世界が罅(ひび)割れた日

 気が付くと、アークレインは上空に浮かんでいた。


 異能を使っている訳ではないのに何故だろう。

 首を傾げ、眼下に見える子供の姿になんとなく状況を察する。

 あれは子供の頃の自分自身だ。幼かった頃の自分を神の視点で見下ろしている。


 ……という事はこれは夢なのだろう。

 夢である事を自覚しながら見る夢、明晰夢という奴に違いない。


 子供の頃の自分は、こそこそと獅子宮に忍び込もうとしていた。


(会いたい)


 小さな自分の思考が不思議と伝わってくる。


 生まれたばかりの弟とお義母様に会いたい。


 子供の頃の自分はそう考えていて、アークレインはこの夢が過去、現実にあった事だと気付いた。


 ――行くな!


 アークレインは子供の自分を止める為に手を伸ばした。しかしその手はするりとすり抜けてしまう。


 これは異母弟が生まれたばかりの時の夢だ。まだトルテリーゼ王妃との関係も良好で、ごく普通の家族のような生活を宮殿で送っていた時の――当時アークレインは八歳だった。


 人目を避け、庭の茂みを抜け向かった先は王族だけが知る秘密の抜け道だ。獅子宮の庭園に作られた石畳の小径こみち。その一角に、所定の手順でマナを流すと非常事態に備えた隠し通路が現れる。


 アルビオン宮殿の建物には、このような仕掛けが無数に存在している。

 アークレインも全てを知るわけではない。全てを知り、把握しているのは国王であるサーシェスだけだ。


 こっそりと獅子宮に忍び込むという手段に出たのは、臨月に入ってからトルテリーゼと会えない日々が続いていたからだ。出産を控えた女性は体が思うように動かなくなって大変なのだと周囲からさとされ、アークレインは寂しいのをずっと我慢していた。


 無事お産が終わったと連絡は来たのに、何日待っても面会の許可が下りなくて、アークレインは我慢の限界に達していた。だからこの日、王妃と異母弟に会うために獅子宮に忍び込む事にしたのだ。護衛をまいてこっそりと侵入するのは、既に異能に覚醒していたアークレインにはそう難しい事ではなかった。


 苦々しい思いを抱きながら、アークレインは子供の自分を追いかける。

 本当は追いかけたくない。なのに自分の意志ではどうにもできず、小さなアークレインは秘密の通路を抜け、トルテリーゼの部屋へとたどり着いてしまった。


 その時、トルテリーゼはベッドの上で半身を起こし、腕に新生児のリーディスを抱いて子守歌を歌っていた。聖母子を描いた宗教画のような光景だ。


「アーク……?」


 トルテリーゼが小さな侵入者に気付いた。当時は全く気付かなかったが、歌をやめた途端トルテリーゼの顔は凍り付いた。


「お義母様! 弟を見せて下さい!」


 小さなアークレインは、ぱあっと顔を輝かせ、トルテリーゼに駆け寄る。そしてトルテリーゼの腕の中にいるおくるみに包まれたリーディスを覗き込んだ。


 リーディスはすやすやと眠っていた。

 まだ生後二週間の新生児だ。周りの女官からは「顔が赤くてくしゃくしゃで、お猿さんに見えるかもしれません」なんて予告されていたけれど、想像していたよりもずっと可愛らしかった。


 確かに顔は赤い。だけど顔はまんまるで、まるで人形のようだった。


 子供の自分より更に小さな可愛い手には、これまた小さなピンクの爪がついている。その手に触れてみたくてアークレインは手を伸ばす。


 その時だった。トルテリーゼがアークレインの手をパシリと叩いた。


「触らないで!」


 厳しい声にアークレインは呆然とする。


「王妃陛下! どうかされましたか!?」


 入ってきたのは王妃付きの女官だった。女官はアークレインの姿を見て目を見開く。


「アークレイン殿下!? 一体どこから……」

「その子を追い出して!」


 トルテリーゼは叫びながら手近にあったぬいぐるみを投げつけてきた。

 新生児用に用意された布製のぬいぐるみだ。当たっても痛くはなかったが、これまで優しかったトルテリーゼの態度の豹変が衝撃で、アークレインは硬直した。


「リーディスには触らせないわ! この悪魔! あっちに行け!」


 枕を、クッションを、ベッドの上にあったものを順番に投げつけられ、アークレインは女官によって暴れるトルテリーゼから引き離された。


「王妃陛下はご出産の後からお加減が良くないのです。殿下、申し訳ございませんが今日はお帰り下さい」


 子供時代のアークレインにとって、優しかったトルテリーゼが錯乱して狂乱する様子は信じられないものだった。




 周囲が滲んで場面が切り替わった。

 天秤宮に戻ったアークレインは、ネヴィルや今はもう既に引退した乳母といった子持ちの職員に慰められている。


「殿下、子供を産んだばかりの女性の中には野生の動物のようになる方がいらっしゃるんですよ。私も妻の出産直後不安定になった妻にかなり噛みつかれました」


「そうです。出産直後の母猫の中には、子猫を守るために凶暴化する個体がいます。それと同じように、王妃陛下も精神的に不安定になっていらっしゃるようです。だから面会の許可もなかなか下りなかったみたいで……」




