第2話

2-1 グラス

 男が扉を開けると、古めかしいドアベルの音色と共に、レトロ調に統一された酒場の風景が目の前に広がった。

 正面には、落ち着いた色合いのカウンターテーブルが置かれていて、その奥の棚にはブランデーやウィスキーのボトルが並んでいる。

 他に客はいない。


「相変わらずの趣味だな。警官が勤めていた場所とは思えん」

 男はそう言って、ハットを目深に被ったままカウンター席に腰を下ろした。

「ヒシヌマか」

 テーブルの向こう側から声がした。

 見ると、壁際の椅子に横向きに座ったまま、新聞を頭から被るように広げて読んでいる者がいる。

「新人が入ったそうじゃないか。ほら」

 ヒシヌマと呼ばれた客は、鞄からワインボトルを取り出してテーブルに置いた。

「未成年だ」

「知ってるさ。これはお前にだよ、リン」

「ふん……」

 リンと呼ばれた男はワインを一瞥すると、畳んだ新聞を放って気怠げに立ち上がった。

 大きな体躯である。

 無造作に垂れた頭髪の下で、切れ長の目が客を見下ろしている。

 決して若々しくはないが、かといって落ち着いた雰囲気があるわけでもない。

 得体の知れぬ迫力のようなものを漂わせた男であった。

「そう警戒するなよ」

 ヒシヌマはハットを脱ぐと、白の混じった髭面で笑みを浮かべてみせた。

「お前が一度でも俺に楽しい話を聞かせてくれたことがあったか?」

 リンは手に取ったワインを見定めながらそう言った。

「嫌な思いをしているのはお互い様だ。我々警察だって、手に負えない事件をお前たちに処理してもらわなければならない事に関して、イエスともノーとも言えない立場なんだ。それに……」

「何だ」

「今回のは少し事情が違う」

 いつの間にか、テーブルの上にはワイングラスが二つ並んでいた。

 

 ヒシヌマが本題に入ったのは、ワインボトルの中身がちょうど半分ほど減った頃だった。

「お前、例の研究所の話は知ってるよな」

「知らんな」

 ヒシヌマの向かいの席で、リンは心底嫌そうな顔をしながらグラスを置いた。

「別にお宅の若手をどうこうしようってわけじゃないさ。まあ、知らないというなら一応説明やる」

 ヒシヌマは、飽くまで噂話程度のものだと前置きしたうえで、次のような内容を語った。

 超能力者の存在が認められるようになってから間もなく、政府は軍事研究の一環としてとあるプロジェクトを極秘裏に開始させた。

 当初は超能力の解明や応用、対処法の確立などを目的としたものだったが、やがて研究は別の方向へと進んでいくことになる。

 超能力を持った人間を人為的に生み出すという、新たな可能性に辿り着いたのである。

「それで?」

「続きは無いよ。プロジェクトの実在を裏付ける証拠、研究内容を示す手がかり、そうしたものは一切残ってないって話だ。つまらん都市伝説さ」

「俺はお前の用件を聞いてるんだよ」

 リンはそう言うと、ヒシヌマの手からボトルを奪い取って残りを全て自分のグラスに注いだ。

「せっかちな奴だ……いいか、俺は今から伝えられる情報だけを伝える」

「今日は随分と勿体つけるな」

「……これからお前には、とある人物の元へ出向いて立ち退きの説得をしてもらう」

 ヒシヌマは空いたグラスを人差し指で弾くように滑らせる。

「警察が動かない理由は?」

 返却されたグラスをリンが受け取る。

「それは答えられない。はっきりしていることは、余計な詮索は命取りになるってことだ。お前にとっても、俺にとってもな」

「断ると言ったら?」

「残念ながら拒否権は無い。これは命令だ」

「そうか」

 グシャ、と何かが壊れる音がした。

 それはワイングラスを握りつぶす音だ。

「お前らは、いつから俺の飼い主になったんだ?」

 テーブルの上には、リンの拳から滴り落ちた真っ赤な水溜りができている。

 血に染まったガラス片が手の中でジャリジャリと軋んだ。

「そうだな。つまらん話だ」

 ヒシヌマの表情は悲しげだった。

「政府の意向か?」

「それも答えられない。ただ、今回のターゲットが例のプロジェクトを知る人物の一人である可能性は高いだろう。これは俺の独自調査に基づく独自の私見だがな。へへ」

「してんじゃねーか、余計な詮索」

 リンは呆れた様子でそう言いながら、手を開いてグラスの破片を落とした。

 驚くべきことに、その手のひらには一切の傷が残っていなかった。

「俺だって、喜んで首輪に頭を突っ込むほど模範的な人間じゃない」

 ヒシヌマは笑いながらハットを被り、立ち上がる。

「それからな。どうやら連中、これまでにも何度か部隊を送り込んでるらしい。警察も軍も預かり知らぬところで起きてる騒動が、ただの強制退去なわけないよな」

 そう言い残して、ヒシヌマは去っていった。


「仕事?」

 少女の声がした。

 リンが振り向くと、そこにはセツナが立っていた。

 先日入ったばかりの新人である。

「俺の仕事だ。お前は掃除でもしてろ」

「わかった」

「……さっきの話、聞いてたのか?」

 グラスを片付けながら、リンがぼそりと呟くように問う。

「少しだけ」

「そうか」

 リンはそれ以上何も言わなかった。

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