暗闇の中に

ケン・チーロ

第1幕

 第一幕 ビルガ 

 ◆

 暗闇の中に、私はいた。

 手に持っている懐中電灯の明かりだけを頼りに、闇の中を私は進む。

 その懐中電灯の光源は豆電球式の古いタイプで、最新のものと比べると自分の数メートル先しか照らし出さない、なんとも頼りない明かりだったが、それでも私にとっては一歩でも先に進むのに絶対に必要な明かりだった。

 私には確信があった。

 この闇の先には『聖域』があると。

 ここに至るまでには、幾つかの大きな出来事が重なった。

 初めて訪れた、東洋の小さな島。そこで遭遇した、想定外の天災。

 当たり前の日常は失われ、何の術もないまま不安と焦燥だけが募る日々。

 その時、ふと目にした写真。

 そして……

 その全てが偶然ではなく、偉大な神の、大いなる意志による導きだったのだろう。

 私は今でもその全ての瞬間を、鮮明に思い出すことができる。

     

 それは私が入国審査を終え、手荷物受取場所に向かおうとした、その瞬間だった。

 あちらこちらから、不快な電子音が一斉に鳴りだし、耳障りな不協和音が入国審査室に満ちた時だった。

 いきなり足元からドンっと大きな音と共に衝撃が伝わり、身体が浮いた。次に気づいた時には、床に四つん這いになっていた。何が起きたのか分からず周囲を見たが、多くの人々も床に這っていた。そして天地がひっくり返る強烈な揺れが襲ってきた。

 ――地震だ。

 母国でも数回地震を経験したが、この揺れの大きさはその時の比ではない。

 体を丸め後頭部に手を回し、床に伏せたが、身体が右へ左へと大きく揺さぶられる。床は波打ち、今まで聞いたことのない轟音と、断末魔を思わせる悲鳴が恐怖を増大させる。

 生きた心地がしない時間が、永遠に続くと思われた。

 やがて揺れが収まっていき、耳に届く音も騒々しさが減っていった。時折頭上でガチャガチャと金属がぶつかる音が鳴っていたが、それも時期に収まっていった。

 顔を上げ、また周囲を見渡す。気色を失くした表情の多くの人たちが、私と同じように周りを見渡していた。

 轟音に満ちていたのが幻だったのか、今は物音ひとつない静寂が空間を覆っていた。

 そして見上げると天井の照明は消えていて、周囲が薄暗くなっているのに、初めて気づいた。


 旅先で足止めを食らった私や多くの人々は、仕方なく機能を喪失した空港で数日過ごすこととなった。

 文化も習慣も宗教も異なる遥か東方の異国での非常事態に、私は気が滅入り、そして心細かった。だがこの国の人たちは、懸命にも支援の手を差し伸べてくれた。

 成熟した文明国だと知ってはいたが、異教徒の私にも配慮を怠らないその細かい気配りに、感動すら覚えた。

 それでもやはりストレスを感じたのも確かだ。最大のストレスは、数日経っても通信網が全く使えないことだった。母国にいる家族や友人への連絡。今この地で何が起きているのか、そしてこの状態がいつまで続くのか。

 それまでスマホひとつで簡単にできていたのができない状態に、余計に苛立ちが増していた。情報は到着ロビーに置かれた大型テレビだけで、映像はこの島の惨状がループして流れ、当然知らない言葉が聞こえてくる。

 画面の上段には英語や中国語でのテロップが流れていて、偶に現れる英語のインフォメーションだけが情報源だった。

 だがそのインフォメーションで得られるのは、停電や通信の完全復旧にはあと数日から数週間要する見込みとか、ネガティブな情報しか流れてこない。唯一ポジティブな情報と言えば、港の被害は軽微で船便への影響は少なく、物資や人員などの物流は確保されているとのことだったが、私にとっての有益な情報とは思えなかった。

 空港から出られず、ストレスの溜まっていた私は、多くの人たちがしていたように、あてもなく空港の中をうろうろと徘徊していた。

 そんな時、ロビーの片隅にあったこの国の新聞を手にした。奇妙な文字で縦に書かれている新聞は、異国と言うより異世界、もしくは別の惑星の新聞に思えた。

 近くのソファに座り新聞の日付を見る。西暦の日付によると、ここに来る五日前の古新聞だった。

 文字も読めず何が書いてあるか分からないが、写真なら意味が分かる。

 最初の紙面には、人物写真が多く掲載されていて、おもしろくもなかった。

 数枚捲ると二頭のイルカが水面近くを並んで泳いでいる写真があった。普段なら気にも留めない写真だったが、その写真を呆れる程に見つめていた。

 泳ぎは得意ではないが、今すぐにでもこの水の中に飛び込みたかった。

 また数枚捲る。

 その紙面の片隅にあった写真に目を奪われた。

 俄かには信じられないものが、その写真に写っていた。

 まさか。

 その文字が、遥か彼方の異国に、それもこんな小さな島に、ある筈がない。

 しかし私には、その文字がはっきりと読め、意味も分かった。

 慌てて周囲を見渡した。どこかに私たちをサポートしているスタッフがいる筈だ。彼らは黄緑の蛍光色のベストを着ている。私は立ち上がり、ロビーの中を早足で歩いて彼らを探した。そしてようやく一人のスタッフを捕まえた。

 そして何度も、この写真の場所を教えてくれと、英語で尋ねた。

 私の鬼気迫る形相に、スタッフは最初驚き戸惑っていたが、差し出した新聞記事を見て理解したらしく、胸ポケットからメモ帳を取り出し、そこにアルファベットでそこの場所を書いた。

「K……U……M……」

 私はその文字を凝視し、言葉にして読んだ。

 その時、今いるこの場所が、どこなのかはっきりと分かった。

 

 私は大声で何度も偉大なる神の名を叫んだ。

    ◆

 私は行動を起こした。スタッフからその場所の詳細を教えてもらい、そこへの交通手段を確認した。言葉の問題から意思疎通には時間が掛かったが、奇跡的にも今回の地震の混乱にも関わらず、その場所にいくことは可能だと分かった。

 更に奇跡は続く。その場所とは、空港があるこの場所から西にある小島で、船でも数時間の距離だ。遥か遠くにある訳ではない。電話もネットも繋がらないが、その復旧を待っていられない程に、早くその場所へいきたかった。

 その晩は眠りもせず、空港で手に入れたこの場所と小島の紙の地図を広げ、考えられるルートを推察し可能性を確かめる。そしてアルファベット表記の地名を読み、解読する。解読された地名に点を打ち、次の点と結び、線にしていく。その細い線は、確率的に言えば天文学的に低いが、それでも私の仮説を裏付けるには十分だった。

 翌朝空港を抜け出し、港に向かい、その島に向かう船に乗った。

 その島に降り立った時は、震える程の興奮と共に一抹の不安があった。それはこの島の住民が異教徒の私に対し、空港と同じ態度で接してくれるのか、未知数だったからだ。

 だが、やはりここでも幾人もの心優しい人々に助けられ、ついに私は『聖域』の入り口を発見した。

 そして暗闇の中にあったその聖域の中心部に、近づいている。

 心臓の高鳴る音が、身体から漏れ出しているのではないかと思えるほど、興奮していた。

 心もとない明かりに照らし出された先が開けた。それまでの周囲にあった圧迫感は消え、広がりのある空間がそこにあると分かる。

 生唾を飲み込み、その空間に足を踏み入れる。

 明かりに照らし出されたそれを見た瞬間、懐中電灯が手から落ちた。

 懐中電灯は硬い地面に落ちると、カーンと甲高い音をたてて跳ね返る。甲高い音は空間に反響し、懐中電灯のか細い光が闇の中を乱舞した。

 私は地面に伏し、額を地面に押し当て、押し殺した声で神の名を呼び、その偉大さを称え、何度も何度もここに導いてくれた感謝の言葉を呟いた。

 その小さな呟きは、暗闇の中でこだまし、アザーンに聞こえた。

 どれだけの時間、地面に伏していたか分からないが、私はようやく身体を起こした。ふと闇の中、明るい場所があるのに気づく。それは懐中電灯が転がっていった先だ。

 そこに視線をやると、その光に先には、ぼうっと光っている人の頭蓋骨があった。

       ▼

 ……気象庁は先ほど、今回の沖縄地方で発生した地震を、『沖縄北西沖地震』と命名したと正式発表しました。

 今回の地震では、沖縄トラフが震源地と推定されていますが、広い範囲で震源地が発生したと見られ、プレートのずれによる海溝型地震の他に、比較的浅い海底にある未知の活断層による複合地震の可能性もあるとのことです。

 またその未知の活断層が、今回の地震の前に発生していた群発地震の震源域とも近いことから、詳細な調査が必要だとの見解を出しました。

 今後一か月程度は強い余震、もしくは本震並みの強い揺れを伴った地震の発生の可能性も高く、気象庁は沖縄県や県民に対し、避難所の早急な確保や、ライフラインの復旧、飲み水や食料の備蓄など次の地震に備えるよう呼びかけています。

      〇

 男は異変に気づき、浅い眠りから目覚めた。

 男は人ひとりが横になれるだけの、狭い個室で寝ていた。

 だが、目は開いているのに鼻の先も見えない暗闇と、バチバチと爆ぜる音。

 そして、焦げ臭い、強烈な異臭。

 火事だ。

 男は飛び起き起きた。勢い吸い込んだ異臭に満ちた空気が喉を刺激して、大きく咳き込んだ。溜まらずまた息を吸い込んだが、更に咳が酷くなる悪循環に陥り、まともに息ができない。

 呼吸を浅くしてどうにか咳を抑えると、涙目で足元にあるモニタを見た。寝る前には点いていたが、今は暗闇の中、形すら見えない。

 モニタの載る机の下には、命よりも大切な白いボストンバッグがある筈だが、それすらも見えない。それでも男は身体と手を伸ばし、手探りでバッグを掴んだ。

 それを引き寄せ、両腕で抱え立ち上がるが、そこには熱と刺激臭を伴った煙が渦巻いていた。

 それを少し吸っただけでも、喉は焼け、気管支は激しく反応し、強烈な咳が男を襲う。

 男は再びしゃがみ込み、床に顔を付け、そこに僅かに残っている、汚されていない空気を必死で吸った。

 戒律を破り、酒を口にした罰なのか?

 男は、懺悔と共に神へ許しを請う祈りを捧げようとしたが、止めた。

 生きて母国に帰り、自分が発見した偉業を全世界に伝えなければいけない。

 これは神が与えた、最後の試練だ。

 その篤い信仰心が男をつき動かした。

 男は這いつくばりながら、狭い個室の中で身体の向きを変え、背後の鍵の掛かっていない扉を押し開け、通路へ転がり出る。

 右手を見ると狭く長い通路の奥が明るい。確か通路の先の左を曲がれば出入り口がある筈だ。男はそこに向って走った。

 曲がり角に差し掛かった時、ボンッと爆発音と同時に猛烈な爆風と熱波が前方から襲ってきて、男は後ろに吹き飛ばされた。

 背中から通路に叩きつけられ、熱波によって顔はヒリヒリと痛み、男は呻き声を上げた。消えそうだった意識をどうにか保ち、立ち上がったが、抱えていたバッグがない。

 その時、男は周りが赤く照らされているのに気づいた。曲がり角の向こうにはユラユラと影が揺らめき、チロチロと赤い炎が見える。

 男は慌ててバッグを探した。バッグは赤く照らされている曲がり角の近くに落ちていた。急いでバッグの黒い持ち手を掴んだ時、ゴオッと猛烈な炎が左手から噴き出してきた。

 目を開けてられない程の熱波が、再び男を襲う。

 男は反射的にバッグを抱えてうずくまる。チリチリと髪が焼け、頭だけではなく今にでも全身が燃えだしそうだった。

 顔を上げると、紅蓮の炎が目の前の壁と天井を舐め尽くしていた。

 男は立ち上がり、翻って今来た通路の奥に向かって全力で走った。

 その先に何があるのか、分からないままに。     

     〇

「BP落ちています」

「挿管急いで、田代先生は?」

「まだアッペ中です」

「サードの村本先生を呼んで」

 日も上がっていない早朝、那覇市立病院の救急処置室に慌ただしい声が響く。複数の看護師と医師がベッドに載せられた男を囲み、懸命の処置を続けていた。

「当直医よりオンコール要請」

 処置室の奥で看護師が、緊迫した口調で電話をしていた。

「搬送患者は外国人と思われる男性。上半身に熱傷が認められ、頭部からの出血あり、意識は不明。両大腿骨骨折の疑い。緊急オペの準備願います」

 甲高い電子音が、けたたましく鳴る。

「心停止。除細動掛けます、下がって」

 服が切り裂かれ露わになっている胸部に、当直医が除細動器を当てた。

「サン・ニイ・イチ」

 バンっと音がして男が一瞬ベッドの上で跳ねた。直後ピーっと音が鳴る。

「バイタル戻りません」

 モニタを見ていた看護師が、冷静な声で告げる。

 駄目か……

 除細動器を持った当直医がそう思った時、男の青黒い唇が微かに動いた。何か聞こえる。

「What 's you say ?」

 当直医は異国の地で死の淵にいる人間の、最後の言葉を聞こうと耳を近づけた。男の喉の奥から絞り出すような声が聞こえて来た。

 ……BILL…GA……

 かすれる言葉に続いてヒューッと息が抜ける音がした。

 ……ビルガ? 

 当直医がそう呟いた時、長い単調な電子音が男の命の終わりを告げた。 

 同じ頃、救急搬送口の車寄せでは、亡くなった男を搬送してきた救急車が、消防署へ帰る準備をしていた。

 運転していた隊員が後部ドアを開け、ストレッチャーを車内に収納していた時、薄汚れた白い物体が目に入った。少し大きめのボストンバッグで、持ち手は黒い。

 それは搬送してきた男が、危篤状態であっても離さず抱えていたバッグだった。

 隊員が男からバッグを取り上げようとしたが、男は中々離さず、最後は強引に引き離した。バッグは思いのほか重く、力一杯引き離した際に勢い余ってバッグが救急車の壁に当たり中からガシャンと音がしたが、一刻も争う状態に隊員は気にもしなかった。

 規則では一応中を確かめ病院に報告し、預ける手筈になっている。

 隊員はバッグと引き寄せ、ファスナに手を掛け引くと、中から黄土色の細かい煙が立ち昇り、隊員は眉を潜めた。

 すぐに煙は消えたが、現れたバッグの中を見た隊員は、血相を変え車内に無線機に飛びつき、早口で捲し立てた。

「緊急、緊急。警察へ連絡願います!」

 バッグの中には、無数の小石大の黄土色の塊に交じって、割れた人間の頭蓋骨があった。

     〇

 九月も半ばを過ぎ、秋分が近づいても東京はまだ暑いが、早朝の人気のないオフィス街の空気は涼しく、季節を感じる。

 あと一時間もすれば人が押し寄せ、雑踏の音が溢れるこの場所も、コツコツとヒールの音だけがビルの間に反響している。

 ヒールを履いた人物は、立ち並ぶビルの中で頭ひとつ低い、くすんだ煉瓦色の建物に入った。入口横にある警備室の警備員と目が合い、お互い無表情で軽く会釈する。自動ドアを抜け、右に曲がり二基あるエレベータの前に立つが、左のエレベータの昇降ボタンの場所に『故障中』の札が掛かっている。

 その人物は、札の上の白い壁に右手の平を当てた。すると音もなく左のエレベータの扉は開き、その人物はなんの躊躇いもなく、エレベータの中に入っていった。

 正面には鏡があり、全身が写る。黒に近いグレーのスーツ姿は普通のOLと変わらない。

 後ろで扉が閉まると同時に、天井の隅にあるドーム型の監視カメラに赤い光が点滅する。点滅が終わると、微かなブザー音がした。それを合図に、その人物は口を開いた。

「秋川けいFI044エフアイゼロヨンヨン

 正面の鏡が横にスライドし、白い廊下が現れた。秋川はその廊下に進み出る。またコツコツとヒールの音が廊下に響く。

 警視庁公安部外事情報課。

 秋川の職場は東京のどこにでもあるオフィス街の、何の変哲もない外見に偽装した建物の中にある。

 いつもなら、このまま窓のない自分の執務室に直行するが、秋川は出勤と同時に課長室への出頭の指示を、昨晩受けていた。

 廊下を進み、課長室の前で止まる。センサと監視カメラで秋川がここに立っているのは、室内には伝わっている。

「秋川、入ります」

 返事も待たず、秋川は課長室に入った。

 ブラインドが下ろされた大きな窓を背にして、柔和な表情の課長の大崎が、無機質なスチール机の向こうに座っていた。年齢は六○近いと聞いているが、髪は黒く童顔で四〇代でも通るだろう。