 後日サーシェスからも、トルテリーゼは産褥期精神病という病気になってしまったのだという説明があった。

 出産の前後で女性の中には酷く不安定になる人がいるらしい。

 そして、しばらく獅子宮には近付かないようにと言い渡された。




 ――また場面が変わった。

 小さなアークレインは獅子宮の庭のガゼボでトルテリーゼ王妃と向かい合って座っている。


「ごめんなさいね、アークレイン。あの時は少しおかしくなっていたみたいなの」


 紅茶色の髪色から赤薔薇に例えられるトルテリーゼは、華やかな美貌に穏やかな笑みを浮かべ、女官に運ばせたワゴンの側に立って手ずからお茶をティーカップに注いだ。


 ヤン帝国製の薔薇の花が描かれた白磁のカップに、トルテリーゼの髪色のように綺麗な深みのある紅いお茶が注がれる。




 ……この夢は香りも感じられるらしい。

 お茶の香りが辺りにふわりと立ち込めた。これは、トルテリーゼが好んで飲んでいたエルダーフラワーの香りを付けた紅茶の香りだ。


 マスカットに似た甘い香りに、夢の中だというのに気分が悪くなる。

 この匂いは嫌いだ。思わずアークレインは口元を押さえた。その一方で、小さなアークレインは嬉しそうな笑顔をトルテリーゼに向ける。


「お気になさらないで下さい、お義母様。命がけのお産を体験されて、気持ちが落ち着かなくなる事はよくあると聞きました。私は気にしていません」

「アークレインが優しくて嬉しいわ。またこれまでのように仲良くしてくださいね」


 トルテリーゼはにこやかに微笑むと、お茶を淹れたティーカップをアークレインの前に置いた。

 少年時代のアークレインは嬉しそうにそのカップに手を伸ばす。


「駄目だ! 飲むな!」


 制止は届かない。子供のアークレインがカップを傾け、お茶を口に含んだ瞬間、こちらの口の中にも、異様な苦味と熱が広がって――




   ◆ ◆ ◆




 ハア、ハア、ハア、ハア――


 暗闇の中、目覚めたアークレインは荒い息をついた。


 嫌な夢を見た。きっと昼間にトルテリーゼと出くわしたせいだ。

 あの時アークレインのお茶に盛られていたのは酸性の洗剤だった。幸い致死量には至らなかったものの、異物が混入された紅茶はアークレインの口の中をいた。


 ゲボゲボと噎せ返るアークレインを、トルテリーゼは愉悦の表情を浮かべて見下ろしていた。魔女のようなその姿は今でも脳裏にこびり付いている。


 状況を考えると、アークレインに洗剤を盛ったのはあの女だ。

 しかしあの件は事故とされ、茶器を準備した下女の不手際という事で『処理』された。


 この事件の性質の悪さは、盛られたのが毒ではなく、宮殿で普通に掃除のために使用されていた洗剤というところにある。


 それまでのトルテリーゼがアークレインを可愛がっていた事もあって、当時のアークレインがあの女を追求するのは難しかった。


 そして、この日を境に、トルテリーゼは笑顔でアークレインに悪意を示すようになる。


 アークレインが側にいる時に、さりげなくぶつかってきたのを皮切りに、品位保持費を削るよう父に進言したり、ミリアリアの遺品である装飾品を貸してくれとねだったり――実際にはサーシェスが王妃を叱って却下したため、実害はぶつかられた体が痛いくらいだったが、それまで優しかった継母の突然の豹変はアークレインの心をいたく傷付けた。


 また、この頃から天秤宮で不審な事件が起こり始めた。


 食事に毒や腐った食材を混ぜられたり、暗殺者が送り込まれてきたり――

 決定的な証拠は出なかったものの、王妃や王妃の背後にいるマールヴィック公爵の手のものだと思われた。


 伯父でクラウスの父でもある前ロージェル侯爵の手を借りて職員を一新し、警備体制を見直すまで、宮殿の中はアークレインにとって安心できる場所ではなくなった。

 異能に目覚めていなければ、もしかしたら今頃土の下で冷たくなっていたかもしれない。




 さぬ仲の親子関係が実子の誕生によっておかしくなるなんてよくある話だ。リーディスが生まれた事で、継子のアークレインが憎らしく見えるようになったのだろう。その心情はアークレインにも理解できる。だけど。


 そうなるくらいなら、初めから優しくなんてしなければ良かったのに。


 アークレインの中にある根深い人間不信の根源はあの女だ。人は裏切る。それをわずか八歳にしてアークレインは思い知らされた。


 アークレインはちらりと隣に感じる温もりに視線をやった。

 幸い共に眠るエステルを起こす事なく済んだようで安堵する。

 夢にうなされる無様な姿なんて彼女には見られたくない。アークレインは大きく息をつきながら前髪をかき上げると、静かに眠るエステルの頬に触れた。


 深い眠りに入っているのだろう。触れてもエステルは何の反応もしなかった。指先から伝わる人肌の温もりに、ささくれた心が解れていく。


 彼女は王子妃という立場を得た時、今のままで居てくれるのだろうか。

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