帰路 01

 夜の海に浮かぶ白い三日月、星明かりのように眼下に見えた街の明かり、そして花火と共に空に昇っていった無数のスカイランタン――


 目を閉じると、昨夜見た幻想的な光景の数々が蘇ってきて、エステルは感嘆のため息をもらした。

 時が止まればいいのにという願いは叶わず、現在エステルはアークレインと共に首都に戻る馬車の中にいる。


「エステル、調子がまだ悪いなら横になっていた方がいいんじゃないの?」

「体調はもうそんなに悪くないです。昨日の事を思い出したらぼんやりしちゃって」


 話し掛けてきたアークレインにエステルはふるふると首を振った。


「アーク様、昨日はありがとうございました。まさか自分が空を飛べるなんて……あの景色も一生忘れないです。本当に綺麗でした」

「楽しんでもらえたのならそれが一番だよ」

「私の体調のせいであまり旅行を楽しめなかったのが申し訳なくて」

「そんな事気にしなくていいよ。君にストレスをかけたのは自覚してるしね……環境が一気に変わったんだ。倒れてもおかしくない」


 この強引な王子様にも一応人を気遣う心はあったらしい。


「今は平気? 辛いなら休憩するから遠慮なく言うんだよ」

「本当にもう大丈夫ですよ。長時間歩き回るのはちょっと自信がないですけど、座っている分には問題ないです」


 エステルはブランケットを膝の上にしっかりと掛け直した。

 少しだけ体の怠さが残っているが、室内で過ごす分には問題ないくらいに回復している。


 体調が戻ったからこそ馬車の中は手持ち無沙汰だ。刺繍や読書は酔うから出来ないので、窓から流れる景色を見るくらいしかする事がない。そしてぼんやりと外を眺めていると、昨日の事を思い出す、その繰り返しだ。


(私って惚れっぽいのかな……)


 エステルは物憂げなため息をついた。


 ほんの少し前までエステルの気持ちが捧げられていたのは元婚約者のライルだった。しかし今、心の大分部を占めるのは目の前にいるアークレインだ。


 恋とは唐突に落ち、落ちたら坂道を転がり落ちるように深みにはまって行くものと言うけれど、新たな恋を見つけるのが早すぎる気がする。


 馬車の中という狭い空間で、アークレインと二人きりという状況に胸のドキドキが治まらない。ちらりと向かい側に座るアークレインを盗み見ると、彼もまた窓の外をぼんやりと眺めていた。蜂蜜色の金髪が、窓から差し込む陽射しに煌めいて、彫刻のように整った顔がいつもより輝いて見えるのはきっと恋心を自覚したからだ。


 昨夜エステルを連れて飛んだことで残り二割程度まで目減りしていたマナは、一夜明けてほぼ全快している。

 アークレインによると空を飛ぶ程の念動力は王族の《覚醒者》でもないと扱えないものらしい。

 確かに大人二人分の質量を空に浮かすとなると、相当なエネルギーが必要になる。


「何か私の顔に付いてる?」


 じっと見ていた事に気付かれてしまった。エステルはぱっと目を逸らす。


「もしかして見惚れてた?」

「ち、違います! 昨日はあんなにマナが減っていたのに、一晩でほぼ全快するんだなって思って……」

「ああ……限界まで念動力を使ったとしても、ぐっすり眠れば回復するね」


 アークレインはそう言いながら自分の心臓の辺りに視線をやった。


「アーク様のマナが多いのは王族だからですか? それとも訓練の結果ですか?」

「生まれつきの部分が大きいね。前にも言ったと思うけど、訓練で増えるマナの量なんて微々たるものだ。やらないよりやる方が伸びるのは間違いないけどね」

「……私も今日から時間を見つけてマナの循環を試してみようと思います」


 体調不良でそれどころではなかったけれど、せっかく教えてもらったのだ。コントロールを身に着ける為にもやるべきだろう。


「補助してあげようか?」

「結構です」


 思い切り首を振るとクスリと笑われた。


「あ、そうだ。気になっていた事があるんですけどお伺いしてもいいですか?」

「何? 私に答えられる事ならいいんだけど」

「えっと……私の目にはアーク様の方がリーディス殿下よりもマナが多いように見えるんですけど、どうしてリーディス殿下の方がマナが多いって言われているんでしょうか」


 ずっと気になっていた疑問をぶつけると、アークレインのマナが陰った。もしかしたら触れてはいけない事だったのかもしれない。


「……そうか、君はマナが視覚的に視えるんだったね」


 そう呟くと、アークレインはどこか困った表情をこちらに向けた。


「簡単な話だよ。測定の前に念動力を使ってわざとマナを消費して、怪しまれない程度に低く見せた。だから表向きには私のマナはリーディスより低い事になっている」


 この国では、七歳と十二歳、そして成人年齢となる十八歳の三回マナの総量を測定する事になっている。マナの量次第で使える魔導具の幅が変わるためだ。特に軍人や技師を目指す子供にはマナの量は重要になる。


「どうしてそんな事を……」


「リーディスへの王位継承の可能性を上げる為に。私を殺さなくてもリーディスに王位が転がり込んでくるかもしれない、という状況を作る事で、安易に暗殺に走ろうとする連中を抑えようと思ったんだ」


 淡々と話すアークレインがどこか痛々しくて胸が締め付けられた。

 