 秋川は大崎の前に進み出て、直立不動で敬礼した。

「ご用件はなんでしょうか」

「朝から呼び出して申し訳ありません。現在進行中の案件は何ですか?」

 大崎は部下であっても丁寧な言葉で接する。

万里ワンリー華信集団のキツネ狩り及びシギントです」

「進捗はどの程度ですか?」

 進行中の案件も、その進捗も随時上層部に報告していて大崎が知らない筈はない。その程度のことで自分を早朝から呼びつける筈がなく、何か厄介な状況が進行していると、秋川は直感した。

「キツネ狩りは約八〇パーセント、シギントはオシント解析との適合精査中で明後日までには報告可能です」

「流石ですね」

 大崎は満足げに頷いた。そして机の上に紙ファイルを置いた。

「そこまでの進捗であれば、他の者に引き継いでも大丈夫でしょう。君には本日よりこちらの案件に移って貰います」

 秋川がファイルに視線をやると、大崎は受け取っても良いと、目で報せて来た。秋川はファイルを手に取り、開いた。

 そこには数枚の紙と顔写真がクリップで留められていた。

「ナジャフ・ア・サイード。イラクの考古学者です」

 秋川は大崎の言葉を聞きながら写真を見た。

 キリリとした太い眉に二重瞼の大きな目。典型的な中東系の顔立ちだが、肌の色はアジア系に近く、細い三角の顎のラインと薄い口髭に、今風の日本人の若者にも見えた。

「この考古学者が何か」

「那覇のゲストハウス火災の被害者です」

 約二週間前の早朝、那覇で外国人向けのゲストハウスで火災があった。犠牲者は外国籍の八人を含め一二人が亡くなり、重軽傷者も一〇数名にのぼる重大火災事故だった。

 ゲストハウスはネットカフェを兼ねていて、個室スペースを無許可で改装し、簡易宿泊所の届けをしていなかった。更に消防法や建築基準法を無視していることが発覚して、警察が捜査していると報道があった。

 そのゲストハウス火災の二週間前、沖縄は地震に襲われていて、テレビやネットでは沖縄に関する重く暗い話題で溢れ返っていた。だが、民間施設で起きた火災が公安の関わる事件なのか、秋川には関連性が見いだせなかった。

「我々が関与する理由を説明します」

 秋川の心中を読んだ大崎が語り始めた。

「火災に公安的事案はありません。ですがイラク大使館から外務省を通じ彼の日本での行動照会がありました。彼が日本で会った人物、場所、行動の報告を求められています」

「テロ組織との関係が疑われるのですか」

「それは不明です。我々及び防衛省情報本部DIHのデータベース上は全くのシロですが、彼はこんなモノを持っていました」大崎は一枚の写真を差し出した。

「鑑識結果はあとで君に届けさせます。相当大切な代物なのでしょう、スマホもパスポートも残して、これが入った古いバッグを抱えて四階から飛び降りました。彼の死因は火傷ではなく脳挫傷です」

 差し出された写真には、黄土色の土の上に置かれた頭蓋骨が写っていた。

「外務省は中東絡みだと神経質になります。地方警察ではなく直接我々に依頼するのは困りものですが、上層部が了承した以上、捜査案件だと理解ください」

 そう言って大崎は袖の引き出しからもうひとつのファイルを出し、秋川に渡した。

 秋川は、ここからが本題だと察した。

「ナジャフが唯一日本で連絡を取っていた人物です。対象者として直接の接触も認めます」

 ファイルを開ける。そこに挟まれていた顔写真を見て、秋川の右目がピクリと動いた。

「君を呼んだのは、そういった訳です」

 秋川は、ふぅっと息を吐き、一瞬乱れた心を整えた。

「それなりに名の知れた人物です。接触には慎重に適任者を選ぶ必要がありました」

 自分が適任者なのか、秋川本人には判断できなかった。

「私は情報分析官ですが、本当に現場に出て宜しいのですか」

「君の現場捜査官としての能力が高いことは任官前の適性検査で分かっています。それに今回は外務省を含む関係機関へのサーバアクセスが許可されました。君が適任です」

「潜る深さはどの程度でしょうか」

「素潜りと心得てください」

 潜るも素潜りも隠語だ。他省庁のサーバアクセスの許可を、相手から取った訳ではない。彼らのネットワークに潜り、情報を浚ってくる。そのネットワークへの侵入深度を数段階に分けているが、素潜りは浅くの意味で使われていた。つまり必要最小限の情報だけ、と言う意味であるのを、秋川は熟知している。

「期限は二週間、捜査行動は一人シングル。中途報告は無用。捜査費用は同封のクレジットカード二枚を用途別に使い分けてください」

 秋川は二つめのファイルを閉じ、ナジャフのファイルと重ねて持つと、背筋を伸ばし敬礼した。

「秋川、任務に戻ります」敬礼した右手を下ろそうとした時、逆に大崎が右手を軽く挙げた。

「直近で対象者と接触したのはいつですか」

 秋川は右手を下ろしてから答えた。

「卒業してからは一度も会っていません」

     〇

 窓もない薄暗い執務室に秋川はいた。天井の照明は落とされていて、モニタの明かりとデスクの上にあるLEDスタンドが手元にあるナジャフの写真を照らしている。

 ナジャフ・ア・サイード。三二歳。

 イラクの首都バグダットの南、ムサンナ県の出身で、バグダット大学を卒業後、エジプトに留学しカイロ大学で考古学の博士号を取得したのち、母校の考古学研究室の準教授となった。宗派はスンナ派。親戚筋に閣僚経験者はいるが政治的背景は薄く、宗教指導者との繋がりもない。

 大崎からのファイルには、恐らくイラク本国からの提供情報だろう、ナジャフの簡単なプロフィールや本国での通信記録があった。秋川の調査でも、A4用紙数枚に収まっているその情報は裏付けられた。

 入手したパスポート情報から、ナジャフは約一カ月前イラクを出国。オランダ、イギリスと渡り、台湾を経由して、那覇に入っていた。

 クレジットカードとスマホの使用履歴からも、それは確認された。オランダ、イギリスにはそれぞれ三日程度の滞在で、目的は国際シンポジウムへの出席。これも主催者側のSNSなどに掲載されていた写真に、ナジャフが写っていた。

 彼の日本に来る前の行動は全て裏付けが取れ、不審な行動は見当たらなかった。

 素潜りで良いと告げられたのは、ナジャフは反政府主義者でも、テロ組織の構成員でもないからだと、秋川は判断した。

 ――だが異国で不慮の死を遂げたとはいえ、ただの学者の行動確認に大使館を通じてまでする必要があるのだろうか?

 彼がイラクの諜報機関員とも考えたが、それならば更におかしなことになる。大崎の態度も、含みや裏があるとは思えなかった。

 問題はやはり日本入国後だった。

 航空チケットの予約状況から、那覇に二日滞在後に東京に渡る予定だったが、予期せぬ事態に巻き込まれた。

 ――沖縄北西方沖地震。

 ナジャフが入国したその日、沖縄本島北西の海域にある、沖縄トラフを震源地とするマグニチュード7の地震が発生した。

 数世紀ぶりの沖縄近海での大地震の揺れは、琉球列島を襲い、多くの都市インフラやライフラインに被害を与えた。

 停電、通信障害、水道の停止、道路の亀裂、山崩れ……

 幸いにも津波や建物の倒壊、大規模火災は発生せず、犠牲者も二桁前半で収まったが、奄美を含む琉球列島全域のライフラインは麻痺し、報道によると那覇などの都市部を除けば、一か月近く経った今でも一部離島では完全復旧していない。

 その混乱の中、ナジャフが日本に入国してから病院で死亡が確認されるまでの間、彼の沖縄での足取りは全くの不明になっている。

 正確には、ナジャフが那覇空港で入国審査を終えた直後に地震が発生し、空港で足止めを食った外国人を含む多くの来訪者のために翌日空港内に臨時避難所が設置されたが、避難者名などの記録は、どの行政組織のサーバに残っていなかった。

 避難者名が判明するのはライフラインが最低限復旧した一週間後、空港業務が再開したのを受け、避難所が閉鎖された時だ。帰国の目途が立たない外国人避難者は、自治体が用意したホテルへと移ったが、その中にナジャフの名前はなかった。

 秋川は背もたれに身体を預けた。大崎の指示から二日、電子の世界からナジャフと言う人間の情報をかき集めていたが、それも限界に近づいていた。

 秋川は軽い溜息を吐いて、ナジャフのファイルにある頭蓋骨の写真を手に取る。

 鑑識は割れた骨片を繋ぎ合わせ、頭蓋骨を復元していた。そして鑑定の結果、二〇〇〇年から三〇〇〇年前の人骨で、事件性はないと判断された。

 法医学者の見解では、アジア系以外の人種の特徴があると記載されていたが、特定はされていなかった。

 ナジャフのスマホとパスポートは、現場から激しく炭化したリュックの中から発見された。スマホは原型を留めておらず、パスポートは辛うじて表紙のイラクの国名と、ナジャフの顔写真が分かる程度だった。

 海外渡航の命綱と言えるそれらを残し、ナジャフは頭蓋骨の入った、くたびれたボストンバッグだけを持って四階から飛び降りた。

 犯罪性のない頭蓋骨を持ち歩くことは違法ではないが、どう考えても異常だろう。それに税関の記録からも、当たり前だが、頭蓋骨を持って入国していないのは確認されている。

 必然、ナジャフは沖縄でこの頭蓋骨を手に入れたことになる。

 それを裏付けるように、黄色い土塊(つちくれ)と共にバッグの中には、沖縄の地元新聞の朝刊があった。それは頭蓋骨を包んでいたと推察された。日付は火災の数か月前で、初版だったことから、遠方地エリアに配達された新聞だと分かったが、手掛かりはそれだけだった。

 頭蓋骨の出所は分かったが、どうしてイラクの若き考古学者が、沖縄のどこでその頭蓋骨を手に入れ、そして何故持ち歩いていたのか?

 この捜査案件を一通り並べても、筋が通った合理的説明を見いだせない。

 秋川は、次は深い溜息を吐いた。

 ――部屋に籠っての捜査はこれ以上無理ね。

 机上にある二つ目のファイルに視線をやる。大崎はひとつだけ不正確な情報を言っていた。ナジャフは考古学者ではあるが、正確には古代言語学者だ。

 大学では中東の古代言語を研究し、数編の論文を専門誌で発表している。オランダ、イギリスにも古代語研究の国際シンポジウム出席のためだった。

 コーヒーカップを取り一口飲む。カップの淵に着いた紅(べに)を親指で拭き取り、親指のそれをティッシュで拭く。

 ――古代言語。

 それが二つ目のファイルにあった顔写真の人物と結び付けているのを、秋川は良く知っていた。

 カップを置き、秋川はファイルを手に取った。

 写真には表情のない人物が写っていた。だが子供みたいな黒目の大きい瞳に、光の加減なのか、透通るほど肌が白いのが際立っている。

 瀧上萼たきがみうてな

 写真の人物で、秋川が接触を認められた対象者。

 人類学者であり、そして神話言語学のパイオニア。人類学の裾野は広く、言語学や考古学、神話を研究する文学も包括する学問で、その多くは文系だが、瀧上は独自開発した言語解析プログラムを使い、工学的アプローチから、未解読や解読が困難だった多くの神話で使用されていた古代言語を解析し、数値化した。

 それにより、遠く離れた異文明の言語と神話で使用されていた古代言語の類似性が明らかになるなど、瀧上は古代言語のひとつとして、神話言語学と言う新しい分野を切り拓き、人類学に新しい学問的潮流を生み出していた。

 溜息を吐き、ふと腕時計を見ると午前三時。疲れている感覚はなかったが、秋川はひと眠りしようと思った。

     〇

 数時間後、秋川の姿は駒場にある東京大学先端研キャンパスにあった。正面に時計塔を見ながら、キャンパス内に足を踏み入れる。

 ランチ時、構内はカジュアルな色彩の服装をした学生達で溢れていたが、秋川のリクルートスーツとは違う、黒一色の服装が逆に目立つのか、すれ違う数人の学生の視線を感じた。あいにくこれと似た服しか持っておらず、学生時代の服はもう着られない。

 秋川は仕方ないと思いながら、瀧上の研究室に向かう。場所が変わっていなければ、目を瞑っていてもそこには辿り着く。

 ここは秋川と瀧上の母校だった。そして、ここで二人は出会った。

 秋川が在籍していた頃、先端研では言語情報学を専攻している有志数名が中心となって、多言語間会話の同時翻訳プラグラム開発のプロジェクトが立ち上がり、それに賛同する異端で野心的な学生と研究者を、理系文系問わず広い分野から募集していた。

 情報工学を専攻していた秋川はそのプロジェクトに参加し、そこで当時人類学研究室に在籍していた瀧上と出会った。他には、民族学者、地政学者、数学科の学生、人工知能の専門家など多彩な人材がつどっていた。

 プロジェクトと名乗ってはいたが、指導する教授やリーダーはなく、研究室もなかった。会議や討議はネット上で行われ、問題点や課題はそれぞれの分野の人たちが精査し、改良して提案する。それをまた全員で討議し、納得したら次の課題に挑む。それを繰り返しながら翻訳プログラムが形作られていった。

 各分野で秀でた才能を持つ者が集まった中でも、瀧上は強く異彩を放っていた。

 瀧上は中東から東南アジアに点在する少数民族の言語を解析し、別言語だと考えられていたそれらの言葉が、実は同じ言葉から派生し変化した可能性が高いことを示す論文を発表し注目を集めていた。

 瀧上の論文は、太古の昔その言葉を使っていた民族もしくは母集団の存在を示唆し、考古学と民俗学の研究者達も刺激して、何時の時代のどこの場所のどんな民族なのか、論争が起きていた。

 翻訳プログラムも、瀧上の論文の一部をベースにしていて、ある言語の文法や単語の過去からの変化を他言語のそれと比較し、類似性や近似性を数値化する手法が取られた。

 プロジェクトは一年ほど続き、数か国の言語を同時翻訳するプログラムが完成したところで、一応の目的は達したと判断され、プロジェクトは解散した。

 プログラムはパテントを取得したあと、海外のIT企業に買収され、開発者に名を連ねていた秋川にも、ある程度まとまった金額が振り込まれた。

 秋川が公安に入ってから知ったことだが、同時翻訳プログラムはその後も改良が加えられ続け、世界各国の情報機関で活用されていた。

 プログラムがどう利用されるか、秋川が無論知る由はなく、そういった分野で使われると知っていたとしても、このプロジェクトに参加していたと秋川は確信している。

 当時の秋川は、狭量な価値観で世界を切り取り、またその価値観で自分を縛っていた。

 プロジェクトに参加したのも、そんな自分を全く違う分野の見識や思考の場に置き、何か自分の中で変化が起こるかもしれないという、僅かな期待を胸の内に秘めての行動だった。そしてその変化と期待は、瀧上という存在に出会い、実現した。

 瀧上はそのプロジェクトに参加する前から言語解析プログラムの着想を得ていて、情報工学に精通している人物を探していた。

 そして秋川は情報工学に精通していた。

 いつしか秋川は、瀧上と一緒にプログラム開発に没頭していった。

 その後、言語解析プログラムを活用した神話言語学で名を世に知らしめた瀧上だったが、良くも悪くも瀧上の名前が更に広まる出来事が起きた。

 瀧上は世界各地に散らばる神話が一つの古代神話に収束すると予想した『統一神話論』を発表した。言語解析プログラムが改良され精度が上がっていけば、古代文字の類似性だけではなく時系列変化を遡れることが可能になり、統一神話論が証明されると論文に書いた。そして神話に描かれている多くの事象が、実際に起きた現象の記録であると主張した。

