休暇のあと
長いようで短かった休暇が終わり、アークレインは執務室に山積みになった書類の束に舌打ちした。
「休暇明けは大抵こんな物です。さっさと片付けてください」
補佐官として同室で執務をするクラウスの目は冷ややかだ。銀髪に青の瞳という氷の精霊のような見た目そのままに、この従兄は感情が表情にあまり出ない。
大学在学中から少しずつ公務に関わってきたアークレインだが、その量が一気に増えたのはちょうど一年前の年末だ。サーシェスが突然倒れ、急遽当時通っていた士官学校を休学し、サーシェスが抱えていた公務のうち代行可能なものをトルテリーゼ王妃と分割して負担する事になったのがきっかけだった。
幸いサーシェスは一ヶ月ほどで回復したものの、アークレインに降ろされた公務はそのままになり、士官学校は中退する事になった。
父としてはこのまま徐々に公務をアークレインに移し、政務実績を大義名分にマールヴィック公爵と王妃を抑えるつもりなのだろう。公爵と王妃は当然それに反発しており、こちらの足元をすくおうと粗探しに躍起になっている。
王になりたい訳ではない。しかし攻撃の材料を相手に与えるのも
この苛立ちはもしかしたらエステルに見えているのだろうか。
ふと気になって、アークレインは執務室の続き間の扉に視線をやった。現在エステルはあの中で王子妃教育を受けているはずだ。
狩猟大会の準備もあるのでスケジュールは緩やかにしてあるが、いずれ彼女には、ただ妃としてアークレインの隣に立つだけでなく、天秤宮の女主人として内向きの管理をしてもらわなければならない。
ひとまず目の前の仕事を片付けて、少し様子を見に行ってみよう。
そう決めると、アークレインは羽根ペンを手に取り目の前の書類に取り組み始めた。
◆ ◆ ◆
久々に再開された王子妃教育は、メイによる護衛のされ方の心得講座から始まった。
「エステル様、襲撃者が仮に現れたら、私や護衛官達が応戦いたしますので、絶対に前には出ず、物陰に身を隠し、無事に逃げ延びる事を考えてください」
昨日の夕方になって久々に顔を合わせたメイは、エステルを守りきれなかったことに責任を感じているのか、どこか落ち込んでいるように見えた。しかし今日のメイは普段通りに戻っている。資料を混じえ、粛々と講義を進行していく。
「護身の為に銃は常にお持ち頂いていますが、ご自身の安全確保が第一です。それを使って抵抗するのは最終手段だとお考え下さい。状況によっては下手に抵抗せず、相手に捕らえられた方がいい場合もございます」
それはリーディスに襲われた時も言われた事だ。エステルはちらりと自身の太腿に視線をやった。
服の下には今日も銃を仕込んでいる。アークレインと出会ってからはレッグホルスターで固定しっぱなしなので、銃と肌が擦れる青あざができている。
その間にもメイの講義は続いている。
暴漢に建物の中で襲われた場合、野外で襲われた場合、野外も大自然の中、市街地など、いくつかの状況を想定しての逃げ方を教えられる。
「……こんな風に色々ご説明は致しましたが、襲ってきた相手がリーディス殿下の場合は、次は一目散に逃げてくださいね。あの方は天災のようなものです。近くにアークレイン殿下がいればまた変わってきますが……」
そう言ってメイは顔を曇らせた。
今日、エステルの護衛任務に就いているのは、リーディスが忍び込んできた時その場にいたニール護衛官だ。
側に控える彼は、エステルが旅行で不在にしている間相当絞られたのか、どこか疲れた表情をしている。
「ニール、疲れているのなら座ってもいいのよ」
「座るなんて滅相もないです。ネヴィルさんや部隊長に見られたらどやされます」
「ここでは誰も見ていないわ。きっとリーディス殿下の事で叱られたのよね? 私にも非があるのに」
「それが軟弱なだけですよ。訓練に関しては私も同等のものを受けております」
メイは手厳しい。ニールをバッサリと切り捨てた。
「女に見えて実は男なんじゃ疑惑があるメイベル
ニールが憎まれ口を叩くとメイはニールを冷たく睨んだ。
「子供の時からの鍛え方が違うだけ。女の私に勝てない事を恥じなさい」
メイの言葉にエステルは目をぱちくりさせた。
「もしかしてメイの方がニールより強いの?」
「もしかしなくても一対一の対人格闘なら俺はメイベルには勝てないですね」
「装備込みになるとまた話は変わってきます。私はマナが少ないですから」
メイは長身だが華奢な女性なのでその回答は意外だった。
「集中が削がれてしまいましたね。このあたりで一度休憩を入れましょう」
「そうして貰えると嬉しいわ」
メイの提案に一も二もなく賛成すると、エステルは大きく伸びをした。
◆ ◆ ◆
アークレインがこちらに顔を覗かせたのは、次の講師が来るまでの空き時間を有効活用するため、マントの刺繍に取り組んでいた時だった。
旅行の間に少しは進めるはずだった刺繍は、体調を崩したせいでちっともできなかった。少しずつでもやっておかなければ仕立てる時間が無くなってしまう。
「綺麗にできてるね」
「お褒め頂きありがとうございます」
刺繍は花嫁修業の必須項目だ。これくらい貴族の女の子なら誰でもできる。
「王家の紋章は複雑だから大変だよね。私の場合は個人の印章も刺繍してもらわなければいけないから心苦しいよ」
「……否定はしません」
エステルは痛くなってきた手を振りながら答えた。
「せめてアーク様の印章が虎ではなくて模様のない動物ならよかったんですが……」
「ごめんね。個人の印章を決めたのは私じゃなくて父上なんだ。だから苦情は父上に言ってほしい」
国王は狼でリーディスは黒豹だ。思わず愚痴を漏らすと苦笑いが返ってきた。
「よろしかったらお茶でも淹れましょうか? 手が疲れてきたので少し息抜きがしたいです」
「エステルが淹れてくれるの?」
「はい。お口に合うか少し不安ですが」
この部屋にはお茶を淹れるためのセットが一式揃っている。エステルは席を立つと、魔導ポットや茶葉などが収められた戸棚の前に立った。
「いっぱい揃ってますね。何かリクエストはありますか?」
「何でもいいよ。エステルの飲みたいものなら」
「うーん……じゃあベルガモットのフレーバーティーにします」
エステルが選んだのは、アークレインの好む香水の香りの紅茶だった。
「エステルの一番好きなお茶は何?」
「マスカット系の香りの紅茶が好きです。エルダーフラワーとか」
「……そうなんだ」
僅かな沈黙にエステルは疑問を抱いた。
「もしかして苦手ですか?」
「少しね。それより明日はロージェル侯爵邸でのティーパーティーだよね」
あからさま過ぎる話題転換だった。エステルは触れて欲しくないのだと察する。
「はい。アーク様の婚約者として初めての社交ですので緊張します」
エステルはさらりと流して返事をした。
「そう身構えなくても大丈夫だよ。伯母上主催のパーティーだから、君を快く思わないものがいたとしても何もできない。何か不快な事を言ったり行動に移す者がいたとしたら後からちゃんと教えて欲しい」
(……まるで真綿の中に包まれているみたい)
アークレインの発言に感じたのは息苦しさだった。
温かく優しく囲い込まれ守られて――とてもありがたいことなのに。
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