ブロークン・ハート 03

 その後は、待機していた厩務員や王室護衛官ロイヤルガードが駆け付けてきてちょっとした騒ぎになった。


 エステルが右肩に受けた衝撃の正体はクロスボウの矢だった。アークレインの異能で保護されていなければ確実に大怪我をしていた。


 乗馬の練習はお開きになった。ルナリスとアズールは厩務員に預け、エステルはアークレインと共に天秤宮へと戻る事になった。


「アーク様、ありがとうございます」


「いや、こちらこそ怖い思いをさせて悪かった。そろそろ何かしてくるかなとは思ってたんだけど」


 道すがらお礼を言うと逆に謝られた。平然としたアークレインの姿は、これが日常茶飯事である事を表している。


「異能で防げるのにどうしてしつこく狙ってくるんでしょうか……」


「嫌がらせの為だろうね。狙われる以上私は外では常に気が抜けない」


 アークレインの言葉に胸が締め付けられ、彼の置かれた状況に対する怒りがふつふつと湧いた。


 一番腹立たしいのは仕掛けてくる第二王子派だが、アークレインを宮殿から解放しようとしない国王も国王だ。


「どうして国王陛下はアーク様を宮殿から解放して下さらないんでしょうか……」


「父上は私を後継者にと望んでいて……何度抗議しても聞いて下さらないんだ。それに、一度父上は倒れていらっしゃるから、万が一のために成年王族を外に出す訳にもいかないんだよ」


 そう言ってアークレインは物憂げな息をついた。




   ◆ ◆ ◆




 今日のアークレインはずっと機嫌が悪い。

 顔には出さないようにしているようだが、マナは負の色合いを帯び続けている。


 ライルの馬車の事故の話を聞いた時、エステルがアークレインを疑ってしまったせいだろうか。それともクロスボウで狙われたせいだろうか。

 クロスボウでエステルを狙った犯人だが、すぐに護衛官達が追跡してくれたが、結局見つからなかったようだ。


「っ……!」


 鬱々と考えながらアークレインのマントに刺繍をしていたのが良くなかったのか、左手の指先に勢いよく刺繍針を突き刺してしまい、エステルは顔をしかめた。


 針で突いた所から血が出てきて、ぷっくりと玉のように盛り上がる。


 マントに血を付ける訳にはいかない。手も疲れてきた所だったので、エステルはマントを慎重に机の上に置くと、ハンカチを指先に当てた。


 白いハンカチに赤い鮮血が染みて滲む。分厚い生地への刺繍なので、力がいるし使用する針も太いものだから、勢い余ってかなり深く刺してしまったようだ。

 女官を呼んで手当してもらおう。

 そう思い、ベルに手を伸ばした時だった。


 エステルがいるのは共通の寝室である。そのドアがノックされた。入室の許可を出すと、眠る為の準備を整えたアークレインが顔を出した。


「エステル、その手、どうしたの?」


 アークレインはエステルを見て目を丸くした。


「ぼんやりしていて……今女官を呼ぼうかと思っていたところです」

「救急箱なら確かこの辺りに……」


 アークレインは戸棚から大きな木箱を取り出すと、エステルの傍に移動してきた。


「見せて」

「アーク様が手当てして下さるんですか?」

「これくらいなら女官を呼ぶまでもないよ」


 アークレインはまだ血が滲む指先に清潔なガーゼを当てると、器用に包帯を巻いて固定してくれた。


「ありがとうございます」

「刺繍が原因だよね。ならこの怪我は私にも責任がある」

「……そうですね。マントを刺繍していて出来た傷ですから」

「言うようになったね」


 アークレインはようやく楽しげに微笑んだ。そしてマントの刺繍をなぞり、エステルに視線を戻す。


「ありがとう。綺麗に出来てるね」

「お気に召して頂いて良かったです」


 マントの刺繍は日々の努力のおかげで明日には完成しそうだ。

 我ながらなかなかの出来だ。かなり気を遣って丁寧に刺した甲斐があった。


 刺繍を入れ終わったら、宮の中でも針仕事が得意な女官によって裏地や装飾を付ける作業が待っている。王室の象徴であるロイヤルブルーのマントをまとったアークレインは眩いくらいに凛々しいに違いない。


