王妃の反逆 10

 地上に戻ると、既に辺りは真っ暗になっていた。


「殿下! エステル様!」


 外に出るなり駆け寄ってきたのは、天秤宮の職員達だ。

 その中にはメイにリア、ニールといった馴染み深い側近の顔もあった。


「エステル、今日のところは天秤宮に戻って欲しい」

「アーク様はどうなさるんですか?」

「今後の対応について父上に諮ったり色々とやらなければいけないから……しばらく獅子宮で過ごす事になると思う。今日はたぶん徹夜になるから戻れない」


 嫌だ。離れたくない。聞きたい事がたくさんある。

 捕まってからどう過ごしていたのか、反逆者を制圧するまで、危険な事はなかったのか。


 そうは思うものの、そんな自己中心的なお願いを口に出す事はできなかった。

 まだ婚約者という立場が歯がゆい。

 結婚して王室に入った後ならエステルにも何かできる事があったかもしれないのに。


 地下牢で、そして『神殿』で再会して、エステルはアークレインへの気持ちを再確認した。

 やっぱりエステルはこの人の事が好きだ。

 側にいたい。いらなくなるまで隣にいさせて欲しい。


 だけど、わずわらせたい訳ではない。

 溢れそうになる気持ちを押し殺し、エステルは頷いた。


「天秤宮でお帰りをお待ちしております」


 今自分にできる事は、アークレインがいつ帰ってきてもいいように、天秤宮を居心地のいい空間にして待つ事だ。

 そう言い聞かせ、エステルはアークレインに微笑みかけた。




   ◆ ◆ ◆




 天秤宮では、エステルのために皆が様々な心遣いをしてくれていた。


 胃に優しく温かな食事にラベンダーの香りのお風呂。

 肌触りのよい上質なナイトウェアに身を包み、向かった先は共通の寝室だ。


 今日はアークレインは戻ってこない。でも少しでも彼の気配を感じたかった。

 そんな資格、親族と彼を秤にかけて出会いを後悔した自分にはないかもしれないけれど。


 体は酷く疲れているのに気持ちが昂っていて眠れる気がしない。

 それでも少しは眠らなければ。

 眠って、食べて、健康的な生活を送らなければアークレインを気持ちよく出迎える事なんてできない。


 エステルはベッドに潜り込むと横になって目を閉じた。

 たとえ眠れなくても、視覚から入ってくる情報を遮断して横になるだけでも体は休まるものだ。




 気が付いたら眠っていたし、お腹も空く。

 牢の中でも思ったが、やっぱり自分は図太いのだと実感しながらエステルは自室でぼんやりと過ごしていた。


 手元にはやりかけの刺繡があるがちっとも進まない。

 ハンカチに鈴蘭の印章を刺すこの作業は、嫁入り支度の一環として取り組んでいるものだ。


 王室に入ると、王家の紋章とは別に個人の印章を使用することになる。鈴蘭の印章はエステルが結婚後に使用する個人の印章で、婚約が決まった時にサーシェスから提示されたものだった。


