空に希う 03

 エステルが着替えている間にアークレインもまた自室に戻り、外出する格好になって戻ってきた。その手には何かが入ったバスケットがある。


「もう少し着込んだ方がいい」


 エステルを見たアークレインは、更に上からマフラーとショールでぐるぐる巻きにしてきた。大量の服で着膨れてかなり不格好だ。


「これ、持って貰ってもいい?」


 バスケットを渡され、エステルは首を傾げた。


「何ですか、これ」

「スカイランタンが入ってる。エステルも飛ばしたいよね?」


 その回答に、心に灯った火が温もりを増した。


「じゃあ行こうか」


 アークレインはルーフバルコニーに通じる窓を開け放つと、エステルに手を差し伸べた。その手を取ると、エステルの体をアークレインのマナが包み込み、ふわりと体が宙に浮かんだ。


「きゃ……」


 驚いて悲鳴を上げたエステルの体は、次の瞬間にはアークレインに抱き上げられていた。俗に言うお姫様抱っこの体勢だ。アークレインはエステルに悪戯が成功した子供のような笑みを向けると、そのままマナを操作し念動力で自分の体を浮き上がらせた。


 浮いている。エステルは驚きで言葉も出ない。

 硬直するエステルを抱き上げるアークレインの腕は、細身に見えるのにとても逞しい。一緒に眠った時に抱きつくという事故が発生しているので、彼の体が意外に鍛えられているのは知っていたけれど、意識のある状態でこんなに体が密着するのは初めてだ。


 今が冬で良かったのか悪かったのか、着込んでいるおかげで体は分厚い何枚もの布が隔てている。だけど少し横を見上げるだけで、口付けができてしまいそうな距離にアークレインの顔がある事にドキリとする。


 体を包み込むのは、いつものベルガモットの香りだ。彼が好む香水の香り。


 心臓の音がうるさい。エステルはアークレインから意識を逸らすため顔を背け――視界に入ってきた光景に息を呑んだ。


 漆黒の夜空にぽっかりと浮かぶ白い三日月。月明かりに照らされて夜の海は群青に染まり、波涛が白い泡となって次々と砂浜に押し寄せてくる。


 視線の向きを変えると、いつの間にやらかなりの高度に到達しており、街の明かりが眼下にキラキラと煌めいていた。そして、港の先端に建てられた灯台からは灯火が光線となって空に伸びている。


「わたし、飛んでる……」


 空を飛ぶ事は人類の永遠の夢だ。

 人が空を飛ぶ手段として現在知られているのは気球とグライダーだが、それらは発明家達が空を見上げ、空に憧れ、空に挑戦した結果生み出されたものだ。


 より長く、より早く、より遠くへ――鳥のように飛翔するための魔導機械は、今なお技師達によって試行錯誤が繰り返されている。近年の産業の発達は目ざましいから、魔導機関車が実用化されたように、いずれ飛行の為の機械が開発される日は近いだろう。しかしアークレインやリーディスと言った強力な念動力を持つ《覚醒者》は、技師の努力を嘲笑うかのように、いとも簡単に空を飛んでしまうのだ。


 風は冷たく、むき出しになった顔が痛くなるほどに寒い。だけどそんな事は些細な事だと感じられるほどに、エステルは眼下に広がる夜景に魅了された。


「体の調子は大丈夫? 寒くない?」

「はい」


 興奮と喜びでそれどころではない。


「アーク様、連れてきて下さってありがとうございます。すごく綺麗……こんな景色見るの私初めてです」

「どういたしまして。喜んでもらえて光栄なんだけど……ごめんね、そろそろ降りるよ。人に見られたくないし、実は人一人抱えて飛ぶのは結構マナを消耗するんだ」


 アークレインは申し訳なさそうに囁くと、高度を下げ、人が大勢集まっている浜辺が遠く一望できる小高い丘の上へと舞い降りた。

 海の近くに集まった人々は、皆一様にスカイランタンらしき明かりを手に持っており、気の早い数名が既にランタンを海に向かって飛ばしていた。


「ちょっと遠いけど我慢して欲しい。さすがにあの人混みの中に空から行く訳にはいかないから」


 確かに《覚醒者》は相当に珍しいから、空から人が飛んできたら大騒ぎになってしまう。


「海に船があるのが見える? あそこから花火が上がったらスカイランタンを飛ばすんだ。私たちも準備をしよう」


 アークレインはエステルの手の中からスカイランタンが入ったバスケットを取り上げた。そして折りたたまれたスカイランタンを広げ、マッチで火を付ける。


「手を放したら飛んでいくから気を付けてね」


 スカイランタンを手渡された。それは、大きな紙袋が被さったキャンドルの形状をしていた。


「不思議です。どうしてこのランタンが空を飛ぶんですか?」

「熱気球の原理と一緒だよ。そのキャンドル部分に特殊なオイルが使われているんだ」

「火を使って危なくないんですか? 市街地に落ちたら火事になりそう」

「この時期のキルデアは季節風の影響で陸から海に向かって風が吹く。一応風向きを確認した上で開催の可否を決めてるし、スカイランタン自体も規格が決まっていて、五分程度で燃え尽きて落ちるよう設計されているから大丈夫だよ」


 博識なアークレインに感心するのと花火が打ち上がるのは同時だった。


 ドーン、という音と共に夜空に大輪の花が咲く。すると、一斉に人々の手元からスカイランタンが放たれ、上空に向かって無数の灯火が昇っていった。


 まるで蛍が一斉に飛び立ったかのような幻想的な光景だった。ランタンたちは緩やかに海に向かって飛んでいく。

 エステルも手元のスカイランタンから手を離し、そっと上空へと飛ばした。


 このまま時が永遠に止まればいいのに。思わずそう願ってしまうくらいに綺麗だった。


 エステルはこっそりと隣のアークレインを盗み見る。


 時々すごく意地悪だけど、アークレインは基本的には優しくて、エステルの事を尊重してくれる。

 どうしよう。知れば知るほど彼の事を好きになっていく。


 きっとこの人はエステルと同じ気持ちは返してくれない。それが酷く切ない一方で、そんな事はどうだって良いと思える自分も存在した。


 同じ気持ちじゃなくても構わない。側に居させて貰えるなら。


 ――ああ、私はこの人に、


(恋をしたのね)


 エステルは心の中で呟くと胸元に手を当てた。そこは、既に消えかけている口付けの痕跡が残る場所だ。

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