「アーク様」


 アークレインの機嫌が上向いた今なら聞ける気がした。

 ライルの馬車の事故の事だ。もっとしっかりとアークレインの口から否定してもらって、信じられる材料が欲しい。


「ライルの件は、本当にアーク様ではないんですよね」

「……まだ疑ってるのか」


 アークレインはため息をついた。


「排除を考えた事は否定しない。迷惑な事にライル・ウィンティアは病院での彼はずっと君の名を呼んでいるそうだ。すぐにこちらの方で緘口令は敷いたけど、もしマスコミに漏れたら面倒な事になる」


 怒っているというよりはうんざりとした表情だった。


「正直今からでも消してやりたい気分に駆られる。でもしない。どのような形であれ彼が傷付いたら君は心を痛める。それは私にとって望ましくない」


「それは、どういう……」


「エステルには私の絶対的な味方になって欲しいから。君の信頼を裏切るような真似はしない」


 アークレインの手がエステルの頬に伸ばされた。


「自分でも驚いているんだけど、私はどうやらあの男に嫉妬しているようなんだ」

「え……」

「エステルの今の婚約者は私だ。君が前の婚約者の事を考えるのはいい気はしない」


 アークレインのその言葉を聞いて、エステルは驚くと同時にどこか昏い悦びを覚えた。

 およそ人らしい感情などなさそうな目の前の人が、エステルに対して独占欲のような感情を抱いている。


 もっともっと、この人の感情をこちらに向けたい。その為にはどうすればいいんだろう。


「エステル」


 アークレインは小さな声で囁きかけてきた。


「もし私が先に進みたいと言ったらどこまで許してくれる?」

「先に……とはどういう事、ですか……?」


 戸惑うエステルをよそに、アークレインは指先をエステルの頬から胸元へと移動させた。そして服の上から胸の膨らみの上部に触れる。


「前にここに痕を遺したよね。そろそろ一緒に暮らし始めて一ヶ月だ。その先の段階に進んでもいい頃かなって」


 エステルは目を見開いた。

 いずれ抱く、そう宣言はされていたけれど、まさか今日求められるとは思わなかった。


 健康な男女が同じベッドで眠って、これまで何も無かった方がおかしいという事はわかる。女として求められて嬉しいという気持ちも湧き上がる。

 だけど、簡単に身も心も許してしまうのはダメだと思った。




 頭の中をよぎったのは、シエラ主催のティーパーティーに参加した時の事だ。あのティーパーティーはエステルの母親世代の女性の参加が多かった。


 人生の先輩であるマダム達は、アークレインに見初められた(という事になっている)エステルを祝福すると同時に心配し、男性の本能やら夫婦生活が上手くいく心得などを、こちらが思わず引いてしまうくらいの勢いで伝授してくれた。


 男性は誰しもハンターの気質を持っているそうだ。

 原始時代には、男は妻と子供を養うために狩りに出かけ、女は周囲との調和をはかりながら子供を育てた。

 だから文明が発達した今もなお、男性の中には狩猟本能とでも言うべきものが存在しているらしい。


 ハンターは苦労して得た獲物ほど大切にするものだ。

 百戦錬磨のマダム達は力説していた。男性に対しては、手が届きそうで届かない女を演出するのが重要なのだ、と。


 確かに初めてを簡単に捧げてしまえば、エステルの女としての価値は落ちる。


 ああ、でも、




「まだそこまでは許せない……?」


 どこか切なげな表情で求められたら拒めない。


「いいえ……」


 エステルは俯くと、消え入りそうなくらい小さな声で返事を返した。


「私はアーク様の婚約者ですから、お望みであれば受け入れるだけです」


 なけなしの矜恃を総動員し、抱かれてもいいけれどそれは義務としてだ、と言外に込めて告げる。


 自分の中にあるこの気持ちは絶対に悟らせない。

 気付かれたら、彼の中でのエステルは、身も心も簡単に落ちる安い女になってしまうだろうから。

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