   ◆ ◆ ◆




『このような事になって大変驚いておりますが、姪をよろしくお願いします。殿下』


 複雑な表情をするエステルを見ると同時にアークレインの脳裏に蘇ったのは、エステルの叔父、オスカー・フローゼスの言葉だった。


 シリウスが首都にいる間、フローゼス伯爵領の領主代理を務めているオスカーとは直接の面識はない。シリウスがこちらにいる限り身動きが取れないため、婚約の話をする為に通信魔導具で少しの間通話しただけだ。しかしその短い間でも、彼女が周りの人間に愛されて育った事が十二分にわかった。


『このような事を殿下に申し上げるのは自分でも愚かな事と承知しておりますが、私には子が出来ませんでした。ですから私にとってエステルとシリウスの二人は実の子にも等しい存在なのです。ですからどうか、エステルを幸せにしてやって下さい』


 エステルを大切にしているのはあの叔父だという男だけではない。シリウスもだ。


 ――正直私は殿下に嫁がせるのは反対です。しかし立場上我々は殿下に望まれれば拒めません。エステルを幸せにするとお約束下さい。私にとってエステルはたった一人の妹なんです。


 シリウスはニューイヤーの晩餐の前、アークレインに対して真剣な表情で言い放った。


 親族達に大切に守られて育ってきたエステルから同情めいた視線を向けられて、癇にさわるのは羨ましいからだろうか。


 流されるままにアークレインの元にやって来たエステルは大人しく静かだ。恐らく異能という特別な才能がなければ、決して手を出そうとは思わなかったタイプの女性である。


 無理矢理引き込んだ自覚はあるので大切にしてやらなければと思う一方で、時々無性に踏みにじってやりたくなる。


 アークレインにとって、無条件に自分を愛してくれる血縁は、ミリアリアと亡くなった前ロージェル侯爵の二人だけだった。前ロージェル侯爵はミリアリアの兄で、アークレインにとっては伯父に当たる人物だ。


 アークレインを支えてくれる血縁という意味では、伯母のシエラと従兄のクラウスがいるが、シエラは他所から嫁いできた人間だし、クラウスはミリアリアへの思慕からアークレインに付いているだけだ。


 父はトルテリーゼを寵愛し始めてから遠い存在になってしまった。そもそも王族の親子関係は近いようで遠い。まだ子供のうちから親元を離れ、宮を与えられるという慣例のせいだ。アークレインも七歳の誕生日に天秤宮を賜って、それからは女官や侍従に囲まれて育った。


 エステルから、普通の家庭で育ったもの特有のまっとうな感情を見せられるともやもやとした感情が湧き上がる。それは、宮殿という特殊な場所で育った自分には到底持ち得ないものだ。


「あの……申し訳ありません。きっとお聞きしてはいけない事だったんですよね」


 可哀想に。アークレインの負の感情を『視て』しまったのだろう。エステルは青ざめている。

 そんな姿に溜飲が下がる自分には、どうやら嗜虐的な性癖があったらしい。


 エステルは思った事がすぐ顔に出る。優しくすると素直に喜び怒ると押し黙る。身分差があるから、怒りをぶつけてはいけないという分別が働くのだろう。彼女の場合、目が口以上にものを言うからアークレインにはお見通しなのだが、そういう自制心のある所は純粋に好ましい。


「そんな事はないよ。マナが視える君が疑問に思うのはもっともだと思う」


 アークレインは穏やかに微笑んだ。自分の中の嗜虐性が満たされたので、エステルにも不穏な感情は見えないはずだ。


 エステルの異能は中途半端だ。精神感応テレパシー読心マインドリーディングといった異能と違って、正確な感情自体を読み取れる訳では無いところに駆け引きの余地がある。


「リーディスと君が会えば、遅かれ早かれ疑問に思う事だったね。こちらも失念していたよ。あらかじめ説明しておくべきだった」


 感情の波を揺らさないよう心掛けて言葉を紡ぐと、エステルはあからさまにほっとした顔を見せた。


 本当にわかりやすい。これはなるべく早めに彼女に感情表現を抑える技術を仕込む必要がありそうだ。

 社交界は政治的思惑と打算が入り交じる魔窟だ。仮面を被る術を身につけなければ飢えたハイエナ共の標的になりかねない。


 唐突に馬車が大きく揺れたのは、今後のエステルの教育方針について考え始めた時だった。


「!?」


 身構えると同時に、大きな地響きの音が外から聞こえた。


(襲撃か!?)


 細心の注意を払ってのお忍びの小旅行だったが、秘密とはどんなに隠してもバレる時はバレるものだ。


 アークレインは反射的に目の前のエステルを抱き寄せると、自分たちの周囲に念動力の障壁を張り巡らせ、外に向かって声を張り上げる。


「何事だ!?」


「と、突然崖が崩れました! この馬車は無事ですが、前を走っていた馬車が巻き込まれて……」


 答えたのは馬で並走していた護衛官のネヴィルだった。

 天秤宮付きの王室護衛官ロイヤルガードの中では最も信頼出来るベテランで、そのためにニールと共にエステル付きにした護衛官である。


 襲撃ではなくて一安心だが、災害に誰かが巻き込まれたとなったら無視する訳にはいかない。


「エステルは馬車の中にいるんだ! 安全が確認できるまでは絶対に出るな!」


 アークレインはエステルに強い口調で言い付けると、馬車を飛び出した。

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