大使館にて 03

 少し座って休憩した後、エステルはアークレインと一緒に舞踏室ボールルームに戻り、挨拶回りに向かった。

 今日のこの舞踏会には外交官だけでなく、帰国する大使夫妻と親交のあった貴族や資本家、文化人などが招かれている。


 どこに行ってもこちらに向けられる負の感情や左手に注がれる視線が煩わしかったけれど、気にしたら負けだと自分に言い聞かせた。


 アークレインが挨拶に向かったのは、招待客の中でもエステルが将来的に王子妃となった時に顔を売っておいた方がいい人々で、ここでもしっかりと守られている事を実感した。


 招待客の半数以上はローザリア人で、最初に覚悟していたほど難解なフランシール語が飛び交っている訳ではなかったのでエステルはほっとする。


 アークレインに続いて声をかけ、二言三言言葉を交わし、込み入った話が始まったら一歩引く。それを何度も繰り返すと、社交用の笑顔を作り続けているせいでだんだん表情筋が痙攣しそうになってきた。


 一方、穏やかな微笑みと柔らかな物腰が板についているアークレインはさすがである。彼のすごい所はそれだけではなくて、招待客のほとんどの顔と名前を記憶しており、どんな話題を振られてもそつのない会話をする能力がある。


 クラウスに教えてもらった。母国語であるローザリア語を含めた三ヶ国語を自在に操る語学力と異様な程に高い記憶力がアークレインの最大の武器らしい。

 日常会話レベルに限定すると、もっと話せる言語の幅が広がると言うから、一度その頭の中身を覗いてみたくなる。


 しかしアークレインの代のロイヤル・カレッジやアルビオン大学の首席卒業者はクラウスらしい。はっきりと本人に聞いた訳ではないが、マナの量を誤魔化しているのと同じく成績も程々の位置になるよう調整していたに違いない。

 政治、経済、社会情勢、誰がどこのどのような事業に関わっているのかなど、アークレインの頭の中には様々な情報がぎっしりと詰まっている。


「エステル、疲れてない?」

「大丈夫です」


 アークレインの質問にエステルは微笑みながら答えた。

 頑張れるのは合間合間にこうして気遣ってくれるから。そして何よりも彼を慕う気持ちがあるからだ。


 よくわからない難しい会話をしている横顔が凛々しい。

 この人の隣を許されている事が嬉しい。例え演技でも気遣われて優しくされると、エステルはこの人の為に何でもしてあげたくなってしまう。


 だけどこの感情は、見返りなんて求めない綺麗なものではない。

 もっともっと私を見て。

 そして同じだけの感情を返して欲しいと思ってしまう。


 アークレインの事を考えると欲張りになる自分が嫌で、エステルは心の中でため息をつくと、さりげなくアークレインから視線を逸らした。


 ――その時だった。

 エステルの異能が背後から近付いてくる強い負の感情を感知した。


 こういう場合どうすればいいのかは事前にアークレインと取り決めてある。エステルはさりげなく左手薬指にはめた魔導具の指輪に触れるとマナを流した。


 指輪はアークレインのカフスと繋がっている。

 アークレインはピクリと反応すると、次の瞬間にはこちらにやってくる昏いマナとエステルの間に体を割り込ませ、エステルを庇うようにぎゅっと抱き込んだ。


「殿下!?」


 周囲が驚きの声を上げるのと、ガラスが割れる音が聞こえたのはほぼ同時だった。


 アークレインのフロックコートの袖に赤ワインがぶちまけられ、ぽたぽたと赤い雫が零れていた。アークレインの体には常に異能の壁が展開されていると聞いたが、服にまでは及ばないらしい。