 瀧上のその挑戦的な試みと主張は、一部の研究者は好意的に評価したが、多くは夢物語か途方もない空想だと一笑に付し、中にはオカルト的だと批判する者もいた。

 それに輪を掛けたのがテレビや一部のオカルト誌が、瀧上の統一神話論を空虚なエンターテインメント的に曲解し、陰謀論や疑似科学と同列で紹介して、一時話題になりテレビ番組でも取り上げられた。

 だが瀧上はマスコミの取材を全て拒否し、顔写真の掲載すら許可しなかった。それが逆にミステリアス性を高め、瀧上は謎の若き天才研究者としてネット上ではカルト的な存在になり、サブカル界隈でも話題になっていた。

 学術関係者や社会評論家は、かつてカルト教団が疑似科学やオカルトを利用して若者たちを洗脳し暴走したのを引き合いに出し、自分の主張がオカルトではないと明確に否定しない研究者としての瀧上の態度に、苦言を呈したり非難した。

 人類学学会でも瀧上の評価は大きく分かれていて、学者として研究を続けられるか危ぶむ声もあったが、独創的な発想と才能を高く評価した大学は、卒業後も先端研の特別フェローとして迎えた。

 数年前のことなのに、秋川にはそれが一〇年以上前に思えた。

 よく二人で構内を歩きながら議論していたが、その構内を今は公安として歩いている。

 秋川は感傷を振り払い、瀧上の研究室がある建物へと入った。


 秋川はネームプレートもないドアをノックし、ドアを開ける。ドアの鍵が掛かっていないのも、ノックの返事を待たずに入っても構わないのも、秋川はよく知っていた。

 冷房の効いた室内はパソコンの載った机と二脚のソファ、一つのテーブルしかない質素な部屋だった。

 瀧上はテーブルに左手で頬杖をつき、読書に耽っていた。

 懐かしい光景だと感じる。細い身体に、秋川と同じモノトーンの服。

 伏せた目の睫毛は長く、通った鼻筋とそれが生み出す影が瀧上の肌の白さを際立たせる。

 秋川は改めて裏拳でドアをノックした。

 ようやく瀧上は顔を上げて前を向き、秋川の姿を認めると、少し間を置いて首を傾げた。

「君は秋川……かい?」

 久しぶりに聞く、瀧上の少しハスキーな声だった。

「久しぶりね、瀧上君」

「君……随分変わったね」

「あなたは全然変わってないのね」

 瀧上はぷっと噴き出した。秋川は笑う瀧上の顔を初めて見た。


 コーヒーカップ二つが載っているテーブルを挟み、お互いの近況報告も、久しぶりの再会を喜ぶ言葉もなく、秋川は瀧上に警察手帳を見せ、突然の来訪の訳を話した。

 瀧上にとって、旧交を温める言葉は、ノイズと同じで意味がないのを秋川は知っている。

 秋川は、ナジャフの死と、それを公安として自分が調べていると告げたが、瀧上は表情一つ変えず聞いていた。

 瀧上は滅多なことでは表情が動かない。知り合った当初、秋川は瀧上の感情の機微のなさと優れた頭脳から、瀧上は人間ではなくAI搭載のアンドロイドではないかと思った。

 だから先ほどの一瞬でも笑った瀧上の表情は、秋川にとって驚きだった。

「三カ月前かな、ナジャフが僕にメールをしてきたのは」

 コーヒーに口を付け、瀧上が言った。

「内容は?」

「大まかに言えば、北アラビアの古代神話文字を、例のプログラムで解析し他の地域と比較可能なのか。そんなところ」

「それは可能なの?」

 言語解析プログラムの共同開発者だった秋川は、職務を忘れ、思わず質問していた。

「時代にも寄るけど、北アラビアは大きく四つの方言があって、遊牧民文化が定着する前の言語であれば有為的な解析はできる」

 言語を話し言葉に依存し、文字として後世に残した例は少ない遊牧民の言語は、言語解析プログラムにとって大きな壁と言っていた瀧上を、秋川は思い出していた。

 やはり感傷に浸っていると、秋川は自嘲し、職務に戻った。

「その後、彼からの連絡は」

「一か月前、日本に向かうとメールがあっただけ。暫く各地を廻ってからここに来ると書かれていたけど」

 イラク本国からもたらされた通信履歴と、瀧上の証言は合致していた。

「それまでに彼と会ったことは?」

 瀧上は首を振った。秋川はナジャフの論文が掲載されていた学術誌の名前を出したが、やはり瀧上は首を振った。

 そう、と秋川は呟いた。

「何か気になることが?」

 秋川は、その一言を待っていたのかも知れない。この捜査の腑に落ちない点や、不可解な状況を瀧上に話した。

 何故イラク当局が考古学者の死を探っているのか。この二日の調査でも、来日する前までのナジャフの行動に不審な点はない。

 そして何故、頭蓋骨の入ったバッグを持っていたのか。

「頭蓋骨?」

 瀧上に初めて反応があった。

 秋川は、バッグからナジャフの情報ファイルを取り出し、瀧上に渡した。通常の捜査ならあり得ないが、秋川にはどうでもよいことだった。

 ファイルにはナジャフの顔写真と、この二日間で集めた彼の本国からの行動記録が記載されていた。

 その中には、沖縄での火災の詳細なレポートやナジャフの遺体検分書もあった。

 瀧上は無言でファイルを読み始めた。資料を読んでいる時の瀧上の集中している顔に、秋川は懐かしいものを感じた。

「沖縄で地震に遭遇したんだね」

 一枚目を捲りながら瀧上が呟いた。

「ナジャフが沖縄に立ち寄る理由に心当たりはある?」

 ナジャフが台湾を経由して沖縄に入ったのは、格安航空路線の都合だと分かっていたが、それ以外の理由があるのか知りたかった。

「ナジャフのメールには、日本の古語や大和言葉についても興味があると書かれていた。関連性があるとすればそれくらい」

「どう言う意味?」

 日本の古語と沖縄の結びつきが、秋川には分らなかった。

「沖縄、この場合は琉球語になるけど、琉球語には日本の古語や大和言葉が多く残っている。例えば虫のトンボは古語ではアキツだけど沖縄ではアーケージュ。東の風と書いてコチと、古語と琉球語では同じ読み」

「東風吹かば、のコチ?」

 瀧上は頷いた。

 雑学としては興味深い話だが、ナジャフは何か目的があって沖縄を訪れた訳ではなさそうだと、秋川は判断した。

「そのメール、私に転送してくれる?アドレス、変わっていないから」

「構わないよ、ところでこれは彼のものと断定されたの?」

 瀧上は話題を変え、バッグと頭蓋骨の写真を秋川に見せた。

「ええ、そうよ」

 その二つにはナジャフの指紋が多数残されていた。バッグは国内メーカーの製品と判明したが、そのメーカーは昭和五〇年代に倒産していて販売ルートは分からなかった。

 鑑識の鑑定では、黒い持ち手は付け替えられていて、その部分の縫合や仕上げは雑で素人作業と推測され、一般家庭で長年使用されていた可能性が高いと報告書に書かれていた。

 三〇年以上前の日本製の古いバッグを、ナジャフがイラク国内で入手していたとは考えにくく、やはりナジャフはこれを沖縄で手に入れたのだろう。

「一緒に入っていた土の成分は」

「分析表は次の頁よ」

 瀧上はファイルを捲った。

「泥岩に似た成分らしいけど、シルトとケイ素の比率から、レンガみたいに人為的に作られた可能性もあるらしいわ」

 こくりと、瀧上は小さく頷いた。

 バッグの中の状況から、元は一つの土の塊で、ナジャフと共にビルの四階から車道に落下し、路面に叩きつけられて粉々になったと考えられたが、頭蓋骨と土塊を持ち歩くことに何の意味があるのか、秋川には理解不能だった。

 暫く眺めてから次の頁を捲った時、瀧上の指が止まった。

「彼はビルガと言ったのか……」

 それはナジャフの最後の言葉だ。

「治療にあたっていた医師がそう聞こえたと、証言しているわ」

 その時、瀧上の全ての動きが止まった。

 じっと前を見つめたまま動かない。その大きな黒い瞳に、秋川は吸い込まれそうになる。

 そして、思い出していた。

 瀧上はなにか集中すると、フリーズする。

 それは突然起こり、議論している時や、普通に歩いている時でも瀧上はピタリと停止し、表情が顔から消え失せ、瞬きをしない両目は開いたままになる。

 瀧上と知り合った頃、当然だが秋川はそんなことを知る訳もなく、ただ驚き、戸惑い、秋川自身も呆然とするしかなかった。

 だが暫くすると瀧上は何事のなかったかの如く、フリーズする前の続きをシームレスに行うが、そのあと思いも寄らないアイデアや、当時の秋川たちが直面している難問を打ち破る画期的な一言を発することが多かった。

 言語解析プログラムの開発時には、何度もそれが起き、その度プログラムは技術的問題点をクリアしていった。

 それからは瀧上が静止状態になるのは、瀧上の脳のある部分が活性化されるのとトレードオフだと、秋川は考えるようにした。

 秋川は、今目の前で起きているのがそんな過去の再現かと思った時、瀧上はすっと立ち上がり、やはり秋川の想定外の一言を言った。

「僕の分の飛行機の手配も頼むよ」

 え?と思う間もなく瀧上は秋川に背を向け、暫くファイルを借りるよと言って、パソコンの方へ歩いていった。

「どうせ行くんでしょ、沖縄」

 パソコンの前に座った瀧上は、呆然とする秋川も見ずにそう言った。

     〇

 二日後、秋川は沖縄に向かう機内にいた。

 瀧上が推察していた通り、元々この日から三日間、沖縄滞在する予定だった。その三日を使い、沖縄県警とゲストハウス火災の関係者を訪ねる計画だ。

 瀧上は自分の仕事を終えてから沖縄に向かうと言っていたが、三日の間に沖縄に来られるのか確実ではなく、航空チケットの手配のしようがなかった。

 結局秋川一人で沖縄に向かった。秋川にとって初めての沖縄へのフライトだったが、機内では沖縄では未だに通信状態が不安定でネットの通信制限があるので注意が必要だと、繰り返しアナウンスが流されていた。

 沖縄到着は午後四時を過ぎだった。秋川は搭乗口からまっすぐ進み、タクシー乗り場へ向かい、タクシーに乗り込んだ。そこからホテルにも寄らず、沖縄県警に直行した。

 空港から県警までは一〇分そこらで着くが、道中秋川は何故瀧上が自分の捜査に参加し、沖縄にまで同行する気になったのか、その真意をずっと考えていた。

 車窓の外には、樅ノ木もみのきに似た背の高い木が後ろに流れていくが、秋川の目にはそれが映っておらず、タクシーが停車して初めて、県警の正面玄関に着いたのを知った。

 少し慌ててタクシーを降りる。日陰になっている県警の正面玄関は涼しい風の通り道になっていて、意外と暑くなかった。

 それが沖縄に対する秋川の第一印象だった。

 秋川は受付で警察手帳を見せ、来訪を告げた。暫くして女性警察官がゲストハウス火災の捜査本部が置かれている捜査一課に案内してくれた。警察庁を通じ根回しはしていたが、公安に属する者を快く迎えてはくれない空気を、捜査一課に入ってすぐに感じ取った。

 公安案件の性格上、捜査目的を相手に開示しない。こちらの情報は教えないが、お前の情報を教えろと言われれば、誰でもおもしろくないのは当然だ。

 対応した背が低く眉毛の太い刑事は、露骨な態度は見せなかったが、検分したいと事前申請していた火災現場からの証拠物件が保管されている会議室への道を、二回間違えた。

「滅多に使わない会議室ですので」

 半笑いの刑事の言い訳を、秋川は聞いていない振りをした。

 ようやく辿り着いた会議室は、入った瞬間から焦げ臭い匂いが充満していた。床にブルーシートが敷き詰められ、その上に大小様々な焼け焦げた物体が置かれている。

 殆どが黒く煤汚れているが、目に入ったのは小型の電化製品が多かった。

 レジスター、電子レンジ、湯沸かしポッド、DVDプレイヤー。

 大きい物ではドリンクバーのディスペンサーがあったが、多くは溶けて原型を留めていない塊が、青い床に置かれていた。

 消防の所見には、漏電からの通電火災の可能性が高く、警察と消防は証拠物件として家電類を集めていた。

 一瞥して、秋川は目的のモノが集まっている場所を見つけた。

「鑑識の検分は終わっていますか?」

 隣にいた刑事に尋ねた。

「さあ、あの地震で鑑識も大変でしたから。一課に戻って課長に聞いて」

 そこまで聞いてから、秋川はブルーシートの上に進み入った。

 ちょっと、と驚いて刑事が追って来た。秋川は事前に沖縄県警のサーバに潜り、消防と県警の鑑識の検分は既に終わっていると知っていた。

 沖縄県警がそれを教える気がないのが確かめられたので、秋川は勝手に動いた。

 目的のモノはゲストハウスにあったパソコンだ。

 捜査報告書には一ニ台現場から持ち出されていたとあった。残念ながら火災が引き起こした爆発でゲストハウスの管理サーバは破壊されてしまい、ナジャフが何号室にいたのかや、個室のパソコンの管理番号も分からないが、見取り図では個室は三六あり、運が良ければナジャフが使っていたパソコンが残っている可能性があった。

 黒い箱が並ぶ場所の前に立つ。ミドルケースの大きさの筐体は元来黒なので、焦げているのか分からないが、近づくとやはり煤汚れていた。秋川は手袋をして片膝を着き、その中の一台に手を伸ばした。

「困ります、警部補殿」

 怒りが混じった声が背後でする。

 秋川は構わず筐体をひっくり返し、裏のつまみ式のネジを外していく。

「警部補殿!」

「消防の火災調査報告及び県警鑑識の検分ではパソコンからの漏電は認められず。証拠保全の必要は低く所有者に返却もしくは廃棄が妥当とする。五日前の合同捜査会議資料にはそうありましたが、それも初めて聞きましたか?」

 手を動かしながらそう告げると、眉毛の太い刑事は黙った。

 筐体を開け、中を確かめる。水が掛かった痕跡と煤が見え、一部の配線は溶けている。記憶装置は一般的なハードディスクドライブだった。外見は破損していない。もしナジャフのパソコンがあれば、検索履歴や接続履歴はハードに残っていて、手掛かりになる。

 残り一一台、通電時の水没ならデータ復旧は難しいが、放水による水濡れであればどうにかなる。高熱によるデータ破損は解析しないと分からないが、やってみる価値はあると秋川は判断した。

 秋川は立ち上がり、黒く汚れた手袋を脱いで後ろを振り返った。渋面の刑事が秋川を見上げ睨んでいる。「ここにある全パソコンのハードディスクは警察庁公安部が回収します。手続きをしますので、捜査本部へ」

 と言いかけて、言い直した。

「道は覚えていますので、捜査本部へは一人で行きます。道案内ご苦労様でした」

 捜査本部でもひと悶着あった。捜査本部の指揮を取る捜査一課長は、何の権限があってと、最初は書類を受け取ろうとしなかったが、警察長官名の書類をゴミ箱に入れる程の気概はなく、散々ゴネたあと課長は嫌々ながらそれを受け取った。

 その間、秋川は敵意と侮蔑が混じる多くの視線を浴びたが、学生時代もそうだったが、社会に出てからもそんな人の目に慣れていた秋川は気にもしなかった。

 ――所詮、私はどこにいても異物なのだ。

 儀礼的な敬礼と、定型の言葉を言って秋川は捜査本部をあとにした。


 秋川は、沖縄県警から歩いていける距離にあるホテルを予約していた。

 東京ならもうすっかり夜のとばりが降り、暗くなっている時間だが、見上げると陽の残光が残っていて、薄いオレンジ色と水色が混ざった沖縄の空はまだ明るい。

 同じ日本なのに異国に来た風情を、秋川は感じた。

 気温も下がり、乾いた涼しい風を受けながら歩いていると、カツオだしの香ばしい匂いが、その風に乗って秋川に届いた。

 その香りが、秋川の胃を刺激した。考えてみれば、今日は軽い朝食を済ませただけで、それ以降何も口にしていない。

 秋川は香りの元を探した。横断歩道を渡った先の歩道に『あがりや』と書かれた看板があった。他を見渡しても飲食店らしき店はない。秋川はホテルで夕食を取ろうと考えていたが、その考えを即座に変更した。

