大使館にて 04

 茶色の髪にモスグリーンのドレス。

 悪意を持ってエステルに近付き、給仕の女中メイドを押した女と同じ特徴を持つ貴婦人の登場に、室内にいたエステル以外の全員が警戒の表情になった。


 一方でエステルは驚いていた。その女性は顔見知りだったからだ。


「セシリアおばさま……?」


 いや、驚いたのはエステルだけではない。アークレインもまた目を大きく見開き、次の瞬間には女を睨み付けていた。


 アークレインが敵意を示すのも仕方がない。彼女はセシリア・ウィンティア。現ウィンティア伯爵セドリック・ウィンティアの妻で、エステルの元婚約者、ライル・ウィンティアの母親だった。

 領主貴族の妻である彼女は毎年新年に宮殿で開かれる晩餐会に出席しているので、アークレインとも当然面識がある。


「……ウィンティア伯爵夫人ではありませんか。今日の夜会に招かれていたとは初めて知りました。そういえばあなたはジスカール伯爵夫人と親交をお持ちでしたね」


(大使夫人と?)


 エステルは目を見張った。

 セシリアとは物心付く前からの付き合いだが、初めて知った事実である。


 アークレインの頭の中には様々な人間の顔と名前、そして人間関係に至るまでが網羅されている。


「マリーは遠縁なんです。それで協力をしてもらいました」

「協力……?」


 聞き返したエステルに向かって、セシリアはその場で深々と頭を下げた。


「エステル嬢とどうしても二人になりたくて、マリーに協力してもらって給仕の女中メイドの背中を押しました。ドレスの裾を少しだけ汚して別室に案内してお話をさせてもらうつもりで……まさかここまでの騒ぎになるなんて思いませんでした。殿下、エステル嬢、本当に申し訳ございませんでした」


「どうしてそんな事を……」


 エステルは呆然としながらセシリアに尋ねる。


「そうでもしなければエステル嬢に会えないからです。私たちがあなたにした事を思えば当然ですが……」


 心当たりはあった。ライルとは会わない。そうアークレインに告げてから、何度かウィンティア伯爵家からエステルへの面会の申請が天秤宮に届いていた。それに対して、毎回丁重な断りの返事を書いたのはエステルだ。


 ライルの事は気にかかったけれど、今のエステルはアークレインの婚約者だから軽率な行動はできない。

 阿片中毒になった元婚約者がエステルの名前を呼んでいるからといってうかうかと会いに行って、それを新聞記者にでも嗅ぎつけられたら大きなスキャンダルになる。


「お願いしますエステル嬢、ライルに会って欲しいの! こんな事お願いできた義理ではないのは自分でもわかっています。でも私はあの子の母親だから……」


 必死に訴えるセシリアとエステルの間にアークレインが体を滑り込ませてきた。そしてエステルを庇うように立ち塞がる。


「ライルがずっとエステル嬢の名前を呼んでいるの。私たちが本当に愚かだったわ。どうしてあなたたちの婚約を破棄する方向で動いてしまったのかしら……」


 悲痛なセシリアの表情に、かえってエステルの頭は冷静になった。


「……フローゼスではなくポートリエの手を取ると決められたウィンティア伯のお考えは私にはわかりませんが、結果的にそちらからの一方的な通告で私とライル卿の婚約関係は終わりました。そのような仮定は無意味ではありませんか?」


 セシリアの縋り付くような目をエステルは真正面から受け止め、静かに見返す。


「ライル卿の今の状態はこちらでも把握しておりますし、セシリア夫人のお気持ちも理解はできます。でも私がライル卿のお見舞いに行く事はできません。私はここにいらっしゃるアークレイン殿下の婚約者ですから、殿下のご迷惑になるような事は致しかねます。どうかご容赦下さい」


