ブロークン・ハート 02

 目を閉じて深く呼吸し、意識を心臓にあるマナに集中させる。


(動け)


 念じると、じわりじわりと少しずつマナが動き、か細い経路に流れ込んでゆく。

 だけど以前アークレインが見せてくれた時のように上手くできない。

 強く、強く念じても動かせるのはほんのちょっとだけだ。それでも少しでも動かせるようになってきたあたり、初めて異能の訓練方法を教えてもらった時よりも進歩しているとはいえる。


 それとは別に、毎日暇を見ては瞑想を繰り返し、マナを巡らせる為の経路を意識してわかった事がある。

 異能の訓練方法を教えてもらった時に、アークレインが立てた仮説に関してだ。


 瞳に向かってマナが垂れ流しになっているのではないかという推測は的を射ていた。確かにエステルの中には、心臓から瞳にかけて向かうやけに太い経路が存在しているのだ。こちらの経路は太すぎて、今のエステルでは自分の意志では止められない。


 訓練の為の集中にはかなり早く限界が来る。

 医学的にも生理学的にも、人が深い集中を持続させられるのは十五分程度と言われているそうだ。一度集中が乱れると、マナはもうそれ以上は動かない。

 エステルは目を開けると、ふうっと息をついた。


 ここはアークレインの執務室の続き間である。エステルは今日もこの部屋で過ごしていた。講義に刺繍、乗馬の練習に異能の訓練と、やるべき事は沢山あるので意外に忙しい。


「エステル様、お茶でも淹れましょうか?」


 エステルの集中が途切れた事に気付いてか、メイが声を掛けてきた。


「ううん、自分で淹れる。少し気分転換をしたいの」


 エステルは断ると、大きく伸びをして茶器が用意されている戸棚の前へと移動した。


「そろそろ殿下も一息入れられる頃ですね。エステル様がお持ちすれば喜んでいただけるのではないでしょうか?」

「そう? ご迷惑にならなければいいんだけど」


 そう言いつつもエステルが選んだのは、アークレインが特に気に入っていると言う銘柄の茶葉だ。


 お湯の温度と抽出時間に特に気を配りながら、柑橘の香りの付いたお茶を丁寧に淹れていく。

 マナを探ると、隣にいるのはアークレインとクラウスの二人だけのようだ。王族であるアークレインは言わずもがな、クラウスも高位貴族らしくマナが大きいからすぐにわかる。


 二人分のティーカップをトレイに載せて隣へと移動しようとしたエステルは、二人のマナが揃って陰ったのを感知してぴたりと足を止めた。


 ――ライル………………、馬車……事故……


 そんな声がドア越しに聞こえてくる。


「どうかなさいましたか?」


「あ……えっと……マナが二人とも陰ってて……何か難しいお話をされているみたい」


 ――――は……殿下……か?


 メイに答える間にも、二人の会話が断続的に聞こえてくる。


「また後で淹れなおすことにするから、一つはメイが飲んで」


 エステルは元いた場所に戻ると、誤魔化すように微笑んだ。




(どういう事なの……)


『ライル・ウィンティアが馬車の事故に』

『仕組んだのは殿下ですか?』


 クラウスは確かにそう言っていた。

 エステルは青ざめて自分で自分の体を抱きしめる。


「エステル様、やっぱり先程からご様子が何か変ですが……」


「何でもないわ」


「…………」


 何でもないという顔ではない、とメイの目は言っている。

 しかしメイはよくできた女官だから、それ以上は追求してこなかった。


 エステルは大きく息をつくと、ソファに深く腰かけ背中を預けた。


 ライルへの気持ちは複雑だ。

 彼に対する怒りに気付いた瞬間、かつて抱いていた恋心は霧散したけれど、幼なじみとしての情が完全に消え去った訳ではない。だから事故と聞くと心配だった。




   ◆ ◆ ◆




 アークレインが執務室の続き部屋に顔を出したのは、昼の三時を少し過ぎた時だった。


「エステル、公務が一段落ついたから乗馬の練習に行こう」


 誘われてチャンスだと思った。ライルの事をアークレインの口から直接聞けるいい機会だ。




 乗馬用ドレスに着替え、天秤宮の玄関ホールに向かうと、先に待機していたアークレインのマナがエステルの体を包み込んだ。


 リーディスの襲撃があってから彼は過保護になった。

 一緒に外に出る時は必ず念動力の壁をエステルの周囲に張り巡らせてくれる。エステルの異能では感知できない位置からの攻撃を防ぐためだ。

 マナの消耗が激しい為、最長でも二時間程度しか維持できないそうだが、乗馬の練習には十分な時間だ。


(こういう事をされるから……)


 心を奪われてしまうのだ。




 馬場に移動すると、エステルの愛馬ルナリスを引いた厩務員が待機していた。

 その側にはアークレインの愛馬もいる。アズールという名の青鹿毛の牡馬だ。


 ルナリスには、横乗り用の鞍が取り付けられていた。

 狩猟大会に備えての横乗りの練習をしなければいけないので仕方ないが、たまには普通に跨って思い切り走らせたい。

 横乗りは跨って乗るよりも技量が要求される。上手い人なら横乗りでも馬を自由自在に操り、障害を飛び越えたりできるのだが、エステルの技術では速歩はやあしで走らせるのが精一杯だった。


