第5話

 その年の6月。陽吉、お前の齢も十を越えた頃だったな。あん時、俺は他の村へ穀物を届けなきゃいけねえ用事があった。


 「どうか無理はなさらずに」


 「ああ」


 行く前に花とそんな話をして、お前に手を振ってったよな。


 お前も知ってると思うが、その村ってのはそんなに遠い場所じゃねえ。けれどうちの村周りが山に囲まれてるから、登り降りしてるとどうしても帰りが遅くなっちまうところでな。


 あの日もお日様が高いうちに村を出たが、山を越えていくと思うより早く日が暮れてった。そして暮れてくと同時に、何やら雲行きが怪しくなってきやがって。


 「こりゃ、一雨くるな」


 予感は正しかった。目的の村に着く直前で、ポツポツと雨が顔にかかり、穀物を届け終わったときにゃ外はどしゃぶりになってたよ。


 もう日は落ちて辺りは暗くなっていた。残念ながらこうも足元の悪いなか山を登るのは、流石の俺でも危ねえ。どうしようもないからと、俺はその日、村の宿で一晩を明かした。


 翌日。雨は止んでいなかった。それどころか勢いが強くなって、まるで滝のように降ってやがる。


 「こりゃあ、生まれて初めての雨だ」


 「へえ、ワシもこんな雨は初めて見まさあ」


 俺の呟きに年老いた宿屋の主人が言葉を返した。そして、こんな雨では外にも出られはしませんでしょうからと茶を出してくれ、暫く男二人で世間話をしてたんだが。


 「そういや、旦那はどこからで?」


 と、なにげに宿屋が尋ねてきた。なので俺は指を山へと差して、


 「俺はあっちの山向こうの村だ。嫁と子供が家で待っててよ」


 と言った。すると急に、そいつは血相を変えて、


 「旦那。悪いことは言わねえ、はよう帰って、嫁子供を助けてやんなせえ」


 って、まるで気の毒だって顔で言ってきたんだ。けれど宿屋の言ってるのが何のことなのか、俺にはさっぱりだった。


 「えっ、どういうことだい?」


 「ワシの親父は土木を生業としていたんですがね、ある時聞いたことがあるんでさぁ。あそこの山は雨に弱いと。だからこんなにも雨が降ろうものなら、あの山が崩れて…」


 「何だって!」


 宿屋の面持ちを見るに、それが冗談なわけがなかった。俺はそれを聞くや否や、走って外に飛び出したよ。村の皆、今までにこんなに雨が降った覚えなどねえはずだ。だから誰一人、気づいちゃいねえだろう。早く行って知らせてやらねえと大変なことになる。


 それになりより──花、陽吉。あいつらを助けなきゃいけねえ。くそ、何だってこんな時に俺はここにいるんだろう。俺は自分を恨んださ。


 身体に打ち付ける激しい雨も、どうでも良くなっていた。村が、家族が心配で、来た道を必死で走って、戻って。山の麓に着くまでに来る時の半分もかからなかった。後は山さえ登ってしまえば村だ。


 だがその道がよ、無くなっちまってたんだ。山が地滑りを起こしててよ。道だったはずのそこには、崩れた土塊つちくれだけしかねえんだ。


 けれどよ、そんなことで止まるわけには行かねえ。道が無いんだったら、道以外を通りゃいい。


 俺は山の茂みに身体を突っ込んで、真っ直ぐと村を目指した。当前だがそこは誰も通らず踏み固められていない山の斜面だ。足元はすこぶる悪い。


 それでも前に進むしかねえ。名も知らねえ草木に無数の傷をつけられようが、泥に何度足を取られようが、前へ前へと進むしか。




 …途方もなく感じた登り道は、足の爪の合間に挟み込んだ泥が、もう少しで爪を剥がすって頃についに終わりを迎えた。あちこちが痛えが、そんな文句言ってられねえ。


 「村は、村はどうなってる」


 山の上から村が見渡せると知っていた。だから俺は、必死になって村を探し見下ろした。




 そうして、村が見つかった時。


 一瞬、あんなにうるさかった雨音が聞こえなくなって。


 キーンっと、耳鳴りだけが響いた。




 そこから見えたのは、所々が土に染まった村だった。四方の山の内、二つから土砂が村に流れ込んでてよ。


 茶色に埋もれているには、たしかに村のやつらの家や、田んぼがあったはずで。


 あんなに綺麗だった村が。俺の、産まれ育った村が。

 