 床には割れたワイングラスの破片が散らばり、真紅の液体の被害は高価そうな絨毯にも及んでいる。

 ワインを運んでいたのは給仕の女中メイドで、自分がやらかした惨状に青ざめてその場にへたりこんだ。


「大丈夫ですか、アークレイン殿下!」


 誰よりも早くこちらに駆け寄ってきたのは大使夫妻だった。


「申し訳ありません! 当大使館の女中メイドがとんだ粗相を……」


 流暢なローザリア語で話しかけてきたのは大使のジスカール伯爵だ。


「この人のせいではないです。誰かが背中を押したのを見ました」


 女中メイドが責め立てられそうな雰囲気だったのでエステルは思わず口を出した。


「エステル、犯人を見たの?」


 アークレインに聞かれ、エステルはこくりと頷く。

 エステルが感知した悪意の源は、この女中メイドではなく招待客らしい貴婦人だった。


「モスグリーンのドレスを着た茶色の髪の女性でした」

「もう一度見ればわかる?」

「自信はないです……後ろ姿をちらりと見ただけなので」


 舞踏室ボールルームの中は大勢の人の群れで溢れているし、茶色の髪の女性も珍しくない。

 落胆の表情を見せたアークレインに、大使夫人が声をかけてきた。

 かなり早口のフランシール語だったので半分くらいしか聞き取れなかったが、まずは服をどうにかしようと提案してくれているようだ。


【申し訳ありませんが、我々はこれでお暇しようかと思います】


 アークレインはフランシール語で丁重に断った。


【アークレイン殿下、袖口が気持ち悪くないですか? 暖かくなったとはいえ夜は冷えますから……】


 少し落ち着いたのか、大使夫人のフランシール語がゆったりとしたものになった。この速度ならなんとか聞き取れる。


【お気遣いなく。エステルのドレスにも飛沫が散ってしまいましたし、見苦しい姿をさらすのも忍びないので】


 大使館の中は外交特権によりローザリアの法律が適用されない。帰る方向に話を持っていこうとしているのは警戒しているからだろう。


【このような形でお暇するのは心苦しいのですが、エステルが狙われた事が心配で。どうかご理解下さい】


【でも……】


「殿下、着替えをお借りした方が良いのではないでしょうか」


 エステルはアークレインに囁きかけた。

 このまま帰っては、大使夫妻やフランシール大使館との関係にひびが入りかねない。


 アークレインはため息をつくと、夫人に向き直った。


【では、お言葉に甘えて上着だけお借りします】


 アークレインの言葉に夫人はどこか安堵した表情を浮かべた。アークレインがそのまま帰ってしまうのと、大使館に着替えを借りて帰るのでは周囲に与える印象が変わってくる。ちらりとジスカール伯爵を見ると、夫人と同じような表情をしていた。




   ◆ ◆ ◆




 アークレインは別室に移動し、体型の似た大使館の職員から借りたフロックコートに着替える事になった。

 エステルもアークレインに同行する事になった。フロックコートを着替えるアークレインの傍で、メイにドレスに飛び散ったワインの染みの応急処置をしてもらう。


「アーク様、シャツの中は大丈夫ですか?」

「ああ、上着が食い止めてくれたみたいだね。かけられたのがただのワインで良かった」


 酸や毒、人体に有害な液体は他にいくらでもある。

 アークレインはエステルに向かって微笑みかけると、借りたフロックコートに袖を通した。


 それまで着ていたものより二段階くらい品質の落ちるシンプルなフロックコートだが、どこか禁欲的な雰囲気が漂うから美形は得だ。

 不意にアークレインの視線がこちらを向いた。目を合わせるのがなんとなく恥ずかしくて、エステルはさりげなく俯くと、ドレスの染みと格闘しているメイに声をかけた。


「染みは落ちそう?」

「帰ってすぐに対処すればかなり目立たないレベルにできると思います」

「ありがとう、メイ。なるべく大切に着るつもりだからよろしくね」

「そこまで大事にしてもらえると贈りがいがある」


 アークレインは口元に笑みを浮かべながら話しかけてきた。


「指輪のように新しいものをあつらえろとは仰らないんですね」

「最近の市民は王室の贅沢に敏感だからね。いつ誰がどんな服や宝石を身に着けていたかはかなり見られてたりする」

「確かにそうですね」


 以前、トルテリーゼ王妃の装いを特集した新聞記事を目にしたことがある。

 映像記録装置や写真乾板、そして印刷技術の発展はペンに剣を超える力を与えた。

 

「今日の事が変な風に記事にされなければいいんですが……」

「仮に何か書かれても気にする必要はないよ。エステルは何も悪い事はしてないんだから」


 外からノックがされたのはその時だった。傍に控えていたニールがアークレインと目を合わせる。

 アークレインが頷くのを確認してからニールはドアを開けに行った。


(え……)


 ニールの体越しに見えた訪問者の姿にエステルは目を見張った。

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