするが、今の華奢な体ではそれすら叶わなかった。


「あんまり意地張ってると、無理やり俺のものにするぞ?」


 鈴木の目は、もはやギラギラという欲望を隠しもしなかった。クラスでそれなりに話して、人となりを知った気になっていた鈴木の豹変に、ボクは言い表しようのない未知の恐怖を感じた。


「だ、誰か……」


 いつの間にか、恐怖で声が掠れていた。違う、こんな情けない声、ボクのじゃない。けれど声は女の子のように高いままで、細い腕は鈴木の大きな体を押し返すことができなかった。

 鈴木の大木のような腕が近づいてくる。その手のひらは、ゆっくりとボクの顔のあたりに迫り――


「ゆうき」


 聞きなれた、親友の声がした。


「なっ……なんだよ秋山。なんで放課後の教室にお前がいるんだろ」


 俊樹は、冷たい無表情のままでこちらに近づいて来た。いつも冷静な彼らしからぬ態度に、鈴木もたじろいでいる。


「いや、俺の友人を置き去りにしてたから、迎えに来たんだ」


 その言葉を聞いて、ボクは恐怖に冷え切った体に熱が吹き込まれたように感じた。


「稲葉がどうなろうと、お前には関係ない話だろ? いつも話してるからって、稲葉のプライベートにまで口出すのか?」


 怯んでいた鈴木だったが、気を取り直したらしく猛然と言い募った。その様子に、俊樹は何事か考えるように黙り込んでしまった。

 気まずい沈黙が、放課後の教室を支配する。ボクは、固唾を飲んで親友の言葉を待った。時計の秒針が十回ほど鳴った頃、俊樹は重々しく口を開いた。


「いいや、関係ある。――こいつは、俺の彼女だ」


 ……? ……はあああああああああ!?


 内心ツッコミの嵐だったが、この状況で口に出すのもまずい気がしたので、ボクは黙っていた。ボク賢い。


「なっ……お前ら、距離が近いとは思ってたけど付き合ってたのかよ!?」


 鈴木の動揺は凄まじかった。青ざめたかと思うと、何事か言葉を出そうと口をパクパクする。けれど言うべきことは見つからなかったらしく、しばらくそのまま金魚のような恰好をしていた。


「なあ、ゆうき。俺たち、付き合ってたよな?」


 寒気のするようなセリフを言って、俊樹はボクに問いかけてきた。よく見ると、笑顔を作っている頬はひくひくしている。おそらく彼も、自分のセリフに寒気を感じているのだろう。


「そう、だな……」


 もはやこの状況で否定することなどできるはずもなかった。ボクは渋々頷く。


「そうか……いや、すまなかった」


 ボクの言葉を聞いた鈴木は、大きく肩を落とした。実に憐れな姿だ。けれどそんな彼を見つめる俊樹の目は相変わらず鋭いままだ。


「秋山」

「なんだ」

「お前の彼女に、勘違いさせるような素振りをするのはやめておくように言ってくれ」

「ああ」


 俊樹は、極上のスマイルを浮かべた。


「絶対に忘れないように、頭に刻み込んでやる」


 まるで獲物を見つけた狩人のように、彼は笑っていた。

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