 横断歩道を渡り、『あがりや』の入り口のドアを開けた。店内を見渡すと、食堂というより居酒屋の店構えだった。中には誰もおらず、秋川が最初の客だった。四人掛けの黒いテーブルに座ると、「いらっしゃいませー」と明るい声で若い女性の店員がテーブルに来た。

 店内はやはりカツオだしの香りが充満していて、秋川の空腹感を物凄い勢いで加速させた。秋川はテーブルの上にあったメニュー表を見たが、やはり居酒屋なのか一品料理が多く、定食の類は見当たらなかった。

「おすすめはあります?」

 秋川は店員に聞いた。店員は即座に「うみぶどうが旬でおいしいですよ」と答えた。

 ウミブドウを知らなったかった秋川は、どんなものかと店員に尋ねたが、どうやら酒のつまみらしかった。秋川が決められないでいると、店員が「もしかしてお腹いっぱいになるやつですか?」と聞いてきた。

 変な日本語だったが、意味は分かった。秋川が苦笑しながら頷くと、

「沖縄そば定食がありますよ。うち昼間はそば屋さんなんで。じゅーしぃも美味しいって評判です」

 沖縄そばは食べたことはないが知っている。だがジューシィなるものが秋川に分からなかった。定食なのだから、沖縄そばに付いてくる副菜なのだろう。口に合わなければ残せばいいと思い、強烈な空腹をどうにかしたい秋川はそれを注文した。

 暫くして二人のサラリーマンが店に入ってきて、ビールを注文したところで秋川の元に料理が運ばれてきた。沖縄そばと、多分炊き込みご飯だろう、それが茶碗によせられていた。そして小鉢に鰹節と刻みネギが乗った小さな豆腐。そして水の入ったコップが、トレイに載せられていた。

 沖縄そばは、白く細い平麺が琥珀色のスープの中で泳いでいて、その上に蒲鉾と薄くスライスされた叉焼らしき肉が乗っていた。白い湯気に溶け込んでいるカツオだしの香りが更に秋川の胃袋を刺激する。

 ごゆっくりーっと、店員が去ると同時に秋川は、トレイにあった箸を掴むと平麺を掬った。そのまま口に運び啜る。

 程よい弾力の麺はうどんに似ていたが、うどんとも違う素朴な味だった。そして何よりも麺と共に口に運ばれてきたスープは絶品で、だしの旨味と仄かな酸味があるそのスープをまとった麺が口から喉を通り胃に落ちる。そしていぶされた香ばしい爽やかな風味が、鼻から抜ける。空腹補正があるかもしれないが、これまで食べてきた麺類の中で一番おいしいと、秋川は思った。

 歯ごたえのある蒲鉾と叉焼も素晴らしかった。甘く味付けられた叉焼だったが、スープや麺の味を邪魔せず、だが肉の旨味はしっかり残っていた。

 気づけば秋川は麺一本、スープ一滴すら残さず平らげていた。空腹は一気に解消した。満腹まではいかないが、どうせならジューシュなるものを口にしようと思った。

 この炊き込みご飯がジューシィだろうと秋川は箸を伸ばした。箸からほろほろとご飯が零れる。それを慎重に口に運んだ。

 美味だった。

 すぐに沖縄そばのスープで炊き込んだご飯だと分かる。ご飯粒の中に旨味が染み込んでいて、咀嚼する度にお米の甘みと混ざり更に美味しくなる。細かく刻まれた豚肉は、そばに乗っていたのより甘い醤油味がしっかりついているが、しつこくもない。炊き込みご飯にしては濃い味つけだが、秋川の箸は止まらなかった。

 これも気づけば米粒一つ残さない完食だった。

 秋川はそのままの勢いで豆腐にも手を出した。箸で掴むと、これが豆腐かと思う程硬い。少し力を入れたくらいでは崩れそうもない。秋川はそのままひょいと持ち上げる。一口で食べられる程の小ささだったが、大豆の味が濃く歯ごたえもあり、秋川がこれまで味わったことがなかった豆腐だった。

 ふーっと溜息を吐き、コップから冷水を飲む。

 秋川は、沖縄県警での不愉快を忘却する程に幸せを感じていた。


『あがりや』からホテルまでは数分の距離だった。機会があればまた訪れようと思いながらチェックインして部屋に入り、ジャケットを脱ぐ。スマホで公安宛に、予定通り沖縄県警から記憶装置が届く旨を報せるメールを作成して送った。

 秋川はベッドに倒れ込んだ。飛行機に乗り、陽の光を浴びて動いたのも久しぶりで疲れていたのに加え、幸せな胃袋が睡魔を醸造していた。

 気づけばスマホを握ったまま、秋川は眠りに落ちていた。

 耳元で何かが振動しているに気づき、秋川は目を醒ました。部屋の中は暗かった。

 飛び起き、枕元を見るとスマホの画面が明るくなっていた。

 メールの着信を報せる画面で、スマホを取りタップする。差出人は瀧上だった。メールを開くと、

『終わった。今日そちらへ行く』と書かれていた。

 今日?と秋川は思わず声を上げていた。

 スマホの時間を確認すると日付が変わる直前だった。

 秋川は瀧上の研究室の電話番号を押した。

 差出アドレスは大学のドメインだった。瀧上の自宅には電話はなく、スマホも持っていない。連絡方法はメールか研究室の電話だけだった。瀧上はすぐに出た。

「こっちに来るって、チケットは?」

 開口一番、秋川は質問した。

「やはり起きていたね」

 会話が噛み合わない。秋川は再度チケットをどうするか、聞いた。

「頼むよ」

 瀧上の返事はそれだけだった。秋川は深い溜息を吐き、どうにかすると答えた。

 何時の便になるか分からないから、着いたらとりあえず自分が宿泊しているホテルに来てと付け加えた。分かったと言ったあと、瀧上はもう一つ頼みがあると言った。

「久米島にも行きたい。そっちも手配して」

 ――くめじま?

 初めて聞く名前だったが、それに続く言葉に秋川は驚いた。

「ナジャフが立ち寄った可能性がある」

「本当に?」

 思わず声が大きくなる。

「可能性の話だけど、僕は高いと思っている」

 瀧上の声はいつもと変わらず平静だった。

「日帰りとは考えられない。久米島にギマという町がある。そこの宿泊施設を調べればわかるかも」

 そこまでピンポイントに分かるのかと、秋川は心底驚いた。

「何か根拠があるの?」

「詳しいことは会った時に話すよ」

 確かに電話で簡単に伝えられる内容ではないだろう。秋川は逸る気持ちを抑えた。

「……分かったわ、調べておく」

「ありがとう、じゃあのちほど」

 通話が終わった。暫くは動けなかったが、やがて汗を流していないのに気づき、秋川は浴室に向った。

 シャワーを終え、髪にバスタオルを巻いたまま秋川は持って来たノートパソコンを開き、航空会社のサイトを立ち上げた。

 地震の影響だろう、沖縄行きの航空機の座席は余裕があった。秋川が来た時も観光客らしき人の姿は少なく、ビジネスマンが目立つ印象だった。

 秋川は瀧上の移動時間を考慮し、昼過ぎの便を予約して瀧上にチケットと搭乗手続き方法と一緒にホテルまでの道順を簡単に説明したメールを送った。世間知らずとは言え、聡明な瀧上なら理解してくれるだろう。

 万が一乗り損ねても、違う日時の別の便でも構わない。

 それよりも秋川は久米島が気になっていた。検索サイトに久米島と打ち込む。

 久米島は、那覇の一〇〇キロ西方の海に浮かぶ人口約九〇〇〇人余りの島で、行政としては島全体が「町」だった。島へは飛行機か船で渡れるが、船では三時間掛かる。

 一時間弱で着く空路が最適だろう。だが航空会社の時刻表には、地震の影響により一日六便だった久米島行きを、半分の三便に減らすとあった。

 公安にある自分の執務室であれば、航空会社と船会社のサーバに潜り、搭乗者名簿からナジャフの名を見つけるのは容易だが、現状の通信環境とノートパソコンでは無理な話で、現場での捜査とはこう言うことかと、秋川は小さく舌打ちした。

 気持ちを入れ替えて、改めて航空便の時間を確認する。瀧上と那覇で合流する時刻のあとには、久米島行きの便はなく、瀧上は那覇で一泊することになる。

 瀧上の部屋も取っておこうと、秋川は頭に刻みつつ、久米島のギマと言う町を検索した。

 久米島町儀間。すぐに結果が表示された。そこの宿泊施設を調べる。登録されているのは五件。その電話番号をホテル備え付けのメモに書き写していった。

 念のため、久米島にある全ての宿泊施設を検索しその連絡先も書いていく。部屋のデジタル時計は午前一時を示していたが、本来この時間帯が秋川の活動時間なので苦にはならなかった。

     〇

 夜が明けて数時間後の昼過ぎ、秋川は県庁前駅からモノレールに乗り、ナジャフが息を引き取った那覇市立病院に向った。

 地震の影響で、つい先日まで速度を落とした上での間引き運行だったが、昨日より通常ダイヤに戻ったと、駅でアナウンスがあった。

 秋川が沖縄に来たもう一つの理由、それはゲストハウス火災の関係者に会う為だ。その関係者は、火災に巻き込まれた若い男性で、他の負傷者と一緒に市立病院に入院していた。

 その若者は、地元の人間ではなく、千葉から半年前に沖縄に来ていた。目的は仕事と調書には書かれていた。そして関係者の中で唯一、中東系の人物と会話したと証言していた。

 モノレールは電車と違い、壁のない高い場所を走るから街の景色が良く見える。

 那覇の街は、東京に似て緑が少なく、住宅も密集していた。

 被災地で見かけるブルーシートで屋根を覆った家屋は見当たらず、本当に地震に見舞われたのか疑ってしまう程に、普通の風景だった。

 そんな風景を漫然と見ながら、秋川は午前中のことを思い出していた。

 コーヒーだけの朝食を済ませたあと、秋川は久米島の儀間にある宿泊施設に、片っ端から電話を掛けた。やはり地震からの復旧が進んでいないのか、ずっと話し中の所や、コール音すら聞こえない所もあった。

 ようやく繋がっても、通話は不安定で声は途切れたこともしばしば発生した。

 ナジャフらしい中東系の人物が、沖縄北西沖地震の数日後に泊まっていたと証言してくれた宿泊施設は、リストアップした最後の五軒目の民宿だった。

 電話口の女性は、宿泊簿の名前は筆記体のアルファベットで読めないと言ったが、その人物はイラク人でナジャと名乗ったと答えた。

 リスニングの問題でナジャフの「フ」が音的に脱落したとしてもおかしくないが、ナジャフが久米島に渡った可能性があると分かり、秋川は軽い驚きを覚え、しばし絶句した。

 もしもし、と声が聞こえ秋川は我に返った。

 秋川は自分が警察官であると身分を明かし、その外国人について調べているので明日そちらに伺って事情を聞くと説明すると、どうせ暇だから構わないわよ、と笑い声と共に返事があった。そしてその電話で、明日その民宿に二人で泊まる予約を入れた。

 ――あとは瀧上が来るのを待つだけね。

 瀧上と会ったら真っ先に、どうしてナジャフが久米島に行ったことが分かったのか問いただそうと思っているうちに、市立病院前駅に着いた。

 病院は駅と直結していている。改札を抜け、渡り廊下を渡り病院に入る。

 自動ドアが開くと同時に病院特有の消毒液の匂いが漂っていた。


 六人部屋の窓際で、耳に複数のピアスにブリーチが落ちてきた金髪のその若者は、ベッドを起こし、週刊誌のマンガを読んでいた。

 今時の見た目軽そうな杉浦と言う名のその若者は、ナジャフと同じく建物から飛び降りたが、幸運にも途中の庇にぶつかり、一回転して落ちた先が自動車の屋根で、右足の複雑骨折と背中の打撲だけで済んだ。

 秋川が警察手帳を見せると、驚いた表情で秋川の頭からつま先までジーっと見た。

 一通り自分を見終わったと思った頃、秋川が火災の時の話を聞きたいと告げると、あからさまに嫌な顔をした。

「また話すんっすか、なんも知らないって。俺タバコ吸わないし目を覚ましたら火の海で、逃げるのに精いっぱいって何度言ったら」

「火災の原因の件じゃないわ。この人物に見覚えある?」

 秋川はナジャフの顔写真を見せた。杉浦は戸惑いながらその写真を見たが、首を捻った。

「名前はナジャフ・ア・サイード。イラク人よ」

 すると杉浦は、もう一度写真を見て、ああと呟いた。

「ナジャか。髭がなかったからわからなかったな」

 秋川が見せたのはパスポートに使用されていた髭のない顔写真だった。それにやはり日本人の耳にはナジャとしか聞こえないことが分かった。

「そのナジャのことで少し聞かせてくれる?」

「いいけど、まさかあいつが火を点けたって話になっているの?」

「いいえ。詳しい内容は言えないけど、彼の生まれ故郷の人達が、彼の最後を知りたいと日本の警察に頼んだの」

 あながち嘘とは言えない。回りくどい話を杉浦にしても仕方がない。ここはシンプルに話を進めた方がいいと秋川は考えていた。

 幸い杉浦は、秋川の言葉を疑わずに、へぇ警察ってそんなこともするのか、と感心した口調で言った。

「彼とはどんな話をしたの?」

「どんなって言われても」杉浦は少し首を傾げながら、自分が沖縄に来た時のことからポツポツと話し始めた。

 杉浦は地元のちょっと怖い先輩に楽な仕事があると声を掛けられて沖縄に来たが、実際は繁華街での客引きと、閉店後の客が汚した店内の清掃係りだった。全然楽じゃない上に時給は沖縄の最低賃金に合わせられていて、千葉のそれの八割もないと気づいた。

 流石に嫌気が差してきて、逃げるタイミングを探っていた時に地震が起きた。

 地震の混乱に乗じ仕事場から失踪したが、すぐに地元に帰ると先輩に何をされるか分からず、ほとぼりが冷めるまでと、格安のゲストハウスに転がり込んでいる時にナジャフと会ったと語った。

 火災が起きた当日のことだ。

「ドリンクバーに飲み物取りに行った時にナジャが受付のお姉さんにしつこく絡んでいてさ。最初ナンパしてんのかと思ったけど、すんげー身振り手振りで必死に何か言っていて、お姉さんも困った顔していたから俺が間に入ったのよ。ナジャが言うにはネットが繋がらない、メールができない、英語も打てないって言っている訳。

 そりゃそうだよ、あん時通信制限がバリバリ掛かっていてさ、フリーWiFiどころか電話も全部死んでいたし、突然停電にもなるからネットが繋がるどころの話じゃなかったからね。それを言っても、どうにかしてくれって今度は俺に泣きついてさ。仕方ないからとりあえずナジャの部屋に行ったのさ」

「優しいのね」

「お姉さんも可哀そうだったし、それよりナジャが必死でさ。そんでナジャの部屋に行ったらキーボードが日本語仕様だった訳。あそこ表向きは外人用のゲストハウスだろ、本当は外人用の個室に案内される筈だったと思うけど、地震のあとで店も混乱していたんだろうな、間違って日本人用の個室にナジャを入れたんじゃないの?

