空に希う 01
エステル達の乗る馬車がキルデアに到着したのは、午後三時を少し過ぎた時だった。
街に到着する十分ほど前から海が見え始め、エステルの気持ちは浮き立った。山間部で育ったエステルには海は珍しいのだ。
ここに来る道すがらアークレインが教えてくれた。元々は静かな漁村だったキルデアだが、三十年ほど前に海軍の基地が作られて、士官の親族が訪れるようになった事で急速に発展した街らしい。
この街は大ローザリア島の南西部に位置し、温暖な気候は、冬の保養地として多くの訪問者を魅了した。スカイランタンを飛ばすお祭りも、観光客の誘致のために始めたもののようだ。
海沿いの緩やかな丘陵地帯には、古い石造りの建物が立ち並び、まるで絵本から飛び出してきたかのような街並みが広がっていた。
この小旅行は三泊四日の予定だ。アークレインの休暇は五日間だが、公務への負担を考えて一日早く戻る事にした。安息日は明後日で、お祭りもしっかり見られる理想的な日程である。
今回滞在するのは、アークレインが個人的に所有しているという小さなコテージだ。富裕層の別荘が立ち並ぶ浜辺の一角に建てられており、宮殿と同じような結界魔導具が組み込まれているのがエステルの瞳には視えた。
アークレインの手を借りて馬車を降りると強い潮の香りが押し寄せてくる。
コテージの玄関口には管理人らしい老夫婦が待機していた。二人とも髪に白いものがかなり混じっているが、背筋がピンと伸びて
「久しぶりだね、ジャック」
「こちらこそお久しぶりです、殿下。こちらの可愛らしいお嬢様が殿下が婚約者にお迎えになったエステル様ですね。おめでとうございます」
アークレインが夫の方に話し掛けると、ジャックと呼ばれた老人はエステルに向かって柔和に微笑みかけてきた。
「エステル、ジャックは昔天秤宮で料理長として働いていたんだ」
「初めまして、エステル様。こちらの管理を務めておりますジャックと申します。こちらは私の妻のサラです。こちらに滞在中のお二人のお食事は僭越ながらこの私が腕を奮う予定です。よろしくお願いいたします」
「サラです。よろしくお願いいたします」
アークレインの紹介の後、ジャックとサラは揃ってエステルに礼儀正しく挨拶をした。その表情にもマナにも尊敬と親愛が溢れていて、エステルは二人に好感を持った。
「殿下には宮を退官した後、余生を過ごす場所としてこちらの管理をお任せいただいたんですよ」
「殿下には夫婦共々感謝しております。さあ、お部屋にご案内しますね」
サラに案内された部屋は、コテージの二階にある寝室だった。
「やっぱり同室なんですね」
「溺愛しているという設定はここでも貫いておきたいからね。どこでボロが出るか分からないから。それに天秤宮と比べるとどうしても警備が手薄になるから、君は私の側にいた方がいい」
サラが居なくなってから思わず呟くと淡々と説明された。
全てはエステルを警報機として使う為。
彼に惹かれつつある心は、愛される素振りを見せられる度に悲鳴を上げる。
「ここのベッドは狭いし宮殿の中と違って人目は少ないから同衾まではしなくていいよ。私はソファで眠るから君はベッドを使うといい」
確かに建物が小さいため、寝室自体もベッドも宮殿に比べればコンパクトだ。王子様をソファで寝かせるということに気は引けたものの、たまには一人で眠りたい。
「そんな事を仰るなら本当にソファで寝て頂きますよ」
「構わないよ。士官学校のベッドに比べればどこだって天国だ」
アークレインが浮かべる穏やかな微笑みは最近では胡散臭く感じる。エステルは目を逸らすと窓際へと近づいた。
ルーフバルコニーに繋がる大きな窓からは海が一望できてとても綺麗だった。バルコニーには階段が取り付けられていて、プライベートビーチに出られるようになっている。
「散策にでも行く? それともお茶を用意してもらおうか?」
「……折角なので暗くなる前に外を見て回りたいです」
「わかった。じゃあ行こうか」
こちらに差し出された手にエステルは指先を重ねた。
◆ ◆ ◆
アークレインと共にルーフバルコニーに出ると、波の音と共に強い潮の香りがした。
バルコニーの階段からプライベートビーチに降り立ち、浜辺を散策する。
砂浜にはヤシの木が生えていて、白い砂と青い海とのコントラストが美しく、まるで南国に来たかのような錯覚を覚えた。
「綺麗なところですね」
「うん。ここを買ったのは景色が気に入ったからなんだ」
そう告げるアークレインはどこか得意気だった。
「お金持ち自慢ですか」
「何かがあって外国に逃げる事になったとしても、エステルを困らせない程度には持ってるよ」
「えっ……」
エステルが驚いてアークレインの顔を見上げると、アークレインは静かに海を見つめていた。
「品位保持費とは別に母上から受け継いだ個人資産があるんだ。それを元手に投資して得られた利益をフランシールとアスカニア、それと新大陸の銀行に分散させて預けている。正式に結婚したら目録を渡すよ。私に何かあったらそれは君のものだ」
「不吉なことを仰いますね」
「本当に身の危険を感じたらさっさと逃げる予定ではあるけどね。最悪の想定はしておいた方がいい」
「そんなに隠し資産があるなら、何もかも捨てて逃げればいいのに」
「流石に今の段階でそれはできないよ。私には王族に生まれた責任がある。だけど時々思うよ。準貴族あたりの身軽な立場に生まれたかったなあって」
「そこは平民じゃないんですね」
「労働するのはやぶさかではないけど、収入を考えたら頭脳労働で食べていきたいからね」
弁護士、医師、会計士、聖職者、学者――それらの職に就く為には大学への入学が必須だ。そして大学に通う為には子供の頃からしっかりとした家庭教師を付けてもらい、かつ学費を捻出するだけの経済力が必要なので、必然的にそのような職に就けるのは、貴族の家を継げない次男以下や準貴族の子弟に限られてくる。
「シリウスの北部領主という立場も結構理想的だね。北は自然環境は厳しいけれど、中央と距離を取りやすい。それに、君達兄妹を見ていると温かい家庭で育った事がよくわかる」
アークレインは一度言葉を切った。
「……君は私の求婚を嫌がっていたけど、私も好きで王族に生まれた訳では無いんだよ」
じっと海を見つめる彼の眼差しはどこまでも透明で凪いでいた。陰るマナから読み取れる感情は――怒りと哀しみ。
本音をさらけ出されて胸が締め付けられた。強引にエステルを中央の政争に巻き込んだ事は許せない。だけど。
この方も犠牲者なのだ。母親を幼くして亡くしただけでも悲劇なのに、その後国王が後妻を迎え寵愛したせいで、生まれ持った至尊の冠を奪い取られようとしている。
この人の力になりたい。アークレインと出会って初めてエステルはそう思った。
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