大使館にて 01

 リーディスから花と手紙が送られてきて二日が経った。


 エステルはスモーキーピンクのイブニングドレスに身を包み、アークレインと一緒に馬車で隣国フランシールの大使館へと向かっていた。

 大使館ではフランシール大使の離任に伴う夜会があるので、アークレインのパートナーとして出席する予定なのだ。


「エステル、緊張してる?」

「はい。だってアーク様の婚約者になってから、初めて参加する大きな夜会ですから」


 これまでのエステルの社交活動は、第一王子派の派閥内での会合が中心だった。

 派閥の垣根を越えた集まりに出席するのは、王妃に招待された観劇と狩猟大会に続いて今日が三回目である。


 大使館の夜会という事は、フランシール語が必須になる。

 外交やビジネスの場で必要なのは幅広い語彙力である。

 エステルの現在の語学力は日常会話程度なら不自由なくこなせるという状態で、語彙力も発音もまだまだ勉強中だからどうしても体がすくんでしまう。


「今日の夜会は大使夫人の意向でダンスがメインの舞踏会だから、最初のカドリールだけ踊ればいいよ」


 アークレインの言葉に、エステルはきょとんと目を瞬かせた。そして少し考えてから納得する。


「あ、そうか……今日の舞踏会では、私たちと大使夫妻がカドリールを踊る事になるんですね」


 舞踏会は、大抵参加者の中で最も身分の高い四人によるカドリールから始まる。自分がその立場になるなんて、アークレインと出会う前は思ってもみなかった。


「カドリール以外にも踊りたいなら付き合うよ」

「ではワルツを踊って頂けますか?」

「何曲でも」

「たぶん体力が持ちません」


 日常生活にはもう支障はないが、療養のため落ちた体力はまだ完全には戻っていない。今日は休憩を挟みながら過ごす事になるだろう。


 本当はアークレインからは、体が辛かったら出なくてもいいとは言われていた。でも今日の夜会は舞踏会なので、エステルが断った場合、アークレインは別の女性をパートナーとして探さなければいけない。絶対に周囲に誤解されようがない女性に頼むつもりだったようだが、それすらも嫌だと思ってしまったので出席を決めたという経緯があった。


「なるべく傍にいるようにするから、エステルはただ隣で微笑んでいればいい。複雑な話や面倒な人間に捕まった場合は私が対応するから」


 アークレインはやっぱり優しい。エステルは馬車の向かい側に座る彼をなんだか正視できなくて目を伏せた。

 すると濃紺のフロックコートの胸元を飾るポケットチーフが視界に入ってくる。これはエステルのイブニングドレスの共布で作られたものだ。

 一緒に出かける時のアークレインは、このようにエステルと合わせた何かを装いに取り入れる。それがとても嬉しくて、エステルは自分のドレスの生地を見つめた。




   ◆ ◆ ◆




 アークレインと一緒に大使館の舞踏室ボールルームに入ると、人々の視線が突き刺さった。

 新聞記事でのエステルの異名は、最も発行部数の多い高級紙クオリティペーパーが名付けた《竜伐令嬢レディ・ドラゴンスレイヤー》で統一されつつある。

 淑女らしからぬ勇猛な称号を持つ女が現れたのだ。好奇心やら悪意やら、色々な感情を『視て』しまってエステルは怯みかけた。


 アークレインの腕に添えたエステルの右手に、大きな手が重なってきた。隣を見上げると、アークレインの深い青の眼差しが勇気付けるようにエステルに向けられていた。


 例えどんな感情を向けられても大丈夫。私はこの人の、この国の第一王子の婚約者なのだから。


 陰でどんな酷い事を言われたとしても、エステルには絶対的な味方がいるのだから気にする必要などない。今日この場には、アークレインだけでなく、天秤宮付きの王室護衛官ロイヤルガードもメイも護衛として付いてくれている。

 言いたい者には言わせておけばいいのだ。エステルは自分に言い聞かせると、背中を伸ばし姿勢を正した。


 すると、この夜会の主役であるフランシール大使、ジスカール伯爵とその夫人がこちらにやってくるのが見えた。

 ジスカール伯爵は三年の任期を終え、後任の大使と交代して来週にはフランシールに帰国する。だから今日はそのお別れの会なのだ。


 このローザリアを含むヘレディア大陸の西側諸国では、身分の低い者から高い者に自分から話しかける事はマナー違反とされる。そのため、声をかけたのはアークレインからだった。