 悲しみと怒りはそん時すぐには来なかった。けど代わりに、心の臓が異様に早く脈打った。


 「…戻らないと」


 現実とは思えない風景にしばらく茫然としたが、村に戻らなきゃいけねえことに変わりはねえ。みんな、頼むから無事でいてくれ。それだけを思って、俺はまた走り出した。しかし気が動転しててな。前もよく見れていなかったんだ。先が崖崩れしててたんだが、そのまま突っ切っちまってよ。気づいた時にゃもう遅く、俺の身体は崖下まで転がり落ちてった。

 

 たぶん、その落ちる途中のどこかで頭を打ったんだろう。俺は気を失ったのさ。次に目覚めたら、そこは崖下だったからな。けどその目覚めるまでに、不思議な夢を見たんだ。




 それは深い暗闇の中だった。ほんとに真っ暗で、何も見えないんだ。それに寒くて、なんだか暗い。それに、とても寂しいんだ。…みんなが居なくなって、この世に俺だけになっちまったようでさ。


 「弥吉…弥吉…」


 けどよ。その中で、なんだか俺を呼ぶ声がする。


 「誰だい」


 と聞いても返事は返ってこねえ。そいつはただ嘆くような哀しい声で、俺の名前を呼んでるんだ。


 俺は気になって声の方を向くんだが、どうもそいつはぼんやりとしてて、姿が見えなかった。形がねえ、明かりみてえなんだ。けれども、そのぼうっとした明かりはどこか見覚えがあって。


 温かな、優しい光だ。そんな光が泣いている。


 …思い出した。これは、小さい俺を助けてくれた──。


 「珠!」



 かけがえのない友の名を呼ぶと、フッと意識が戻ってよ。身体中が痛えからどうにか首だけで周りを見たらさ。


 倒れた俺の隣に、一匹の狐が座ってんだよ。


 「珠、か?」


 その狐はコクンと頷くと、とても哀しそうに俺を見つめていた。

 

 そうしてしばしの後、珠はとことこと少し離れると俺の方を向いて止まった。ついてこい、と言ってるみてえに。


 「…そうかい、わかったよ」


 それが珠のおかげだったのかは分からないが、身体の痛みは残りつつも何とか立ち上がれるほどには回復していたんで、俺は身体に鞭打って珠についていった。


 追って歩くと、落ちた場所が村からとても近いことに気がついた。そして連れてかれるこの道がどこに続いているのかも。見慣れすぎていた見慣れないその光景は、俺に残酷な現実を突きつけた。


 珠が止まったのは、予想通りの場所だった。向かいにあったはずの穏やかで綺麗な川は、濁りきった水が荒々しく流れ、珠と出会ったあの裏山は、土が雪崩れて見る影もない。


 そして、その土が流れた先は。目前に見える、土しか見えないその場所は。


 俺が家族と一緒に住んでいた、あの藁葺きの家があった場所だ。


 珠は、その場所の、土に埋もれたある一点を掘り始めた。


 「…そうか。そこかい、珠」


 俺も一緒になって、手で掘っていった。掘り続けるうちに段々と雨音が小さくなって。雨が止んで、雲の合間に日が差し込んできてよ。


 俺の掘る手が止まった時には、あったけえお日様の光がそこに降り注いでいたよ。




 掘ったそこにあったのは。


 土まみれでもきれいな、花の顔だった。




 「──ずいぶん、遅くなってごめんなぁ、花。


 さ、帰ってきたよ。ほら、珠も一緒だ。あの頃のように三人仲良くおしゃべりでもしよう、な。


 あんなに、待ってたじゃねえか。またよ、おいなりこさえてくれよ。俺はお前のようにうまく作れねえんだ。


 だからよ、花。眠ってないで。なぁ、花。はやく起きてくれよ。なあ、花。なぁ、なぁ。」




 どんなに、どんなに呼びかけても。土に埋もれた花の身体が動くことは、なかった。

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