愚者は踊る 03
(何でこんな事私がやらなきゃいけないのよ)
ディアナ・ポートリエの心の中は不平不満でいっぱいだった。
エステル付きの女官、リア・エンブリーに扮してアルビオン宮殿に潜入したはいいものの、朝早くから叩き起こされて、仕事を次々と言いつけられたからだ。
認めたくは無いが、エステルはこの天秤宮の女主人だ。
女主人付きの女官の仕事なんて、主人の髪や衣装を整えたり、お茶を淹れて話し相手になる程度だと思っていたのに、まさかベッドメイクや部屋の掃除をやらされるとは思わなかった。
しかもディアナに任されたのは、どう見ても長らく使われていない部屋だった。
記憶喪失という触れ込みで天秤宮に侵入したので、まずは技量を確認したいと言われたのである。
(ユフィルはこんな事してなかったわよ)
少なくともポートリエ男爵邸では、掃除は
裕福な貴族の邸宅では使用人の仕事は分業化されているものだ。
例えば洗濯は
そのはずなのに、天秤宮ときたら常に人手不足の状態らしい。そこには、信頼できる職員以外は置きたくないというアークレイン王子の意向が働いているそうだが、働く側からするとたまったものではない。
「掃除の基本は上から下よ。そんな事も忘れてしまったの? まずは上からはたきをかけて埃を全部床に落とすの」
「端を丸く掃くなんてどういう神経してるのかしら」
「シーツはもっとピンと張らないと。ほら、もっと力を入れて引っ張って!」
(うるさいうるさい)
メイベル・ツァオという同じエステル付きの女官がまた口うるさくて鬱陶しい。
(移民の癖に生意気なのよ。お前みたいな黄色い猿は
時折視界に入るエステル・フローゼスが、アークレイン王子と仲睦まじく見えるのがまた怒りを煽る。
本来のディアナの方があんな女よりずっと美人なのに。
気に食わないと言えば、
リア・エンブリーは冴えない容貌の女だ。地味な茶色の髪も、北の田舎者の証である紫がかった青の瞳も、荒れて吹き出物が出ている肌も、何もかもが気に入らない。
特にディアナに
ちゃんとこの体は元に戻るのだろうか。
フロリカは戻ると言っていたが、その時には、また体が変化した時の、あのとんでもない苦痛を味わう事になるのではないだろうか。
冷静に考えると色々と不安になる。しかし元の自分の容姿に戻る為ならあの苦痛があったとしても我慢できる。それくらいこのリアの容姿は気に入らない。こんな見た目ではせっかく王子様が側にいる環境なのに、恥ずかしすぎて擦り寄る事もできやしない。
――ロマの青年によってかけられた練香を使った暗示は、暗示をかけた当人すら預かり知らぬ方向へとディアナの思考を歪め始めていた。
……本当の私はエステルなんかよりずっとずっと綺麗なんだもの。
ライルがディアナのものになったように、アークレイン殿下も本来の私を見れば私のものになってくれるのではないかしら。
そうよ、あの女がいるキラキラとした場所は、綺麗な私にこそ相応しいわ。
私を見てもらう為には、邪魔な女を排除しなければ。
そのためにも今は我慢の時期だ。
女官としての仕事をちゃんとこなして、毒を盛る機会を窺うのだ。
ディアナは心の中の怒りを必死に心の奥に閉じ込めて、嫌々ながらも労働にいそしんだ。
◆ ◆ ◆
エステル・フローゼスに一服盛る機会は、昼下がりになってからようやく訪れた。
「掃除は全くダメね……何か女官としての仕事で覚えていることはないの?」
「お茶を淹れる事ならできそうな気がします」
メイベルからの質問に、ディアナはぼやかしながら答えた。
毒を盛るための発言ではあるが、ディアナはお茶を淹れる技術には自信があった。
ポートリエ男爵家はもともと東洋、主にガンディアとの貿易で財を成した家だ。
ティークリッパーと呼ばれる新鋭の快速魔導船の開発にいち早く目をつけ、ガンディアからの紅茶の輸送期間を大幅に短縮した事が今の資産の基礎を作った。
今でもお茶はポートリエ商会の主力商品だ。そのためディアナは、幼い頃から様々な品種のお茶の淹れる方を仕込まれた。これは、ポートリエ男爵家の一員として、社交界で新商品を披露し商機に繋げるためだ。
「……それなら試しに午後のお茶をあなたに任せようかしら。エステル様もあなたの事を心配していて、顔を見せて欲しいと仰っていたから」
「本当ですか?」
ディアナはぱあっと顔を輝かせた。ようやくエステルに近付く機会が訪れた。さっさと毒を盛ってこんな所退散しよう。そして、元の顔に戻ってアークレイン王子に会う機会を作ってもらわなければ。