 だから俺は受付に訳を言って英語用のキーボードと交換してあげて、部屋のパソコンを設定しなおしたけど、それでもネットは繋がらないって説明したら、どうにか俺の話を理解してくれたよ」

「失礼なことを聞くけど、それは全部英語で会話したの」

「刑事さん、こう見えても俺大卒だぜ」

 杉浦は一瞬真面目な顔になったが、直後にニヤッと笑った。

「って言ってもお互い片言の英語。ネット イズ アウトとか キーボード オンリーユース ジャパニーズとか」

「彼はどんなことを言っていたの?」

「あー、どこかのホームページにアクセスしたいとか言っていたな」

「どこのホームページかわかる?」

「発音が聞き取れなくてさ、バーなんとか。でもユニバーとかっても言っていたな。バーなんとかのユニバーなんとか」

 発音は違うが、秋川には思い当たる場所がひとつあった。

「Baghdad University」

 秋川が英語の発音でその大学名を言うと、杉浦は驚いた顔をした。

「あーそんな感じ」

 バグダット大学。ナジャフは家族ではなく自分の職場に連絡を取っていた可能性があるが、杉浦のあやふやな証言では確証は得られない。

「彼が何をしようとしていたか、わかる?」

 杉浦はうーんと唸り、何をって言われてもな、と言った。

「あ、俺ナジャの部屋に結構長くいたんだけど、そん時ちょっとだけネットが繋がったのよ。そしたらナジャが大慌てでスマホとパソコン繋げて、そのバァダーなんとかのサイトじゃねぇかな、そのサイトにスマホのファイルを送ろうとしたぜ。俺が知っているのはそれくらいかな」

 それだ、と秋川は思った。もしナジャフが使ったパソコンが残っていたのなら、ハードディスクを解析してバクダット大学に送ったデータがなんだったのか分かる可能性がある。

 だが杉浦の次の一言で、その期待は打ち砕かれた。

「でもそれ送れなかったぜ」

「どうして?」

「ネカフェ使ったことないの?」

 秋川は首を横に振った。

「ネカフェのパソコンってスマホの画像を見れても転送できないのさ。だからナジャにもセキュリティ プロブレム、ビューイング オンリーって言ったら渋々納得したよ」

「どんなファイルだったか覚えている?」

「さあ、写真か動画じゃねぇかな。画像フォルダだったし」

「どんな写真?」

「わかんねーよ、チラッと見ただけだし。そしたらまたネットがブチブチ切れ始めて、慌てて掲示板みたいな所にちゃちゃっと何か書いていたけど」

「何を書いたか、見えた?」

「そりゃねーよ、刑事さん。写真もそうだけど他人のだぜ、プライベートを覗くなんでダメっしょ」

 杉浦の言葉は正しかった。そして秋川は知らずに詰問口調になっている自分に気づいた。

「失礼なことを言ってごめんなさい。でも君をマナー知らずの人間だと思って言った訳じゃないの」秋川は頭を下げた。

「いいって、そういったの慣れてるからさ」

 杉浦は苦笑いしながら、右手をヒラヒラさせていた。

「でもそれくらいかな。まともにネットに繋がったの、そん時ぐらいだから、掲示板の奴も送れたかどうかわかんないぜ」

 秋川の持っているイラク当局からの情報には、その記載はなかった。本当に把握していないのか、それとも隠しているのか、現段階では秋川には分からなかった。

「他に何か彼と話した?」

 杉浦は首を捻った。

「話つーか、俺が帰ろうとしたらリュックからお菓子だしてさ、俺に貰えって言う訳。いらねーって断っても、しつこくて結局貰ったけどね。まあ俺も貰いっぱなしで悪かったから、あとでオリオンの缶ビール持って行ったよ。今度はナジャが受け取らないって言ったからそのまま押し付けてきたけどさ。それくらいかな」

 イスラム教徒に酒を差し出しても、簡単には受け取らないだろうと秋川は思った。

「ところでお姉さん、本当に刑事?」

「もう一度警察手帳見せましょうか」

「いや普通刑事って二人ペアじゃねーの、それにさ」

 杉浦は秋川の顔を遠慮なく凝視している。

 秋川は、ふっと笑った。

 人を外見で判断し、先入観を持っている時点で、やはり自分が現場に出るには少し早かったと秋川は自戒した。

「君、中々鋭いわね。刑事にも色々事情があるのよ」

 その言い方に、杉浦は目を逸らし、まあそんなのもありか、と呟いた。秋川は頃合いだと思い、杉浦に礼を言って帰ろうとした時、杉浦が呼び止めた。

「刑事さん、お菓子貰ってよ。食事制限があって食べられないし、それに正直苦手な味なんだよね」

 杉浦は枕元の柵に掛かっている手提げの中に手を入れ、緑色の袋を取り出した。

「ありがとう、遠慮しておくわ」

「まあそう言わずに、って言ってもナジャから貰ったお菓子なんだけどね」

 え、と思わず漏らし、秋川は杉浦が持っていた緑色の袋を改めて見た。

「賞味期限は長いけど、もったいないからさ」

 杉浦の言葉を秋川は聞いていなかった。無意識に手が伸び、杉浦からその袋を取った。

『久米島特産品 おいしい黒砂糖くるざーたー

 袋にはそう書かれていた。

     〇

 秋川は帰りのモノレールの中でも、何故瀧上はナジャフが久米島にいったのが分かったのだろうかと、それだけを考えていた。

 それを考えている内に、秋川はホテルに着いていた。

 駅からホテルまで歩いている時は気づかなかったが、やはり空調の効いたロビーに入ると、やはり沖縄はまだ夏なのだと感じる。

 ふぅっと、溜息を吐き、秋川はそのロビーで瀧上の姿を探した。

 だが窓際のソファに座っているサングラスを掛けた派手な黄色の長袖のカラーシャツの人物を除き、ロビーはガランとしていて、フロントマン以外、人の姿はなかった。

 フロントの後ろの壁に掛かっている時計で時間を確認するが、もうとっくに瀧上が来ていてもおかしくない時間だった。

 ホテルまでの道のりを間違えたのか、最悪乗り遅れたのかと秋川が思っていると、遠くから黄色のカラーシャツが近づいてきた。

「遅かったね」

 その声を聞いて、秋川は思わず口を押えた。

 カラーシャツの人物はサングラスを外した。

 瀧上だった。サングラス姿もそうだが、モノトーンの服を着た瀧上しか知らない秋川は、派手な服を着た瀧上を認識していなかった。

 瀧上が眠たそうな目で、秋川を見つめていた。

「色々……あって」

 秋川はどうにか声を絞り出して答えた。

 瀧上は首を少し傾けた。

「そう、久米島行はいつになった」

「……明日の、朝九時の便」

「船? 飛行機?」

「……飛行機よ」

 瀧上は少しだけ悲しい表情を浮かべて、飛行機か、と呟いた。

「眠いから、君の部屋で寝かせて」

 そう言われ、秋川はようやく我に返った。

「あなたの部屋取ってあるわよ。チェックインして」

 瀧上は秋川が指さしたフロントを緩慢な動きで見ると、こくりと頷いた。

 瀧上が手続きをしている間、秋川はさっき迄瀧上が座っていたソファの近くに置かれていたボストンバッグを取りに行った。

 チェックインを終えた瀧上と一緒にエレベータに乗り、八階のボタンを押す。瀧上の部屋は秋川の隣だった。

「見慣れない服着ているからわからなかったわ」

 隣の瀧上の目は半分閉じかけていた。

「長袖がこれしかなくて」

「沖縄に来るのに長袖?」

「君だって長袖長ズボンでしょ。しかも黒」

「これは私の制服よ。仕方ないでしょ」

「それじゃ山登りできないよ」

「山登り?」         

「久米島で、多分、山登る」

 シュールな現代俳句みたいな瀧上の言葉に、秋川は暫し絶句した。

 それに今気づいたが、普段はパンプスみたいな平たい靴を履いている瀧上が、アウトドア風のスニーカーを履いている。

「なにそれ?聞いてないわよ」

 秋川の言葉に耳も貸さず、瀧上は扉が開くと、すっと出て行った。秋川は慌ててあとを追う。瀧上はフラフラと廊下を歩き、秋川の部屋の前を通り過ぎ、自分の部屋のドアを開けると、中に吸い込まれるように入って行く。瀧上はそのままベッドに倒れ込んだ。

「ちょっと」

 ベッドの上で眠りに落ちようとしている瀧上に、秋川は質問を浴びせ続けた。

 どうにか聞き出せたのは今日の行動のみで、締め切り間近の論文を今日の朝まで執筆していて寝ないまま飛行機に乗ったらしい。機内で睡眠を取ろうと思ったが、気流のせいか乱高下する機体に揺られ、まともに寝られなかったと、消え入る声で言った。

「飛行機、苦手だった?」

 瀧上は答えなかった。秋川は溜息を吐き、明日朝早いから起きてよ、と告げ部屋から出て行こうとした。

「ロープとか、ライトとか、買ってきて」

 秋川が振り向くと、瀧上からは軽い寝息が聞こえてきた。

 秋川は無意識に、そして少し乱暴に髪をかき上げていた。

 秋川はフロントで、近くにアウトドア用品店があるか尋ねた。一番近くてもおもろまちと言う場所にある大型ショッピングセンターにあると言われた。そこはモノレールの駅が最寄りにあるらしく、またモノレールに乗るか、タクシーで行くか悩んでいると、フロントマンが少し遠いが那覇空港の近くに大きなアウトレットモールがあり、そこであれば必要なモノは全て揃うのではないかと、親切に教えてくれた。

 秋川は礼を言い、タクシーでそこに向かった。

 結果、その選択は正解だった。

 個人的な買い物ではないが、秋川の背丈は平均的な女性の身長より高く、体型的なこともあり選択肢が多いのはやはり助かった。

 それに登山と言っても、どの程度の装備が必要なのか秋川には分からなかった。

 店員に久米島で登山を考えていると相談すると、久米島には標高の高い山はなく、トレッキング程度の装備でも十分だとアドバイスをくれ、服や靴、ライトなど装備一式を揃えてくれた。

 動きやすさと目立たないことが、靴を含めた秋川の服装に対する基準だが、全天候対応の機能性を持った服で身を包むと、秋川に新鮮な感情が芽生え、案外悪くないと思った。

 逆に瀧上はあの薄っぺらい黄色の長袖のカラーシャツで山を登ろうと考えていたのかと呆れ、秋川はついでに瀧上にと防水性のあるパーカーと中に着るシャツ、荷物を入れるザックを買った。

 秋川はアウトレットモールで夕食を済ませた。沖縄そばの店を探したが、生憎沖縄そば屋は営業が終わっており、『A&W』と書かれた、東京では見かけないファストフード店でハンバーガーセットを注文した。期待はしていなかったが、意外に美味しかった。

 戦後アメリカの統治があった沖縄には、アメリカの文化が濃く残っていると情報では知っていたが、二か月ほど公安の研修でアメリカに派遣された時に食べたハンバーガーの味に、確かに似ていた。黒コショウがアクセントになっている牛肉のパティと、厚めのオニオンスライス、フレッシュトマトの組み合わせが絶妙で、どちらかと言えば大味だが十分満足できる味だった。

 瀧上もハンバーグ好きだと思い出したが、これを夜食として買っていっても、一度寝た瀧上を起こすのは困難だと思い、秋川は自分の食事に集中した。

 タクシーでホテルに戻り、ノートパソコンに今までの捜査日誌を入力する。

 静かな部屋でタイピングしていると、ミシリと音がした。暫く間があってまたミシリと鳴り、微かな揺れを感じた。

 秋川はスマホでニュースサイトや気象庁を見たが、地震速報は流れていない。

 震度三以上が速報条件なのでそれ以下の揺れなのだろう。五分後、気象庁のサイトに沖縄地方で地震があり、津波の心配はなく那覇で震度一の揺れを記録したと表示された。

     〇

 半分眠っている瀧上が、綴られた二枚の紙を朝食が並んでいるテーブルの上に置いた。

 瀧上の部屋のキーを持っている秋川は、早朝五時に部屋に入り、昨日と同じ態勢で寝ている瀧上を無理やり起こし身支度を整えさせた。瀧上の朝の弱さを知っているので、この時間に行動を起こさなければ、九時の久米島行の便には間に合わない。

 ゆっくり朝支度をしている瀧上の荷物も、秋川がまとめた。

 その間、なぜナジャフが久米島に行ったのか、そしてなぜそれを分かったのか、秋川は何度もその質問を投げかけても、瀧上はうんうんと頷くだけで答えてくれなかった。

 斜め掛けのバッグを肩に掛け、ふらふらと歩く瀧上とレストランに入る。

 秋川は焼いたトーストとスクランブルエッグの乗った皿、コーヒーを瀧上の分まで用意し、それをテーブルの上に置くと、瀧上は持ってきたバッグから綴られた紙を、秋川に差し出した。

 秋川はそれを手に取り、一枚目に視線を向ける。

『土砂崩落で林道が通行止めに』

 沖縄の地元新聞の電子版を印刷した紙で、日付は沖縄北西方沖地震の五日前だった。

 ――なんの関係が?

 秋川はそう思いながら、記事を読んだ。

 沖縄北西沖地震の二週間前から、沖縄では前震と思われる群発地震が起きていて、最大震度五の強い揺れが久米島で観測されていた。

 恐らくその前震により土砂崩れが起き、久米島を横断する林道の一部が通行止めになったと、記事に書かれていた。

 記事には二枚の写真が添付されていた。

 一枚は、直径数メートルはある大きな石が道を塞いでいる写真。

 そしてもう一枚には、誰かが持っているサッカーボール大の平らな石が写っていて、その表面に幾つかのひっかき傷が見て取れた。

 その写真の下に『謎の文字?』とキャプチャがあったが、特にそれについて詳しい解説もなかった。

 秋川は三度この記事を読みなおしたが、地震の影響で山から土砂が崩れ落ち、久米島の林道が通行止めになっているのを報せる記事で、二枚目の『謎の文字?』の写真は、紙面を空いたスペースを埋めるだけの、『話のネタ』程度にしか思えなかった。

 これがどうしたの、と秋川が問い掛けると、瀧上が口を開いた。

 秋川の中にあった少しの眠気が、一気に消散した。

 ――楔形文字。

 五〇〇〇年前、シュメル人が発明した世界最古の文字。

 シュメル人は文字だけでなく、優れた科学知識と土木工学を用いて世界最古の都市国家を生み出し、その後に続く高度なメソポタミア文明の基礎を築き上げた。

 そしてその場所は、現在のイラク。

 瀧上は欠伸をしながら、捲ってと言った。

「久米島に住んでいる人が、その石の写真をSNSに載せていた」

 捲ると、二枚目にあった石の刻印のアップは、新聞の写真より鮮明だった。

 刻印の場所が欠けていたり、恐らく風化してぼやけてはいたが、確かに矢印の形もあり、楔形文字に見える。

「その人にDMでこの石をどこで見つけたのか問い合わせたけど、返事がない。更新もされていないし、地震の影響かな」

 欠伸を噛み殺し、コーヒーに口を付けながら瀧上は言った。

「その写真を画像処理して、刻印にハイライト入れてみた。楔形文字として認識できたのは数文字しかなくて文章にはならなかったけど、『家』とか『神殿』の意味持つ文字だった。ひっかき傷が楔型文字に見える偶然の一致の可能性は低いし、ただの悪戯にしても凝りすぎている」

 秋川は呆然と二枚目の紙を見ていた。だがそれだけの理由でナジャフが久米島に渡ったのか、まだ納得できないでいた。

「それだけの……理由なの?」

「それ以外にもある。シュメル語で東方をクメと呼ぶ。そして、久米島はイラクの東にある」

 秋川は目を見開いた。

「沖縄の地名や琉球語にシュメル語と共通した言葉が複数ある。前にも話したけど、琉球語には日本の古語が数多く残っている。あのプラグラムで解析しようと思ったけど、シュメル語も日本語と同じ膠着語こうちゃくごで、日本祖語系統が未実装だったから数値化と相関性の確認はできなかった。まあ仕方ない」

 淡々と話したあと、瀧上はトーストを齧りもぐもぐと咀嚼した。

「ナジャフは、シュメルの痕跡を探しに久米島に渡った……」

 瀧上は頷いた。

 秋川は少し道筋が見えた気がした。

 ナジャフはここ沖縄でシュメルの痕跡を見つけた。それを大学に伝えようとしたが、証拠となる動画や写真を送れなかった。だから杉浦の証言にあった、ちゃちゃっと最小限の言葉だけを送った。

 恐らく、シュメルの何かを発見したと、その言葉だけ送ったのだろう。

 だがナジャフは火災現場から墜落死した。

 大学は当局に連絡し、当局はナジャフがどこで何を発見したのか、日本に調査を依頼した。そう考えれば筋が通る。

 ――問題は何を見つけたか、だ。

 秋川の脳裏に頭蓋骨が真っ先に思い浮かんだが、法医学者でもないナジャフが頭蓋骨を見ただけでシュメル人だと判断できるのだろうか?

