3-2 無形

 豊かな緑が残る都立公園。

 生い茂る草木から放り出されるように、一つの人影が広場へと転がり出た。

「ぐはっ…………はぁ、はぁ」

 丸々と太ったその若者は、四つん這いのまま辺りを執拗に見回し、視界に入る数人の利用客を怯えた目で睨みつけている。


 若者の名前は周。

 日本のヤクザでいう若頭のようなポジションに立つ、中国マフィアの幹部である。

 彼が何故こうした醜態を晒しているかというと、それは追われているからだ。

 いや、正確には、追われていることを確信しているから、である。

 無論、裏社会で生きる以上は、命を狙われることは一度や二度の話ではない。

 プライベートで刺客に襲撃された回数などいちいち覚えてはいられないし、撃退した経験を自慢げに語ったところで、貫禄が無いと冷笑されるだけだ。

 そういう世界で、彼は今日まで生きてきたのである。

 だがこの日は違った。

 彼は今、追われている。

 その存在に名前は無く、姿も無いのだという。

 故にそれは無形と呼ばれた。

 大陸で最も恐れられた暗殺者である。


 エンジン音が響く。

 どこから聞こえてくるのか、わからない。

 まるで地面が唸り声を上げているようだった。

 唸り声は徐々に大きさを増し、やがてぴたりと静まった。

 そして、もっと恐ろしいものが聞こえてきた。

 足音である。

 何も無い場所から聞こえる足音。

 それは彼らにとって死を意味した。

「俺をやるのか」

 流れ出る汗も拭わずに、周は虚空を見つめながらつぶやいた。

 ざ、ざ、ざ。

 足音は何も答えない。

 ざ、ざ、ざ。

 だが確実に近づいてくる。

 次の瞬間、天地がぐるぐると回りだした。

 遅れて、顔面に激痛。

 その時周は自分が蹴り飛ばされたことにようやく気がついた。

 震える腕を突っ張ってうつ伏せに起き上がろうとすると、口や鼻から血がどろどろと流れて、その中に白い歯がいくつも混じっているのがわかる。

「だ……誰に雇われた」

 豚のような呼吸音を鳴らしながら、周は虚空に向かって問う。

「質問できる立場じゃないでしょ」

 背後から男の声が聞こえた。

 周がすかさず振り返るが、やはりそこには何も見えなかった。

「殺し屋風情が……」

 周が呻く。

 また視界が飛ぶ。

 蹴り飛ばされた感覚だけが、ひしゃげた顔面に確かに伝わってくる。

「威勢がいいなあ」

 男の笑い声。

「クソ……」

「こっちの質問に答えてもらおうかな」

 声の主は、うつ伏せに倒れた周の後頭部に靴底の感触を与えながら言った。

「うご……ご……」

 周は顔を地面に押し付けられていて、口を開けることもできない。

「やれやれ」

「ぐあっ」

 周は顔を上げた。

 いや、髪を掴んで引き上げられたのだ。

 その時、周は初めて相手の姿を認識した。

 赤髪の青年である。


「プリーストに接触したな?」

 ウォルフは、豚の顔を覗き込むようにしてそう言った。

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