 エステルはルナリスに乗り込むと、アークレインのアズールに従って馬を歩かせた。


 まずは常歩なみあしで馬場をゆっくりと歩かせる。

 風は冷たくて寒かったが、ルナリスの上から見る馬場の景色は解放感があった。


 厩務員から十分な距離を取ったところで、アークレインが馬首を並べて話しかけてくる。


「何か私に聞きたい事がある、という顔だね」


 いつどうやって切り出すか迷っていたら、アークレインから先手を打たれた。そんなにわかりやすく顔に出ていたのだろうか。


「ライル・ウィンティアの馬車の事故」


 核心を突かれ、びくりと身をすくませると、フッと笑われた。


「メイから午前中、突然君の様子がおかしくなったと報告を受けている。君はもう少し内心を隠す訓練をした方がいい。私とクラウスの話を聞いてしまったんだね」


「申し訳ありません。立ち聞きするようなはしたない真似をして」


「別に話を聞かれた事に対して怒ってはいないよ。不愉快ではあるけど」


 それは怒っているのと何が違うのだろう。

 アークレインの負の感情が視えてエステルは萎縮する。


「どうして元婚約者の事をそんなに気にするの? 幼なじみだから?」

「そうですね、もう一人の兄のような存在でしたから」

「……なるほど」


(嫉妬……だったら嬉しいけれど……)


 そんな人らしい感情をこの人が持っているとは思えない。良くて気に入りのおもちゃに対する独占欲という所だろう。


「ライル・ウィンティアが馬車に轢かれたのは事実だ。幸い命に別状はなかったけど、腰と足の骨を折ったらしく、病院に担ぎ込まれた」


 分析をするエステルをよそに、アークレインはライルの事故について話し始めた。


「彼にとって療養生活は厳しいものになるだろうね。どれくらいの期間阿片窟に出入りしていたかは知らないけど、多かれ少なかれ禁断症状は出るはずだ」


「入院をきっかけに、薬から抜け出すことはできるのでしょうか?」


「さあ……阿片は他の麻薬よりもキツいと言われているからね。哀れだと思うけど、そこは彼自身が乗り越えるしかない」


 エステルの知るライルは怪しい薬物に手を出すような人ではなかったのに。幼なじみの転落に気が重くなった。


「事故だったんですよね? どうしてクラウス様はアーク様を疑うような事を……」

「私にとって目障りな存在だから」

「えっ」


 エステルは驚いてアークレインの方を見た。しかし残念ながらその表情は逆光になって見えない。


「君の元婚約者が阿片中毒になっているというだけでもいい醜聞のネタなのに、君に会うためにレジェ伯爵邸で騒ぎまで起こしている。マスコミに嗅ぎつけられたら確実に面倒な事になる」

「あ……」


 確かにその通りだ。


「だからってアーク様がライルに何かするだなんて……」


 ありえない、と言いきれない自分に気付いてエステルは愕然とした。


 『王冠を賭けた恋』で有名なギルフィス公は新大陸で妻共々事故死した。その事故には、王家直属の諜報機関が関わっているのではないかという陰謀説がまことしやかに囁かれている。


「私は何もしてない。エステルが信じられるかはまた別の話だけどね」


 冷たい声だった。まるでエステルの疑いを見透かしているかのような態度に嫌な汗が流れる。


 アークレインはエステルを大切にしてくれる。だから信じなければと思うのに、だからこそ信じられないのだと心が警鐘を鳴らす。

 ライルはエステルにとって言わば地雷だ。これまで真綿の中にエステルを閉じ込めてきたように、地雷を取り除こうとしてもおかしくない。


 アークレインの突き放すような態度が心に刺さる。

 彼が好きなのに。好きな人をどうして信じきれないのだろう。


「……速度を上げようか」


 これでこの話は終わり、そう突き放された気がした。

 常歩なみあしから速歩はやあしへ。足を使ってルナリスにスピードを上げるよう指示を出す。


 ここまでは問題ない。出来ないのはこの先、駈歩かけあしだ。


 ルナリスはしっかりと調教された温厚な馬なのだが、横乗りだとその指示がうまく通らなくなる。跨って乗った場合には難なくできる動作なのに。


「何が気に食わないのよ」


 エステルはため息混じりにルナリスの体を撫でた。


「体のバランスの取り方が原因だと思う。その子は賢いから、エステルの体重のかけ方では速度を出すと危ないってわかってるんだよ」


 引き返してきたアークレインの指摘は自分でもわかっている。


「わかっててもできないんです。男性はいいですよね、跨って乗れるんだから」


「……速歩はやあしがそれだけできれば狩猟大会で困る事はないと思うけどね」


 アークレインが苦笑いした直後だった。

 遠くから何かが飛んできて、エステルの右肩辺りでバチンと弾けた。


 驚いたルナリスが大きくいななき、さお立ちになる。


「エステル!」


 アークレインの声が聞こえた。


 エステルは反射的に手綱を手繰り寄せ、全身の筋肉を使って振り落とされないようバランスを取る。


「大丈夫。大丈夫だよ、ルナリス。落ち着いて」


 ルナリスの体を撫でて落ち着かせたところで、エステルはアークレインの手が手持ち無沙汰に伸ばされているのに気付いた。


「あ……もしかして可愛らしく助けて頂いた方が良かったでしょうか?」


「いや……何とか宥められてよかったね」


「ルナリスだからたぶん落とされずに済んだんです」


 元々の気性に加え、ルナリスとエステルの間には信頼関係もある。エステルはもう一度ルナリスのたてがみを撫でてやった。

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