 鑑定でも、あれは古代人の骨とだけしか分からず、人種は特定されていない。

 だが全て仮定の話であり、推測の域を出ていない。

 秋川がもっと瀧上に話を聞こうとしたが、その瀧上はトーストを持ったまま俯いて、うつらうつらと船を漕いでいた。

「ねぇちょっと」

 秋川の問い掛けに、ピクリと肩が動くだけで瀧上は顔を上げない。秋川は舌打ちしそうになるのを堪え、スマホで時間を確認すると空港に向かう時間が近づいている。

 秋川は急いで朝食を平らげ、夢遊病者の瀧上をどうにか立たせロビーに連れて行くと、チェックアウトを済ませタクシーに乗り込む。

 車中、空港の待合室、飛行機の中。瀧上は常に目を閉じていて、秋川の呼びかけに軽く頷くだけだった。立って動いてくれるだけ助かっているが、何も聞き出せていない秋川のフラストレーションは、高まる一方だった。

     〇

 久米島は本島より暑く、そして静かだった。

 秋川は空港近くのレンタカー会社で車を借り、荷物と瀧上を載せ、ナジャフが泊まっていた民宿を目指す。空港は島の西の端にあるが、儀間は島の南、民宿も儀間漁港の近くにあった。

 車にはナビが装備されていなかったが、レンタカーの店員は笑顔で、ここではそんなの必要ありません、と秋川に紙の地図を渡した。

 広げると、確かに大きな道をそのまま進めば儀間漁港に着ける。礼を言ってそれをダッシュボードに置き、車を走らせる。

 車内はさすがに暑かったので、クーラーを点けた。

「……どれ位で着く?」

 助手席の瀧上がポツリと呟いた。

「起きていたの?」

「朝からずっと起きているよ」

 まったく、と秋川は溜息を吐いた。

「シュメル文明について、君はどの程度知っている?」

「メソポタミア文明の基礎になったとか、人類最古の都市国家や文学を生んだ文明。そのくらいよ」

 瀧上は軽く頷いた。

「その認識で当たっている。シュメルの民は、紀元前三五〇〇年頃だから約五〇〇〇年前に今のイラクの土地に人類最古の都市文明国家を築き上げた。

 それが古代シュメル文明と呼ばれている。それから幾多の王朝や文明がこの地に起こり、それを総じてメソポタミア文明と称している。そしてここからは僕の推論だよ」

 横目で瀧上を見る。瀧上の顔は秋川の良く知る表情になっていた。

「聞かせて」

 話す前、瀧上が少し息を吸った。

「最初のシュメル国家から一五〇〇年経った紀元前二〇〇〇年頃からシュメル文明は衰退し、シュメルの都市国家はバビロニアやアッシリアに滅ぼされたり吸収され、やがてシュメルの民は歴史の表舞台から消えた。

 だがその末裔は中東から世界に拡散して行ったと考えられている。そしてその一部が一〇〇年単位の時間を掛けながら東に進み、海を渡って、沖縄の久米島に到達した」

 シュメル語で東はクメ、秋川は瀧上の言葉を思い出す。

 瀧上は普段必要以上の言葉を話さないが、自分の専門分野になると、ハスキーな声のトーンが少し下がり饒舌になる。今がその時だ。

「シュメルの痕跡は久米島だけでなく古琉球語や本島の地名にも残っていた。久米島から更に東進した彼らが最初に上陸したのは多分沖縄本島の小禄おろくと言う場所だ。さっき僕達がいた那覇空港のある場所だよ。

 

 秋川は息を呑んだ。

「母音が四つしかないのも琉球語とシュメル語の共通点だ。中東から東南アジアに存在する少数民族の母音も四つしかない民族も存在する。彼らが使う言葉にもシュメルの影響が見られるのは、僕の最初の論文でも指摘はしていたけど、時系列変化までは解明されていなくて、シュメルの末裔がどういった経路を辿り、何時琉球に辿り着いたのか正確には分からない。

 だけど僕は紀元前後だと考えている。日本は弥生時代に当たるが、琉球では稲作や水田の痕跡が未発見で、考古学上は貝塚時代とされている。

 そしてそのすぐあとに農耕社会が始まり、高い城壁を持った城を作り、九州や中国との交易が可能な技術を持った高度な文明が始まる。

 それはグスク時代と呼ばれているけど、おかしいと思わないかい?

 鉄器もなく狩猟中心だった民族が、たった数世紀で鉄器を生み出し、石の城を築き、外洋を渡れる船と航海技術を獲得する。文明の進化速度が飛躍的すぎる。

 文明や技術が伝播しやすい大陸と違い、絶海の孤島と言える沖縄でそんな技術が自己進化したとは考えにくい。辿り着いたシュメルの民が古琉球に定着し、シュメルの土木技術や農耕を琉球の先住民に伝えた。そう考える方が筋が通る」

「言葉だけではなくその証拠も残っているの?」

 瀧上は頷いた。

「現地調査をした訳ではないから確実とは言えない。だけど物理的な痕跡は必ず残っている筈だ。例えばさっきグスク時代と言ったけど、グスクは琉球語で城を指す。琉球の城の城郭は石積みだ。日本で石積みの城郭が本格的に出現するのは安土桃山以降になる。

 日本よりも数世紀も早く、こんな小さな島で多くの城が作られ、その全てが精緻に積まれた石の城郭を持っている。それもシュメルが琉球に伝えた。琉球はシュメルと同じ石の文化だと僕は考えている」

 島の道は空いていた。後続の車も、すれ違う車もない。空港を出て初めて、秋川たちが乗る車が交差点で赤信号に捕まったが、横断歩道を渡る人はいない。

「シュメル人は謎の民族だ。メソポタミアの地に突然現れ、原始的な農耕文化しか持たなかった古代メソポタミアの先住民に技術を与え、高度な文明の種を撒いた。彼らの末裔はこの琉球でも同じことをしたんだと思う」

 信号が青に変わる。秋川は車を発進させたが、瀧上は民宿に着くまで何も語らず、再び目を閉じていた。


 民宿には迷わず着いた。通りに面していたのもそうだが、予約を入れた時に、黄色い建物だからすぐ分かると言われていた。

 駐車場に車を停め降りる。海は見えないが、潮の匂いが強い。助手席から出た瀧上は、レンタカー会社で貰って来た地図を持っていた。黄色い建物は、民宿と言うよりビジネスホテルの佇まいだった。

 フロントの受付には、新城あらしろと名札を付けたふくよかな体型の女性が一人だけだった。

 秋川が予約していた名前を告げ、警察手帳を開いて見せたが、新城はそれをチラッと見て、ご苦労様ですねの一言だけで、警察が来たことを気にもしていなかった。

 秋川はその方が有難く、続いてナジャフの写真を見せた。

 ここに来た時は髭を生やしていたと秋川が断りを言う前に、新城は大きく頷いて、そうこの人、日本語話せなくて大変だったわ、と笑いながら言った。

「あんな顔ウチナーンチュにもたくさんいるから、最初外人さんて分からなくて。泊まりたいって言うから、びっくりしちゃって。だって地震から一〇日も経っていないのに、こんな田舎に外国からのお客さんが来るって思っていなかったのよ」

 新城は何故か嬉しそうに早口で喋っていた。

「でも変な人でね、三日目かしら朝早く出て行って昼過ぎに汚れて帰って来たと思ったら、大声で何か言っているの。どうしよかと困っていたら、丁度学校から娘が帰って来て、電子辞書でやりとりしたの。あれ便利ね、驚いちゃった。

 そしたら懐中電灯と、何でもいいから大きなバッグを売ってくれって言ってたのよ。懐中電灯は家にあった古いのをあげたけど、この辺にはバッグ売っている店なんかないから、空港の近くにいけば売っていると教えたけど、今すぐ欲しいって聞かないのね。

 仕方ないから家にあった、もう使っていない死んだジイさんのバッグあげたら、また喜んでくれてね。すぐ飛び出して行って、帰って来たの真夜中よ。私呆れちゃって、よく覚えているわ」

 秋川と瀧上の目が合った。瀧上は軽く頷いていた。

「それは持ち手が黒く、本体が白のバッグですか?持ち手はご自分で付け替えられた」

「あら、良く知っているわね」

 新城は目を丸くして驚いていた。まさか鞄の出所が分かるとは思わなかったが、ナジャフがこの宿に泊まっていたのは確実だと確認できた。

「警察の人でも、こんな時に止まってくれると助かるわ」

 秋川が宿泊カードを書いているのを見ながら、新城はしみじみと言った。

「まだ地震の影響が?」

「ええ、キャンセルだらけよ。電気はもう大丈夫だけど最近また電話が繋がりにくいの。特にネット。ほら今の人はスマホとかやるでしょ、電波もWiFiも繋がらないって言うとみんな敬遠しちゃって。電話局の鉄塔アンテナって言うの?地震であれが倒れちゃったから、今新しいの建てているんだけど、色々うまくいっていないみたい」

「この島も被害は大きかったんですか?」

「群発地震の時はずっと揺れていて気持ち悪いってくらいだったけど、本震の時はそれはもう凄かったわよ。本当に死ぬかと思うくらい揺れて。タンスや食器棚とかも倒れて室内は目茶苦茶になったけど、建物は窓ガラスが割れたくらいで済んだの。

 島の建物もそんなに壊れたりしなかったし、旦那が消防団員なんだけど、沖縄って台風が多いでしょ。だから昔から鉄筋コンクリートの建物が多くて、それで被害が少なくて済んだんですって」

 ――琉球は石の文化だ。

 石と鉄筋コンクリートは違うが、秋川はふいに瀧上の言葉を思い出した。

 新城は、最近また小さな余震が続いて、旦那がその度に署に呼ばれるから早く収まってほしいと、一方的にお喋りを続けている。

 大変ですね、と秋川が二枚の宿泊カードを差し出すと、鍵を一つだけ出してきた。

「予約は二部屋ですが」

 新城はカードと秋川の後ろにいた瀧上を見て、え?と不思議な表情を浮かべた。

「僕は気にしない」

「部屋、ありますよね」

 秋川は瀧上の言葉を無視して、身を乗り出し、新城に強く言った。

 宿はエレベータがなく、秋川たちは階段で部屋のある二階に上がった。当然と言えば当然だが、秋川と瀧上の部屋とは隣同士になった。

 別れる時、秋川は瀧上に紙袋を差し出した。不思議そうに首を傾ける瀧上に、トレッキング用の服よ、着替えて、と言った。

 瀧上は紙袋を受け取り、中を見て何も言わずに頷いた。

「でもどこの山に行くの?あの石があった場所はわからないんでしょ?」

「一つ心当たりがある」

 瀧上は折り畳まれた地図を、秋川に見せた。

     〇

 荷物を部屋に起き、買って来た服に着替える。靴を履き替え、ザックにライトや手袋を入れる。本当に必要か分からないが、秋川はロープも入れた。

 スマホを見ると、新城の言っていた通り電波表示は圏外で、GPSも不安定で拾えないのが分かった。持っていくか悩んだが、どの程度の登山なのか分からない状況では、少しでも荷物を減らした方が良い考え、スマホをテーブルの上に置き、部屋を出た。

 ロビーに降りると、ザックを背負った瀧上が、カウンターを挟んで新城と話していた。カウンターには地図が広げられている。

 アウトドアファッションの瀧上の姿は、秋川にとって新鮮に見えた。

「ではウタキの場所をあの外国人に教えたんですね」

「そうよ、この近くで神様を祀っている所を教えてくれって言うから、娘が神社とかウタキの場所を地図に場所や名前をローマ字で書いて教えたのよ、そしたらその外人さんまた大声出していきなり踊りだして。外人さんって感情表現豊かよねぇ」

 秋川の耳にそんな会話が聞こえてきた。

「でもなんであんな所のことを聞くの?年寄り連中だってもう行かないし、私も話に聞いたことあるだけで観光名所でも何でもないのよ」

 新城は畳みかけるように、瀧上に質問を繰り出した。

「そういえば、なんで警察があの人を調べているの?悪いことをした人には見えなかったわよ。確かにちょっと変な人だったけど帰る時にはバッグのお礼を何度もしてたし。

 まさか密入国者とか?でもそんな訳ないわよね、こんな田舎の民宿に泊まる密入国者なんていないわよね。ね、本当はどうなの?」

 新城はカウンターに身を乗り出し、瀧上の顔の近くまで寄ってきた。

 瀧上の表情が固まる。そのフリーズした表情は、例の非凡な洞察力や推理力を生み出す際に現れるものではないと、秋川は分かっていた。

 多分瀧上のこれまでの人生で、これほどまでに自分のパーソナルスペースに無遠慮に入り、会話ではなく一方的に言葉をぶつけてくる人間に遭遇したのは初めてで、さすがの瀧上でも処理しきれてないのだと秋川は思い、そして笑いそうになった。

 その瀧上が秋川に気づき、表情がフリーズしたまま新城に頭を下げ、カウンターを離れた。そして秋川に向かってロビー奥の応接ソファを指さした。

 二人はテーブルを挟んで座った。そのテーブルに、瀧上は地図を置く。

「ご苦労様」

 秋川がそう言うと、瀧上は小さく頷いて、そして言った。

「意外と似合うね」

「え?」

 秋川は聞き返した。

「そんな服を着ている君を初めて見たけど、似合っている」

「あなたも意外と似合っているわよ」

 少し間を置いて秋川が呆れ気味にそう返すと、瀧上は首を横に傾げ、うんと頷いた。

 改めて二人で地図を見る。

「今僕達がいるのがここ」

 瀧上は地図を指さした。その時、秋川は思い出した。

「そうだ、どうしてここにナジャフが泊まっていたのがわかったの?」

「ここの地名は儀間、そうだよね」

 秋川が頷く。

「シュメル語で「ギマ」は葦船や船を示す言葉。そしてここは港がある。恐らく葦船に乗ったシュメルの末裔は、久米島で最初にここの海岸に辿り着いた」

「葦船って……そんな船で海を渡れるものなの?」

「二〇世紀に人類学者のヘイエルダールが実際に葦船で大西洋横断している。葦船じゃなくても、紀元前後なら外洋を渡れる船や、季節風を利用する航海技術を人類は既に持っていた」

 秋川が呆然としていると、瀧上は話を進めた。

「そして僕達が目指す場所は大体ここ。新聞にあった林道もここを走っている」

 瀧上が次に指さしたのは、秋川から見て最初に示した所から南に下った山の中だった。くねった道が続いていて、等高線のない地図なので地形が分からない。

 儀間漁港から瀧上が指を指している場所まで、大雑把な感覚だが車で一〇分も掛からないと秋川は思ったが、なにせ正確な位置を把握できないのが不安だった。

「場所が大雑把すぎない?手あたり次第だと時間掛るわよ」

 瀧上は無言で、地図の一点を指さした。そこは先ほど瀧上が指差した場所の左側だった。

「確かに大体だけど、この林道の西側に山がある。名前はアーラ岳」

 地図には確かに小さな文字でアーラ岳と書いてある。

「この山の頂上付近にウタキがある。新城さんの話では林道のこの大きく曲がった場所にウタキに登れる道があるらしい」

 瀧上が地図から指を離すと、指があった場所に描かれていた道は、Uターンの形で大きく曲がっていた。

 新城との会話にも出てきたが、ウタキと言うのは初めて聞く言葉だ。

「ウタキって?」

「日本語では御嶽山おんたけさんの御嶽と同じ漢字。沖縄では聖地聖域をそう呼んでいる。この山の頂上にあるウタキの名前は、バルグウタキ。バルグは多分バラグ。シュメル語で王座とか聖域を意味する言葉だけど、それが変化したものだろう」

 シュメル語で、葦船と聖域の名がある場所。

 確かにイラクで考古学を学んだ者ならここに興味を示すだろうと、秋川は思った。

 秋川はスマホで時間を確認しようと思ったが、スマホを持っていないのを思い出した。ロビーの壁に掛かっていた時計を見ると、時刻は一二時を少し回った所だった。

 瀧上と目が合う。二人は何も言わず立ち上がった。

     〇

 車に乗り込むとムッとした熱気に秋川は顔を顰めた。ハンドルも最初触れた時、思わず離してしまう程の熱を持っていた。エンジンを始動してすぐにクーラーを点ける。少しの時間、外に置いてあるだけでここまで熱くなることに、秋川は南国を感じた。

