王妃の反逆 12

 指先へのキスが終わったら優しく抱きしめられた。

 いつものアークレインの香りと体温に包まれて幸せな気持ちになる。


 だけど甘い時間は残念ながら長続きしなかった。外からのノックの音で妨害されてしまったためだ。


 アークレインはムッとした顔をすると、渋々と立ち上がり執務室のドアを開けに行った。

 アークレインはエステルの前では随分と感情豊かになった。慣れて些細な感情の揺らぎを読み取れるようになっただけかもしれないけれど、初めて出会った時は常に作られた笑顔を貼り付けていた人だった事を思うと何だか感慨深い。


 ドアの向こう側にいたのはクラウスで、何事かをアークレインに囁いた。すると、アークレインの表情がさっと変わった。


 一体何事かと成り行きを見守っていると、青ざめたアークレインがこちらに声をかけてきた。


「エステル、マールヴィック公爵が死んだ……」

「えっ……」

「自殺しやがった! あのクソジジイ!」


 普段のアークレインからは絶対に飛び出てこない荒い言葉と共に、その体からはゆらりと陽炎のように昏いマナが立ち上った。

 そして彼の怒りに呼応するように、執務室の中のありとあらゆるものが宙に浮かぶ。


「駄目です殿下! 抑えてください!」


 クラウスの表情が変わり、アークレインを後ろから羽交い締めにした。


「異能を暴走させたらエステル嬢を傷付けてしまいます!」

「っ!」


 昏い輝きを放つ青い瞳にエステルの姿が映った。

 それと同時にアークレインのマナが体の中におさまっていく。


 鈍い音を立てながら浮き上がったものが床に落ちた。

 執務室の中は、そこだけ嵐が訪れたかのような惨状になっている。


「殿下、エステル嬢と散歩にでも行ってきてください。ここは我々で片付けますので。片付けが終わって公務の続きができるようになったらまた呼びに行きますから」


 いつも表情に乏しいクラウスには珍しく、怒りの感情があらわになっている。

 つまみ出されるような形でエステルはアークレインと一緒に執務室を追い出された。




   ◆ ◆ ◆




「ごめん、怒りが制御できなかった……」


 廊下に出るなり謝られて、エステルはふるふると首を横に振った。


「アーク様が怒るのは当然です。私も憤りを感じています」


 これまで散々にアークレインを苦しめてきた政敵があっさりと死んだというのは、信じがたくもあり腹立たしくもあった。


「捕縛されてからの公爵はずっとだんまりを決め込んでいたんだ」


 アークレインの横顔はいまだに怒りに満ち溢れていた。


「結果的に何も喋らないまま自死を選んだのですか」

「そうだ。死に逃げしたんだ」

「投獄されているのに一体どうやって……?」

「密かに毒を持ち込んでいたらしい。検死に立ち会った者によると、歯に仕込んでいた可能性が高いそうだ」


 アークレインは深くため息をつくと肩を落とした。そしてエステルに向き直る。


「少し庭に出ようか。どうせしばらく仕事にならない」

「……いえ、お時間ができたのなら眠って下さい。酷い顔をなさってます」

「腹が立ちすぎているから眠れないと思う」


 憮然とした表情で言い返されるがエステルは譲らなかった。


「横になって目をつむるだけでも違いますから」

「せっかくエステルが来てくれたのに」

「ちゃんと眠るまでは側にいますから」

「……わかった」


 アークレインは渋々と頷いた。




 アークレインがエステルを連れて行ったのは、仮眠に使っているという客室だった。

 エステルはアークレインを無理矢理ベッドへと押し込む。


「横になったら目を閉じてください。案外眠れるかもしれないですよ」


 不本意そうな顔を見せつつも横になったアークレインにエステルは布団をかけてやる。

 すると腕を掴まれ、エステルもベッドに引き込まれた。


「えっ、やだ、アーク様!?」


 ぎゅっと抱きしめられ、エステルは反射的に抵抗する。


「ごめん、少しだけこうさせて」


 切なそうな声で囁かれ、エステルは体を弛緩させた。

 アークレインは体をずらすとエステルの胸に顔を埋めてくる。


「心臓の音がする」


 猫が甘えてくる時のような仕草に母性のようなものが刺激され、エステルはアークレインの頭に手を添えた。

 アークレインの髪質は細く柔らかいのでますます猫っぽい。絹糸のように繊細な髪を梳くように撫でると、アークレインは目を伏せてエステルの胴に回した手を緩めた。


 自分の栗色の髪が嫌いな訳ではないが、キラキラ光る金色の髪には憧れる。しかもアークレインの髪は指通りがよくてなめらかだ。男の人のくせに。ほんの少しの腹立たしさと嫉妬心を覚えながら、エステルはアークレインの髪を指先にからませた。