【この佳き夜の出会いに感謝します。ジスカール伯爵】


 綺麗な発音のフランシール語だった。


「ローザリアの若き太陽、アークレイン殿下にジェラール・ジスカールがご挨拶申し上げます。こちらは妻のマリーです」

「マリー・ジスカールです。アークレイン殿下、今宵の出会いに感謝致します」


 大使夫妻の返答はローザリア語だった。

 外交官だけあって大使のローザリア語は、母語話者ネイティブと遜色ないくらいに綺麗な発音だった。

 一方、夫人の方はあまりローザリア語は得意ではないと聞いている。その事前情報通りどこかぎこちない。


 一礼し、顔を上げた夫妻の視線がエステルに向く。それを受けてアークレインはフランシール語でエステルを紹介した。


【婚約者のエステルです。婚約を結んだばかりなので大使夫妻に引き合せるのは初めてですね】

【初めまして、エステル・フローゼスです】


 アークレインがフランシール語を使うのは、恐らく大使夫人への配慮だろう。エステルもアークレインに倣ってフランシール語で挨拶した。


 二人ともマナが陰るのはエステルの異名のせいだろうか。

 しかし二人とも外交官とその奥方だ。内心の感情はおくびにも出さず、友好的な微笑みを浮かべた。


「エステル嬢にお会いできて光栄です」

「本当に。来週には帰国しますから、もう少し早くお会いしたかったです」


 社交界において人は誰しも仮面を被る。笑顔の下に本音を隠している人なんて珍しくとも何ともない。

 だからエステルも仮面を被る。穏やかな笑みを浮かべアークレインの隣に立ち優雅に微笑んだ。


 今日のエステルの役割は、アークレインのダンスのパートナーを務める事、そして難しい話が始まったら場の空気を壊さないよう一歩引いてその場に華やぎを添える花になる事だ。その為には笑顔を絶やしてはいけないのだ。




   ◆ ◆ ◆




 舞踏会の開幕を告げるカドリールは四人一組で踊るスクエアダンスである。

 四人で四角スクエアを作り、パートナーを入れ替えながらゆったりとした音楽に合わせてステップを踏む。


「次も踊る?」

「はい」


 大使夫妻とのカドリールが終わったタイミングで尋ねられ、エステルは頷いた。

 あらかじめ配られたプログラムによると、次はワルツである。

 大使夫妻も引き続き踊るようだ。エステルはアークレインに手を引かれ、大使夫妻の近くに進み出た。


 ホールドの姿勢を取り密着すると胸がドクリと高鳴る。

 至近距離にあるアークレインの端正な顔が、確かな熱量を持ってエステルを見つめている。


 一昔前には男女の抱擁を含むワルツは顰蹙ひんしゅくを買うものだったと言うけれど、その理由がわかる気がした。だってアークレインが別の女性と踊るのを想像するだけで醜い嫉妬心が湧き上がる。


 でも、例え婚約者でも彼を独占する事はできない。彼が第一王子である以上、社交の場で求められて断れない場面は何度も出てくるはずだ。他の人と踊らないでなんて言いたくても言えない。そんな事は矜持が許さない。


 エステルにできる事があるとすれば、なるべくアークレインのパートナーとして出席して、他の女性とアークレインが踊るであろう機会を減らす事だ。


 流行りの舞曲の演奏が始まり、エステルはアークレインに合わせてステップを踏んだ。

 やはり彼とのダンスは凄く踊りやすい。


 こうして踊るのは、婚約するきっかけとなったロージェル侯爵家での舞踏会以来だが、あの時とは心境が全然違う。


 前の時は恐れ多さと緊張感に、心の底からは楽しめなかった。でも、今は――。


 甘い眼差しを向けられて夢の中にいるみたいだ。

 アークレインのこの姿勢が演技なのか本心なのかまだ判断はつかないけれど、何度も体を重ねた今、お互いがお互いにとって特別な異性である事は間違いない。


 アークレインのリードに身を任せ、一体となって踊っていると、まるで世界に二人だけしかいないような気がした。


 身を守るためという名目で寝室は元に戻したのに、エステルの体を気遣ってかアークレインは指一本として触れてこようとしない。だからこうして触れ合うのは本当に久し振りで、触れ合った部分から伝わる熱が愛おしい。


 目と目が合う。前と違うのはエステルの気持ちだけではない。アークレインの態度も違う。以前はダンスが億劫だったのか、マナを陰らせながら踊っていたけれど、今の彼からはキラキラと輝く銀色の光が溢れ出て、まばゆい美貌を更に引き立てていた。


 ああ、曲が終わってしまう。

 名残惜しくて悲しくなった。もっと沢山この夢のような時を過ごしたかったのに。


 曲の終幕と共にアークレインの体が離れていく。

 切なさを押し殺しエステルは一礼した。


「どうする? まだ踊る?」


 質問に、エステルはただ首を横に振った。


「踊りたいんですけど息が上がってしまって」


 体力が落ちているのが恨めしい。


「少し休もうか」


 アークレインは目を細めて微笑むと、再びエステルに手を差し出してきた。

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