 『おばさま』とはもう呼ばない。あなたはもう幼なじみのお母様ではない。その意味を込めて、エステルはセシリアに敬称を付けて呼びかけた。


「ライルと会うのが、迷惑……?」


 セシリアは呆然とつぶやいた。そこにアークレインが割り込んでくる。


「ウィンティア伯爵夫人のお気持ちは痛いほどにわかりますが、この辺りで引いていただけないでしょうか? ライル卿の境遇には私も同情しております。だからこそ薬物治療に特化したパラマ島の療養所サナトリウムをご紹介させて頂きました」


 アークレインの発言にセシリアは明らかな動揺を見せた。


「どうかエステルや我々にこれ以上を求めないで頂きたい。ライル卿との婚約が白紙に戻った事で彼女が社交界で何と言われていたか……ポートリエ男爵家が婚約者の挿げ替えを行った事を正当化するために、エステルを悪く言う噂をばら撒いていた事はご存知ではありませんか?」


(えっ……)


 アークレインの発言に驚きの表情をしたのはセシリアだけではない。エステルもだ。

 婚約が白紙に戻った後、ロージェル侯爵家での舞踏会に参加した時、やけに悪い噂が流れているとは思ったが、まさかポートリエ男爵家側での情報操作があったとは知らなかった。


 だが、冷静に考えればポートリエ男爵家は海千山千の商人の家系なのだ。自分達を有利にする為の工作くらいお手の物だろう。


「今日、ここであった事はなるべく穏便に済ませるよう取り計らいます。それも我々の厚意とご承知おき下さい。どうかお引取りを」


 セシリアに通告するアークレインの横顔は冷たい。

 対するセシリアは俯くとがたがたと震え出した。


「申し訳ございません。どうか愚かな母親だとお嗤い下さい。それでも私はあの子の母だから、何かせずには居られなくて……」


 ぽろぽろと泣き出したセシリアは酷く疲れた顔をしていて、記憶の中の姿よりも老けて見えた。

 子供の頃から家族ぐるみの付き合いがあって、エステルの両親が亡くなった時も良くしてくれた人だ。突き放すのは心が痛んだ。しかし『母親だから』は免罪符にはならない。何をしても許されるわけではない。


【セシリア! 姿が見えないと思ったら!】


 突如青ざめた表情の大使夫人が室内に乱入してきた。

 かと思うと早口のフランシール語でアークレインに向かってペコペコと頭を下げながら謝罪の言葉をまくし立てた。


 全てが聞き取れた訳ではなかったけれど、【申し訳ありません】、【ライル卿の事が心配なあまりの親心で】、【どうか穏便に】、といった事を必死に訴えていた。


 まるで出来の悪い劇を見せられているみたいだ。

 どっと疲れがきて、エステルはうんざりとした気分になった。




   ◆ ◆ ◆




「疲れたね」


 宮殿に戻る馬車の中でぐったりと座席に身を預けていたら、向かい側に座るアークレインが声をかけてきた。


 あの後大使も部屋に乗り込んできて、一悶着あった後ようやく解放されたのだ。


「アーク様こそ。私のせいで変な事に巻き込んでしまい申し訳ありません」

「エステルのせいじゃないし、誰が悪いとも思ってない」


 夜の市街地を走る馬車の中は薄暗くて、アークレインがどんな表情をしているのかは見えないが、不快感を抱いているのは間違いない。そういうマナの色をしている。


 大使を交えて話し合った結果、ひとまずワインについてはなるべく事を荒立てない方向で収めることになった。

 大使夫人とセシリアの処遇については、後日改めてウィンティア伯爵を呼び出し話し合う事になったのだが、アークレインとしては今後のエステルへの接近禁止を言い渡すつもりのようだ。


「……エステルには多分見えてしまっていると思うけど、今私の中にある負の感情はエステルに対してのものじゃないんだ。それだけはわかっておいて欲しい」


 馬車の窓から差し込む魔導灯の微かな光に照らされて、アークレインの真摯な眼差しがエステルに注がれているのが見えた。

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