「どんなお茶を淹れればいいでしょうか?」
うきうきとしながら尋ねるディアナは気付かない。メイベルの視線が酷く冷たいものになった事を。
◆ ◆ ◆
ようやく足を踏み入れる事が許されたエステルの部屋は、歴史的価値に満ち溢れていた。
(リシャールの家具にコルトナ工房製のシャンデリア……こっちの花瓶は
いずれも非常に貴重な骨董品で、博物館に展示されていてもおかしくない代物だ。
特に
どんなにお金を積んでも手に入らないアンティークを使い、上品にまとめられた部屋を目の当たりにし、ディアナは再びエステルに対する嫉妬心が燃え上がるのを感じた。
北の田舎者の癖になんて生意気なんだろう。この部屋はディアナにこそふさわしいものだ。
ディアナは心の中で悪態をつきながらも、慣れた手付きでティーセットの準備をした。このティーセットもまた国産の有名なメーカー製の高級品だ。
本当は雑巾の搾り汁でも入れてやりたいところだが、メイベルとエステルの目があるせいで残念ながらできない。仕方がないので自分の持つ技術を駆使し、最高に美味しいお茶を淹れてやる。これが最期の一杯になるのだから、はなむけにそれくらいしてあげてもいいだろう。
茶葉の量、お湯の温度、抽出時間、全てに気を配り、最後にこっそりと袖口に隠しておいた小瓶の中身をティーカップに垂らす。
そして、綺麗な琥珀色の液体が入ったティーカップを、トレイに載せてエステルの元へと運んだ。
「お待ちなさい。薬物検査が出来ていないわ」
テーブルにお茶を置こうとした瞬間、メイベルが口を出してきた。
「えっ……」
「暗殺対策の為に、殿下やエステル様にお茶をお持ちする時は、淹れた者が毒見をしなければなりません」
(何それ。そんな事聞いてないわよ……)
ディアナが戸惑っている間に、メイベルは戸棚へと移動するとスポイトと小さな容器を取り出した。
そしてティーカップからお茶を採取すると容器に移し、ディアナに差し出す。
「飲みなさい」
無理だ。そんな事できる訳ない。その中には、フロリカから渡された致死性の猛毒が入っている。
「どうしたの? リア。こんなの形式上のものよ?」
エステルも促してくる。
ぐいっと毒見用の容器を手に押し付けられた。
「……どうして飲まない」
ためらい、視線をさ迷わせるディアナに、メイベルが殺気をはらんだ目を向けた。
ディアナはギリ、と歯噛みすると、容器を床に叩きつけた。そしてその場を逃げ出そうとして――唐突にくるりと視界が反転し、愕然とする。
一拍置いて背中に息もできないくらいの衝撃を受けた。
「かはっ……」
一体何が起こったのだろう。気が付いたらディアナは床に転がされていて、上からメイベルに押さえ込まれていた。
女官のお仕着せの襟元を締められ、息ができない。
涙目になったディアナの頭に、魔導銃の銃口が突き付けられた。銃を構えているのは、青ざめた表情のエステルだ。
「吐け。お前は何者だ、偽者」
メイベルに厳しく問いただされ、背中に嫌な汗が流れた。
どうしてバレたんだろう。顔も体格も骨格も、ニキビやあばたの痕まで含めて今の自分はリア・エンブリーになっているはずなのに。
「本物のリアはどこ? もし傷一つでも付けていたら私はあなたを許さない」
エステルも震えながら怒りの声を向けてくる。
「偽者って何ですか? 私はリア・エンブリーです。王室女官の……」
ディアナはあまり頭の回転がいい方ではない。しかしそれでもわかる。偽者だという事がバレたらまずい。他人に化けて宮殿に無断で侵入したのだ。投獄だけでは済まないかもしれない。
「人間、誰しも言葉遣いには生い立ちが出るものだ。お前の話し言葉にはリアにあった北部訛りがない。歩き方の癖も違う。化けるならもう少し上手く演じればいいものを……」
吐き捨てたのはメイベルだ。
「誤解です。私はリアです!」
「リアはそんな目を私に向けないわ」
エステルは悲しげな眼差しを向けてくる。
「酷いですエステル様! 私はリアです! 信じてください!」
必死にディアナは否定した。
騒ぎを聞きつけて、バタバタと外から何人もの護衛官が駆け付け、部屋に飛び込んできた。
瞬く間にディアナは拘束され、エステルの部屋から引きずり出される。
最悪だ。どうしてこうなったんだろう。
自問自答したが答えは出なかった。
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