 王子妃として王室に入った後にエステルが使うものには、この鈴蘭の印章が刻まれる事になるのだが、結婚後に用意したのでは遅いため、今から少しずつ準備しているのだ。


「心ここにあらずですね、エステル様」


 一緒に手仕事に取り組むリアが声をかけてきた。

 フローゼス伯爵領を含む北部山間地域の住人には手先が器用な者が多い。雪に閉ざされる冬は家の中にこもって様々な工芸品を作り出し、家計の足しにするためだ。

 主に男性の造りだす家具と女性の手仕事であるレース編みは有名である。


 リアもその例に漏れずレース編みの名手である。その腕を生かしてエステルが結婚式で身に着ける予定のヴェールを今から作ってくれているのだ。


「アルビオン塔で酷い目に遭われたわけではないんですよね……?」


「昨日も言ったでしょ。塔の中では囚人の割には結構いい扱いだったって。陛下のお体の事やアーク様の事、それにこれからの事を色々と考えてしまうの」


「やっぱりいよいよアークレイン殿下が立太子されるんですよね……? そうなったらエステル様は王太子妃……」


「言わないで……」


 責任の重さに消えたくなる。

 自分にはアークレインの側にいる資格なんて……と思うのに、今更この婚約者の立場を手放したくないと願う気持ちも心の中には同居しているのだ。


 未来の国王が後継者を残さないなんてありえない。自分が身を引けば、アークレインは別の女性を迎えることになる。想像するだけでも気が狂いそうになるのだ。身を引くという選択肢はエステルの中には既になかった。


 気にかかるのはアークレインの事だけではない。あんな大それたことを仕出かしたのだ。マールヴィック公爵やトルテリーゼ王妃は大逆罪に問われ処刑される可能性が高い。エステルの命をも脅かした政敵とはいえ、人が死ぬかもしれないというのは考えるだけでも憂鬱になった。


「エステル様、よろしいですか?」


 ノックが聞こえ、入室の許可を出すとメイが顔を出した。


「ロージェル前侯爵夫人がおいでになっているのですが、お通ししてもよろしいでしょうか?」

「シエラ夫人が?」


 約束はないが、この異常事態を聞きつけて慌てて駆けつけてきてくれたのだろう。


「応接室にお通しして。すぐに向かうわ」


 外ではこの宮殿の騒ぎがどう伝わっているのかも気になったので、エステルはシエラに会う事にした。




   ◆ ◆ ◆




「投獄されたって聞いたわよ! 大丈夫だった!?」


 応接室に入るなり、勢いよくソファから立ち上がったシエラに詰め寄られ、思わずエステルは身を引いた。

 今日もシエラは麗しくて若々しい。だけど、いつもより顔色が悪く見えるのはきっと気のせいではない。


「えっと……宮殿の外では今回の件はどう伝わっているのでしょうか……?」


「今回の王妃の反逆について把握しているのは現段階では一部の中枢に近い貴族だけでしょうね。私も夜中にクラウスが宮殿に呼び出されるまでは、王妃以外の王室の人々が食中毒で倒れたという報道以上のことは何も知らなかった」


「クラウス様、呼び出されたんですか」


 クラウスはアークレインの補佐官だ。呼び出されたという事は、きっと今頃アークレインの元で事後処理に追われているのだろう。


「あなた方が倒れたという報道が出てから今日で三日目かしら。その間、こちら側の陣営では誰もがトルテリーゼの関与を疑っていたわ。不敬になるから誰も大きな声では口に出さなかったけど」


 シエラが王妃に対する敬称を付けていないのは意図的なものだろう。もはや彼女の中では、王妃は敬うべき存在ではないのだ。


「何があったのか差し支えない程度に話してもらえるかしら?」


 シエラの質問にエステルは心を痛めながらも首を振った。


「申し訳ありません、シエラ夫人。こうして駆けつけてくださったことは本当に嬉しいのですが、アークレイン殿下が事後処理に追われていらっしゃる今、私ではどこまでお話してもいいものか判断いたしかねます。今後の王室やロージェル侯爵家の不利益になる可能性もございますので、ご容赦いただけませんでしょうか?」


 エステルの返答に、シエラは一瞬目を見開いた後苦笑いを浮かべた。


「これは聞いた私もいけなかったわね。申し訳ございません。聞いてはいけない事を不躾にも聞いてしまいました」


 あっさりと引いてくれたことにエステルは安心する。


「アークレイン殿下はよい方をお迎えできたのだと実感いたしました。妃殿下とお呼びする日を心よりお待ち申し上げております」


 シエラはそう告げるとあでやかな笑みを浮かべ、エステルに対して突然の訪問への無礼を詫びるとあっさり帰っていった。

 アークレインの伯母として知りたいことは沢山あっただろうに。

 シエラは本当に心強い味方だ。それを改めて実感した。

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