「ミルセア・マールヴィックにはちゃんと罪を償わせたかった」

「……そうですね」


 彼が何を思ってどう行動したのか。今までのアークレインに対する暗殺未遂も含めて大部分が闇に葬られてしまったのだ。エステルも悔しかった。


「シルヴィオは全部ミルセアと王妃の指示だったの一点張りで……王妃は比較的素直に聴取に応じているものの、どこまで真実を話しているのか……」


 アークレインは訥々とつとつとつぶやく。それをエステルは静かに受け止めた。


「明日、王妃に面会する予定なんだ……自分が平静でいられる自信がない。……付いてきて貰えないかな……?」


 アークレインがこんな風にエステルに頼るなんて初めての事だ。こんな時なのに嬉しいと思ってしまう。


「私でよければ」


 弱っている彼に頼って貰えたのだ。庇護される立場から少しだけ対等になれた気がした。


「ありがとう……」


 アークレインを見ると、とろりとまぶたが重そうになっている。


「眠れそうなら眠ってください」


 髪に触れるのをやめ、そっと手を添えるだけにすると、ほどなくして規則正しい寝息が聞こえてきた。

 アークレインが眠ったら離れるつもりだったけど、こう密着していては離れられない。

 エステルは早々に諦めると、触り心地のいい金色の髪に指を絡めた。




   ◆ ◆ ◆




 人肌の温もりは気持ちいい。

 アークレインに抱きつかれて、その体温を感じているうちに、エステルも眠ってしまっていた。


 アルビオン塔に閉じ込められて以降色々とあったから、昨夜はちゃんと眠ったとはいえ疲れがまだ残っていたのだろう。


 目覚めると既に室内は薄暗くなっていた。

 時計を見ると五時を少しすぎたあたりを差していて、三時間ほど眠っていた計算になる。


 アークレインはまだエステルの腕の中で眠っていた。

 いつもより少し幼く見える秀麗な容貌をエステルはじっと観察する。


 五歳で実母を亡くし、七歳で天秤宮を与えられサーシェスのもとを離れた彼に、こんな風に誰かに甘える機会はあったのだろうか。


 幼いうちに親元を離れるという王室の慣例は、帝王学の一環らしい。

 親元で育てば甘えが生まれる。自立心を養い、ほんの小さな頃から側近に囲まれる事で人を使う術を学ぶため、というのがそうする理由らしい。


 しかし自分とアークレインの間に子供ができた場合、そんな生活をさせなければいけないと思うと何とも言えない気持ちになる。


 いや、きっと両親が揃って健在なら頻繁に会いに行って一緒に過ごす時間くらいは取れるはずだ。だけどアークレインにはそんな優しい時間はほとんどなかったに違いない。


 この腕の中で少しでも安らいでくれたらと思うのはおこがましいだろうか。


 長い睫毛、秀でた額、すっきりと通った鼻梁に薄めの唇。

 理想的なパーツが理想的に配置された綺麗な顔は、いつまでだって眺めていられる。


 人間は顔ではないとは思うが、生理的に受け付けない容姿の人はどうしても存在する。

 強引に権力で宮殿に連れてこられたエステルにとって、アークレインの容姿が優れている事は紛れもなく幸運だった。


 顔立ちや均整の取れた体つきや生まれ育ちだけではなくて、低くてよく通る声も落ち着いた喋り方も優雅な物腰も全てが理想的な王子様。


 性格的な欠点はあるし、将来的に王になる事が決定した第一王子という立場はエステルにとっては分不相応で、利益以上に不利益の方が多いようにも感じられる。


 でも、心の底から好きなのだ。そして恋した相手がエステルを求めてくれるなんて奇跡的な確率だとも思う。

 だから絶対に手放したくない。


 でも……もしエステルが後継者を産めなかったらどうなるんだろう。リーディスに王位が移ることを議会は良しとしてくれるのだろうか。

 側妾という単語が脳裏をよぎる。

 子供は授かりものだから不安は尽きない。他の女性とこの人を共有するなんて絶対に嫌だ。


 じわりと涙が滲んできた。それを拭おうと身動みじろぎしたのがよくなかったのか、アークレインの固く閉じられた目蓋がピクリと動く。


 うっすらと目が開き、青い双眸があらわになった。

 ぼんやりとした眼差しがエステルを捉える。かと思うと大きく見開かれた。そしてアークレインはがばりと体を起こしエステルから離れた。


「ごめんエステル! 重くなかった!? まさか寝入ってしまうとは思わなくて」


 慌てた様子で聞かれ、エステルは思わず吹き出した。


「重くなんてなかったですよ。それよりも眠れてよかった。ご気分はいかがですか?」

「……かなり疲れが取れてすっきりした」


 アークレインはばつが悪そうに目を逸らした。


「私も眠ってしまいました。アーク様の体温が気持ちよくて」


 相槌を打ちながら体を起こすと、アークレインの手が髪に伸びてきた。


「せっかく綺麗にまとめてたのにぐちゃぐちゃになってる。女官を呼ぼう」

「いえ、見苦しくない程度に整えるくらいは自分でできますから大丈夫ですよ。メイたちほど凝った髪型にはできませんけど」


 エステルは髪をまとめていたピンや髪飾りを外すと、手ぐしでざっくりと梳いた。

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