 後部座席に二人のザックを置き、出発した。相変わらず道には車も人影もない。暫くは住宅街の中を進む。新城の話では、そのまま行くと川が見えて来て橋が現れる。

 その橋に「アーラ林道」の看板があるからそのまま進めばいいと、秋川は新城から言われていたが、まだ通行止め中だから通れないとも言われた。

 言葉通り、住宅街を抜けると川があり、林道を示す看板もあった。秋川はそのまま橋を渡り、林道に入る。

 標高の低い山しかないと言われていたが、木々が生い茂る林道に入ると上空が見えず、どの程度の山なのか、秋川には分からなかった。緩やかなカーブを何度も曲がり、アップダウンを繰り返す。少し視界が開けてもすぐに遮られ、その一瞬見える景色は、山と言うより原生林だった。

 林道は対向車とギリギリすれ違う程の狭さで、地震の影響だろうか路面の状態は良くなかった。大きなひび割れはなかったが、所々穴が開いていて、更にわだちがあり、秋川は何度かハンドルを取られた。幸い両側は崖ではなく、逆に緩やかに上っている斜面で、林道は谷間を走っていると思われた。

 ナビがないので目的地まであとどれ位か分からないが、新城が言っていた場所はまだ見えてこない。緩やかに曲がるカーブに併せハンドルを切った時、ガタガタと振動を感じ、秋川はこれまで以上に大きくハンドルを取られた。

 パンクしたのかと驚いてブレーキを踏む。そしてゆっくりと路肩に車を寄せた。

 秋川はドアを開け降りた。だがパンクを確かめる訳ではない。

 前方の道は、鉄パイプで組まれたバリケードが置かれ、行く手を阻んでいた。


 二人は車を置いて林道を歩くことにした。秋川が先に歩き、瀧上があとに続く。少し動くだけで、二人の額には汗が滲む。道の上まで伸びた木の枝がトンネルを作り、陽を遮ってくれているが、湿度が高く、風は吹いてこない。

 秋川はどこまで歩くのか少し不安になったが、すぐにその場所が現れた。

 黄色いテープが巻かれた大きな岩が道を塞いでいた。

 それは秋川が見た、新聞の写真に写っていた大岩だった。

 右手の斜面の木々はなぎ倒されていて、えぐられた赤茶の地面も見える。道の上には大小様々な石が転がっている。

 大岩が塞いでいる道の先は大きく左に曲がり先が見えない。そして曲がりの右側の路肩は広くなっていて、舗装されていなかった。

 ここだと思い、秋川が振り返ると、瀧上は屈んで路面に転がっている石を見ていた。

「あの石、探しているの?」

 瀧上は首を振り、足元に転がっていたこぶし大の石を拾うと秋川の元にやってきた。

「地震は何時だった?」

「大体一カ月前……どうしたの?」

「石の破砕面が新しい」

 瀧上が見せた石は全体的に黒かったが、所々欠けた部分が白くなっていて、つい最近欠けたように見えた。

「余震の時に、山の上から転がって来たんじゃない」

 瀧上は無言でじっと石を見ていたが、そうかもねと呟き、その石をぽいと捨てた。そして秋川の後ろにある大岩の先を見た。

「行こう、もう少しだ」

 二人は岩を避け、舗装されていない路肩を通り大岩の向こうに出た。そこの路面にも多くの石が散らばっている。それも避けながら歩き、大きく左に曲がるカーブの路肩まで来た。そこから山の方を見ると、思った程急こう配ではなく、そして獣道なのか、木々の下に人ひとりが通れる空間が山の上まで続いていた。

「手袋、必要だね」

 瀧上はそう言って、いつの間にかザックに入れていた軍手二組を取り出していて、一つを秋川に差し出した。

 互いに軍手をはめ、瀧上から獣道に入っていた。藪になっている背の丈程の雑草を掻き分け、上を目指す。足元は見えなかったが、秋川の足裏に伝わる感じから、地面は土ではなく石が敷き詰められていると思う程固かった。そして滑る。秋川は慎重に足を動かしていたが、前を歩く瀧上はリズミカルに雑草を左右に掻き分け、軽い足取りで上って行く。

 秋川はこんなにアクティブに動く瀧上に驚きつつ、必死に瀧上の背中を追った。

 数分も経っていないと思うが、視界的にも心理的にも、先が見えない行動は時間の流れを遅く感じる。

 だが、それはいきなり現れた。

 そこは木と岩に囲まれた空間だった。空間の奥には黒い岩の崖がそそり立ち、その崖に上には見たこともない大木の枝葉が天を覆っている。そして、その大木から伸びた無数の太い根が、崖の表面を蜘蛛の巣の如く覆っていた。

 人が一〇人程座れる程の広さの地面も、木の根がびっしりと貼り付き、所々根の隙間から岩が飛び出していた。

 瀧上は既にその空間に入っていた。秋川も続きそこに入った。

 ひんやりとした空気を感じる。

「ここがウタキ?」

 確かに他と異質な場所とは分かるが、祠や石柱みたいな構造物がなく、地面も根が張っていて人々が祈りを捧げる場所とは秋川には思えなかった。

 こんな何もない場所が聖域なのかと、秋川は思わず尋ねていた。

「木があり岩がある。日本の神道ならその木や岩に神が宿っているけど、古琉球の神はニライカナイと言う遥か海の彼方の異界から来訪し、豊穣や恵みを与えると信じられている。ウタキとはその神が下りて来る場所であり、その神を祀る場所」

 秋川は大きく深呼吸をした。冷たい空気が秋川の胸を満たす。森の甘い香りに混じり、少し潮の香りを感じた。

 気づくと瀧上がウタキの右奥に歩いていった。そこは木々がなく陽光が差し込んでいて、逆光で瀧上がシルエットになっている。

 秋川は慌ててあとを追うが、地面を這っている根で躓きそうになり、早く動けない。足元を見ながらどうにか追い付き瀧上の傍に来た時、瀧上が右腕を上げ秋川を制した。

「危ないよ」

 え?と秋川が足元を見ると、あと数歩先の地面がない。瀧上は絶壁の縁に立っていた。

 秋川は慌てて後ろに下がった。

 秋川は驚き乱れた呼吸をどうにか落ち着かせ、顔を上げると、青い空が見えた。慎重に瀧上の横に立つ。

 そこから見えたのは空と海の絶景だった。紺碧の大海原が視界一杯に広がり、水平線は直線ではなく、緩やかに曲がっている。空は澄んで高く、海原には小さな白波が見える。

 秋川が視界を下に移すと、深い緑の山の裾野の先に白い砂浜が見える。聞こえる筈はない波音が、秋川の耳に届いた気がした。

「彼らはあそこから来た」

 瀧上が呟いた。視線は遥か水平線の先を見ている。その時、海からの風が二人の間を吹き抜けて行った。

 二人は暫く絶景を見ていたが、瀧上があっちだと言いウタキの右手の奥を見た。そこも木が生い茂っていたが、やはり獣道が続いている。その道の両側は緩やかに下っていて、山の尾根に沿って道が続いていると思われた。

 再び藪を掻き分け、枝を折り進む。上り下りはあるが、感覚的には少しの下りだった。

 急に瀧上が立ち止まった。

 瀧上の先の道が大きくえぐれる形で陥没し、山の斜面も崩壊していて穴が開いている。秋川が瀧上の傍に立ち、見下ろすと、二メートルほど陥没している穴の側面は土に混じり岩が見えた。視線を右にやると、山の斜面の木々は幹が途中で折れ、なぎ倒されていた。

 その跡は数一〇メートル先まで続き、緑深い山の中に消えていた。

 この場所からだと、山の斜面には裾野に向かって木々のない場所が、鋭い爪のひっかき傷みたいに数本の細長い筋になって見える。

 道を塞いでいた巨石や他の石も、恐らくここから転がり落ちたのだろうと、秋川は思った。再び陥没した穴に目をやる。赤い色をした土砂と、その中に白い岩が混じっている。

 その時、瀧上が無言で穴の下を指さした。秋川がその指の先に視線をやると、黒い穴があった。二人の立っている場所から、数メートル下にあるその穴は、恐らく人の頭程の大きさに、秋川は見えた。

 二人は目を合わせ頷く。

 秋川はザックからロープを取り出し、近くの木の太い幹に結んだ。秋川は自分から降りると言って、ロープを握り穴の下に降りていく。秋川は穴の側面に足を掛けたが、やはり固く感じ、途中パラパラと落ちる土の下からは岩が見えた。

 穴の下に着き、軽く数回地団駄を踏み足元が崩れないのを確かめる。大丈夫だと確認し、秋川は上にいる瀧上に合図した。

 慎重に下りてきた瀧上と二人で黒い穴の方に近づき、中を覗き込んだ。

 先まで見通せないが、広い空間があるのが分かる。穴の下の方の赤土を手で掻き出し、穴を広げていく。

 赤土は少し粘り気があり意外と掘りやすかった。やがて少し腰を曲げ、頭を下げればどうにかくぐれるまでに穴が広がった。

 穴から中の空間には土砂がなだれ込んでいて、それを伝って中に降りられるのが分かった。今度は瀧上が先に行くと言って、穴の中に入って行く。

 秋川が続き、足で先を探りながら入る。土の匂いを濃く感じる。

 少し行った所で一メートルほどの落差があったが、瀧上は既に下に降りていた、そこから手を伸ばしていたので、秋川はその手を掴み下に飛び降りた。

 差し込む光で照らし出されたその空間は、洞窟だった。横幅は三メートルはあり、頭上は立って歩ける程の余裕がある。

 瀧上がザックからライトを取り出し、点けた。瀧上はぐるりとライトを動かす。青白い強い光に照らし出された洞窟の奥は暗く、天井には円錐状のつららが垂れ下がっている。

「鍾乳洞だ」

「……こんな山の上に鍾乳洞があるの?」

「沖縄は珊瑚礁が隆起してできた島だから、海抜が高い場所にあっても不思議じゃない。沖縄ではこういった洞窟をガマと呼んでいて、旧石器時代や貝塚時代の遺跡が見つかるケースもある」

 秋川もザックからライトを取り出し点ける。二本の青白い光でも鍾乳洞の奥の暗闇に吸い込まれ、先が見えなかった。

     〇

 鍾乳洞は微妙に下りながら左に曲がっていた。地面は小石や時には頭大の岩、つららの鍾乳石が転がり、岩が剥き出しだったが、幸い濡れてはおらず比較的歩きやすかった。

 二人は何も言わず進んでいた。入口から差し込んでいた光の届かない場所まで来た時、瀧上の歩みが止まった。

 地面に一抱えもある大きな平たい岩が転がっていた。だが同時に違和感もあった。秋川はライトを壁や天井に当てた。その違和感の正体はすぐに分かった。

 ここまで両側はゴツゴツとした岩の壁だったのが、岩が転がっている場所から向こうは、壁が平面になっていた。

 頭上にあった鍾乳石も見当たらない。壁に近づきよく見ると幾重にも削った縦筋があり、人の手で削られ平面に形成されていたのは明らかだった。

 地面にあった平たい岩は、そこと鍾乳洞との境目の天井から落ちたもので、その跡には大きな穴と赤土が見えた。

 そして地面も、平坦に均されている。

「多分、ここからが彼らの聖域だ」

 瀧上の少し低い声が聞こえた。

「ナジャフはここから頭蓋骨を持ち出したのね」

 秋川の声が、冷たい空気で満ちている鍾乳洞の中に静かに響く。瀧上は頷いた。そして珍しく息を深く吸った。

「頭蓋骨だけじゃない。鞄の中に一緒にあった土の成分で分かった。

 粘土板!

 ――何故気づかなかったのだろう? そうだ、あの土塊は粘土だ。

 シュメル人は楔形文字を粘土板に刻み記すことで、知識を集約し普遍化させ、人類最古の文明を築き上げた。

 秋川は驚き、瀧上の横顔を見た。瀧上の視線は闇の先を見ていた。

「ゼオライトと石英、シルトの成分比率が日本や沖縄の土壌と違いすぎる。イラクの土壌とは特定はできなかったけど、中東の砂漠地帯、それも河川流域のそれに近いと確認できたよ」

「……粘土板がイラクから持ち出された可能性は?」

 それならイラク当局がナジャフの行動確認を求めてきたのにも筋が通る。

 もし本物の古代メソポタミア時代の粘土板なら、人類の宝と言うべき文化財を国外に持ち出したとなると、秋川は思った。だが瀧上は即座に否定した。

「それはないだろう。ナジャフは欧州から台湾経由で沖縄に入国している。粘土板を手荷物にして二か国以上の入国審査をパスする可能性は低いし、預けるとなると破損する恐れがある。そんな危険を冒して貴重な歴史的遺物を持ち出す訳はないよ」

 かつて自分で否定した説を思い出し、確かにそうね、と秋川は自嘲しながら呟いた。

 転がっている岩を避け、中に進む。青白い光が周囲を照らす。両側の壁は徐々に離れていき、天井も高くなっていく。

 やがて、二つの光は行き止まりの壁を照らし出した。

 そしてその行き止まりの壁には、整然と並んでいる長方形の人工物が見えた。

 数メートルの距離はあるが、秋川の目にもはっきりと分かった。

 それは楔形文字が刻まれた粘土板だった。


 ――聖域。

 瀧上がそう呼んだ場所は、円形に近い広場の形をしていた。

 二人は広場の中心部に立った。足元は石張りで、その上には天井から落ちてきたのだろう、土や石の塊が転がっている。

 それを避け、秋川と瀧上は背中合わせに立ち、秋川が上を照らした。

 広場の天井は、歩いてきた鍾乳洞の天井よりも数メートルは高く、ドーム状になっていて、そして木の根で覆われていた。

「ここはウタキの真下かもしれないね」

 瀧上の声が高いドームに反響する。秋川はウタキにあった黒い崖とそこに根を張り、天を覆っていた巨木を思い出した。

 天井の根はその巨木のだろうか。

 秋川は再びライトを前に向け、ぐるりと周囲を照らす。

 壁際には、祭壇なのか、上下二段の段差が広場を囲み、そこに粘土板がずらりと並んでいた。数は五〇枚を超えるだろう、だがその三分の一は倒れたり割れたりしていた。

 そして床には頭蓋骨が一〇個近く前を向いて置かれている。

 こちらも数個は割れていたが、その他はほぼ無傷だった。

 ……本当にあった。

 秋川はこの光景が現実なのか、俄かには信じられなかった。

 想像を絶する年月と距離を超え、人類最古の文明を築き上げたシュメルの末裔が、東洋の大海にある小島に辿り着いていた。

 なんと壮大な物語か。

 幾星霜知られることのなかった人類の文明伝播の足跡が、秋川の目の前にあった。

「歴史が変わるわね」

 秋川は思わず呟く。

「それだけじゃない。あの粘土板は神話が生まれた瞬間を記録したハードメディアかもしれない」

 後ろに立っている瀧上が言った。

「楔形文字が読めるの?」

 いや、と瀧上は言ったが、

「だけど大体の予想はついている」

 瀧上が秋川と並んで立ち、粘土板に光を当てた。瀧上はゆっくりと口を開いた。

 秋川は息を呑んだ。

 ――ギルガメッシュ叙事詩。

 古代メソポタミアの王ギルガメッシュの生涯を描いた世界最古の英雄譚。

「ここにある粘土板は、シュメル語で書かれた叙事詩の原典(オリジナル)の可能性が高い」

 瀧上が静かに語り始めた。

「全ての神話はシュメルから始まる。天空神アン、大気神エンリル、女神イナンナ、その他の神々が織りなす世界の創世物語は、のちのギリシャ・エジプトのオリエント世界の神話や旧約聖書にも影響を与えた。

 そしてシュメルに伝わる神話や叙事詩の中でも、ギルガメシュ叙事詩で描かれた、ある事象が僕の理論においての重要な鍵になる」

 瀧上の言葉に熱が帯びてきたのが伝わってくる。

「大洪水伝説。旧約聖書や世界中の神話にある地球規模の天変地異の記述は、ギルガメッシュ叙事詩から始まった。現存している一二枚のギルガメッシュ叙事詩が記された粘土板はシュメル語ではなく、約一〇〇〇年後のアッカド語で書かれ編纂されたものだ。その一二枚も完全に揃ってはいないとされ、欠落している物語もある。そして最新の研究では、ギルガメッシュは実在の王だった可能性が高いとされている。実存した王の物語に記述された洪水の記録。この粘土板が叙事詩の原典なら、その全てを僕は読んでみたい」

 欲望をまったく口にしない瀧上が、秋川に初めて言った願いの言葉だったが、秋川は横にいる瀧上の顔を見ることはしなかった。

 できなかった。怖かったからだ。

「……でも」

 秋川は言葉を続けられなかった。

 ――それは飛躍し過ぎではないか。

 その秋川の無言の問いに、瀧上は答えてくれた。

「ナジャフは中東古代言語の専門家だった。だから最後の言葉は間違っていないと思う」

「最後の言葉?」

「ビルガ」

 確かにそれは、ナジャフのいまわのきわの言葉だ。

 瀧上は少し間を置いてから、静かに告げた。

「ギルガメッシュはシュメル語でビルガ・メシュ。ナジャフは最後に伝説王の名を呼んだ」

 秋川は眼を閉じた。再び暗闇になる。その中で息を吸い、吐いた。

 地震がなければ土砂崩れもなく、あの楔形文字の岩もナジャフの目に留まることも、歴史的大発見もなかっただろう。

 だが久米島から本島に戻ったその夜に、火事に巻き込まれた。

 ――もし彼が本島に戻らなかったなら。

 ――もし彼があのゲストハウスに泊まらなかったなら。

 ――もし彼がすぐに瀧上に会っていたなら。

 ……もし……

 運命の分岐点は、その時は見えない。非情な結果は避けられない運命だったのだろうか。ナジャフの無念が秋川の心を締め付けた。そして静かに、彼に黙祷を捧げた。

     〇

 光を当てられた粘土板は黄色く輝いていた。

 大きさは様々あり、幅はひと抱え程で高さも一メートル近いものから、タブレットサイズのものもあった。

 ナジャフが持っていたバッグのサイズを考えれば、タブレットサイズを選んで頭蓋骨と一緒にここから持ち出したのだろう。

 横にいる瀧上を見ると、いつもと変わらない表情に見えたが、その目は真っすぐに粘土板を見て動かない。

 フリーズしているのかと思ったが、それとは少し様子が違っていた。

 まるで憧れのヒーローを見ているみたいで、瀧上でもこんな表情をするのだと、秋川は少し驚き、そして微笑ましく思った。

 ――カチカチカチ。

 秋川の心に灯った仄かな温もりを消す、不穏な音が聞こえてきた。その音は微かで、空耳かと思ったが、それは確実に鳴っている音だった。

 洞窟の中、その微かな音は反響し、最初どこから音が鳴っているのか分からなかった。

 それでも秋川は耳を澄ませ、音が鳴っている場所を探した。

 すっと瀧上の持っていたライトが下に動き、床に置かれていた頭蓋骨を照らした。

 秋川の心臓がドクンと大きく跳ねる。

 青白く光る頭蓋骨が、微かに振動していた。顎が微かに動いて上下の歯がぶつかり、それがカチカチと鳴っていた。思わず秋川は他の頭蓋骨に光を当てた。

 眼窩の中の黒い影が動き、一斉に自分たちを向いた錯覚に陥る。

 その時、別の不気味な音を感じた。

 だが耳で聞き取れる音ではない。足元から伝わってくる、不快な重低周波だ。

 真っ先に本能が反応する。

 ――逃げろ。

 二人は目を合わせた。

 その刹那、瀧上はいきなり秋川の手を掴むと、踵を返し走り始めた。 

 ゴゴゴゴゴゴゴ―

 鍾乳洞全体が震える程の地響きが鳴り響き、反響して耳を聾する。

 地震はまだ収まっていない。

 迂闊だったと、秋川は後悔したが、今は逃げるしかない。

 ドン!

 下からの強烈な突き上げで二人の体が浮き、地面に転がった。その時持っていたライトを手放してしまった。バラバラと頭に土や砂が落ちて来て、細かく舞った土埃が喉や鼻腔に入りこむ。

 暗闇の中、咳き込み座り込んでいる秋川を瀧上が抱えて立ちあがらせ、手を引き出口に向かった。

 何度も何度も揺れが二人を襲い、壁にぶつかり、地面にある岩に躓き転んだが、その度瀧上が秋川を抱き起こした。

 秋川は光を感じた。出口だ。この地震で出口を塞いでいた土が崩落したのか、入ってきた時より穴が大きくなっている気がした。

 ドン!

 再び大きな揺れが秋川たちを襲った。

 その時、ザザっと大量の細かい砂が二人の頭上から落ちてきた。

 ドドドと轟音が鳴り響いたと同時に、突然瀧上が秋川を突き飛ばした。

 秋川は前のめりになって地面に転がる。痛みに耐え立ち上がるが、周囲は粉塵が舞い、秋川の視界は全く効かなかった。

 ウテナ!

 秋川は叫んだ。耳がおかしくなったのか自分が発した声が聞こえない。

 視界の効かない中這いつくばりながら、秋川はさっき居た場所へ急ぐ。

 指が見えない岩にぶつかり、軍手の中で爪が割れ、指の肌は裂け血が滲む。それでも秋川は必死に手を伸ばした。

 伸ばした先の手の平がまた岩に当たる。壁ではない場所に壁があった。

 落盤だ。

 天井から崩落した土や岩が鍾乳洞を塞いでいた。

「萼!」

 再び大声で瀧上の名前を呼ぶ。粉塵が収まってきて、どうにか秋川の周りがぼんやりと見えてきた。

 瀧上がいた。あお向けで倒れていたが、両脚は崩落した岩や土で埋まっている。秋川は瀧上の元へ急いだ。秋川は瀧上の顔を確認する。

 苦悶に満ちた表情の瀧上の口が動く。

 ……逃げて。

 秋川は首を横に振って、血が滲んでいる軍手で土を掻き出していた。土砂の中の岩に指が激しく当たるが、秋川の痛覚神経は麻痺していた。必死だった。

 その時、秋川の腕を瀧上が強い力で掴んだ。

「逃げて、君も巻き込まれる」

「嫌よ!助けるから離して!」

「冷静になって。昔の君なら判断できるだろう」

「そんなの……できる訳ないじゃない!」

 秋川はヒステリックに叫んだ。

 瀧上は上半身を起こし、秋川の肩を掴んで引き寄せ、抱きしめて耳元で優しく囁いた。

「落ち着いて。助けを呼べに行けるのはあなたしかいない。わかって、お願い。……恵一けいいち

 ――恵一。

 その一言で、秋川は力が抜けたようにその場に座り込んだ。瀧上は肩を離した。

 一瞬の間を置いて秋川は立ち上がると、光差す方を向いた。

「必ず助けるから!」

 そう叫ぶと、秋川は振り向きもせず走りだした。

     ◆

 私はそっとベッドの横に座った。ベッドには瀧上が寝ている。

 病室の窓の外には青空が見える。季節はもう秋なのに、沖縄の空は真夏そのものだった。

 あの日から一週間が経っていた。

 鍾乳洞から脱出した私は、ウタキに続く獣道を通らず、土砂が崩れ落ちた山の斜面を全速力で駆け降りた。

 何度も転び服も裂け顔も切ったが、最短距離だと信じ、ひたすら下に向かって走った。

 どうやって車を運転し、林道を走ったのか覚えていない。

 漁港に戻ると、民宿の前の道で数人の人たちと不安げに話している新城を見つけた。

 服は破れ、傷だらけで手が血まみれの私の姿を見た新城は驚いていたが、瀧上がウタキの鍾乳洞で落盤に巻き込まれたと話すと、真顔になり素早い動きで空いている車の運転席に乗り込み、私に向かって、乗りなさいと言った。

 新城は私が助手席に座るや否や、アクセルを踏み込んだ。強烈な加速Gが私の身体を助手席に押し付けた。無人の道路を爆走し、新城が向かった先は消防署だった。

 一分も経たずに着いた消防署の前では、団員たちが出動の準備をしていた。

 新城は消防署の敷地に入ると急ハンドルを切ってブレーキを踏み込む。悲鳴にも似たタイヤとブレーキのスキール音を響かせながら車は横滑りし、団員たちの前で止まった。

 急停車した車から、私たちは飛び出していき、驚いている団員たちに突進した。

 新城が夫らしき男性に大声で話している。私は他の団員に必死に事情を説明すると、消防団員数名の救助隊が編成され、一緒にウタキに向かうことになった。

 再びアーラ岳の麓に戻ったが、ウタキへ続いていた獣道のあった斜面は地滑りが起きていて、獣道は跡形もなく、大きく左に曲がっていた林道の先は、大量の土と多くの木で塞がれていた。

 私は消防団員たちと、私が駆け下った斜面を登り、鍾乳洞へと向かった。

 幸運にも、鍾乳洞は再崩落しておらず、瀧上は無事だった。だが崩落土の除去に時間が掛かり、瀧上を救出したのはもう夜になっていた。

 その間、何度も瀧上の元に行こうとしたが、その度団員に制止された。

 島の診療所に緊急搬送された瀧上は、診察の結果左脚の骨折と腹部の内出血が認められ、地震で怪我を負った他の重傷者と一緒に、自衛隊のヘリで那覇へ搬送された。

 久米島空港から飛び立ったヘリの爆音が聞こえなくなってから、私はその場で意識を失った。次に目覚めたのは診療所のベッド上で、両手両足に包帯を巻かれた状態だった。

      ◆

「来ていたの……もう傷は大丈夫?」

 私に気づいた瀧上が、眠そうな声を出した。

「もう大丈夫よ」

 私は絆創膏だらけの手を見せ、力なく微笑んだ。

「手じゃなくて、顔の傷だよ」

 瀧上は私の右頬に貼られている、四角い絆創膏を見ていた。そこは山から駆け下りた時に枝で負った傷の跡だった。

「跡は残るでしょうけど化粧で誤魔化せる。気にしないで」

 そう、と瀧上は呟き改めて私の目を見て言った。

「やはり駄目だった?」

 瀧上の問いに、無意識に目を逸らしてから小さく頷いた。

 地震の二日後、私は再びバルグウタキに行った。山の斜面を登り、鍾乳洞の入り口の横を通り、行きついた先で目にしたのは、巨大な穴だった。

 そそり立つ黒い岩の崖は消え失せ、枝を伸ばし天を覆っていた巨木は、それすら呑み込む巨大な穴の中に無残な姿で転がっていた。

 私はそのあと、町役場に出向いた。

 楔型文字が刻まれた石をSNSに掲載していたのは、役場の若い土木職員だった。私が石の行方を聞くと、地震対応に追われていた職員は迷惑そうな表情で、もう石は砕かれ最初の地震で崩れたあちらこちらの町道の埋め戻しに使ったと答えた。

 沖縄県警から公安に送られた火災現場のパソコンのハードディスクは、その多くがやはり高熱により破損していて、データ復元は困難との報告を受けていた。

 無事だった一部のハードディスクにはイラクや中東方面にアクセスした履歴が残っておらず、ナジャフが使っていたパソコンの特定はできないとされた。

 ナジャフの遺体はイラク本国へ送還されたが、事件性はないとは言え、例の頭蓋骨は彼が日本国内で入手したのは明らかで、イラクへは送られなかった。

 今は所有者不明の遺失物として沖縄県警に保管されているが、約二か月後にはどこかの寺に引き取られ、他の無縁仏の遺骨と共に供養されるだろう。

 全ての証拠が消えた。

 恐らくナジャフは、バグダット大学に日本でシュメル語が刻まれた粘土板を見つけたという歴史的発見の一報だけを入れ、その詳細を伝えないまま亡くなった。

 その真偽を確かめる為に大学はイラク当局に働きかけ、外交ルートで日本にナジャフの行動確認を依頼したが、私が書く報告書は、彼にとって不名誉なものになるだろう。

 そして虚々実々の駆け引きをする情報機関の世界では、全てを書いてはいけない。

 イラク当局が、最初からシュメルの情報を私たちに教えなかったのも、それが理由だ。それに加え客観的物証がない以上、私の見た全てを報告書に書けば、徒(いたずら)に混乱を招くだけだ。

「ナジャフのあとを継ごうと思う」

 瀧上の言葉に私は驚かなかった。瀧上ならそう言うだろうと知っていたからだ。

 だがナジャフの無念を晴らす為ではない。 

 純粋に瀧上の研究、理論の証明の為だが、瀧上がシュメル人の琉球到達を証明した時、ナジャフの名誉も回復するだろう。瀧上を良く知る私は、そう信じている。

「大学には療養休暇願を出したよ。暫く沖縄で調査しようと思う。手伝ってくれないか」

 私は首を振った。

 ――それはできない。

「名前を呼んだの、まだ怒っているの?」

「あんな時に言うなんて、卑怯よ」

 瀧上は微笑んだ。

 秋川恵一。昔の私の名前だ。

 トランスジェンダー。私は女性の心を持つ男性として生まれた。

 身体つきも女性に近く、二つだけの性区別が普遍的価値観の社会では、私は常に異質の存在だった。

 異質なものは排除される。幼い頃からそれを多く味わってきた私は、いつしか自分を偽り、社会が認める容姿と振舞いをして過ごすと決めていた。それはもう諦めだった。

 そんな時、瀧上萼と出会った。

 私は、同時翻訳プロジェクトに参加する前から瀧上を知っていた。

 瀧上は才能だけではなく風貌、行動、言動の全てにおいて異質な存在で、大学でも有名だった。そして瀧上は何も偽らずに、異質のまま生きていた。

 初冬のある日、大学のカフェで静かに本を読んでいる瀧上を偶然見かけた。

 既にプロジェクトが始まっている頃で、モニタを介して瀧上と面識があったが、実際に瀧上を見たのはこれが初めてだった。

 導かれるように私は瀧上の前に座り、問い掛けた。

 ――君はどうしてそんなに強いんだ?

 瀧上はゆっくりと顔を上げ、黒目の大きい目でじっと見つめてきた。

 ――本当の君を隠している君が強いよ。僕にはできない。

 私は大学に入ってから誰にも本当の自分を話したことも、晒したこともないのに、瀧上はそれを見抜いていた。

 驚いている私を気にも留めず、瀧上は話を続けた。

 ――そんなどうでもいいことより僕を手伝ってくれない?

 唖然とした。瀧上は自分が幼い頃から悩み苦しんでいることを、どうでもいいの一言であっさりと片づけ、そして自分を手伝えと言ってきた。

 ――君の能力の高さは知っている。僕の足りないものを、君が補って欲しい。

 ――君が必要だ。

 瀧上は右手を差し出していた。私はまた導かれるように、気づけば瀧上のその手を握っていた。

 その日から私は瀧上と行動を共にし、言語解析プログラムを作り上げていった。二人で時間を忘れる程集中したその日々は、私の人生で一番密度の濃い時間になった。

 結果を恐れず、周りを気にせず、ひたすら集中した。

 悩み、葛藤、不安、そして自意識。

 私を縛り付けてきたもの全てが剥がれ、消えていった。

 完成したプログラムは華々しい成果と共に、瀧上の名を世に知らしめた。それを見届け私は瀧上の元を去った。

 大学を卒業し、暫くして私は本当の自分になった。

 瀧上に抱いていた恋心にも似た感情は、恵一の身体と共に永遠の過去に置いてきた。

 私はそれを後悔していない。

 だけどやはり瀧上の傍にいると、自分が何者なのか分からなくなる。

「あなたは残酷な人ね、まだ私を迷わせる」

「仕方ない、僕は僕だ」

 瀧上はベッドの背もたれを起こした。

「シュメルの意味、知っている?」 

 私は首を振る。

「混じり合ったもの。水と土、神と人、そして男と女」

「そう」

 ――まるで私たちみたいね。

 私は微笑んだ。

 瀧上は左手を伸ばし、私の右頬の絆創膏に手を当てた。

「本当の君はやはり強くて、こんなにも綺麗だったんだね」

 ――私が私になれたのはあなたのお陰よ。

 心の中でそう呟きながら、別の言葉が浮かび、それを言おうと思った。

 それは私が本当に女性になったと思える言葉だった。

 私も瀧上の右頬に手を当てた。柔らかさと、ひんやりとした感触が伝わってくる。

 私はそれを愛おしく感じる。

「あなたも綺麗よ、蕚」

                                 第一幕 了

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暗闇の中に ケン・チーロ @beat07

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