天秤宮の新生活

 翌朝――


「お嬢様が大人になってしまわれたかと思うと……何と言うか感慨深いです」


 しみじみとリアから言われ、エステルはその場に突っ伏したくなった。リアと共にエステルの身支度を整えるメイからは何やら生温い目が向けられている。


 全てはアークレインがエステルに溺れているという設定の為の工作に過ぎないのに。

 リアの中では激しく結ばれたという事になっているようで、恥ずかしさにいたたまれなかった。


「今日は首の詰まったドレスにしないと駄目ですね。今が冬で良かったです」


 リアは楽しげにエステルの着替えを選んでいる。

 ライルとの婚約破棄の時彼女は自分の事のように激怒していたから、エステルが王子様に見初められた事が相当に嬉しいようだ。


(その王子様は政治的には難しい立場にいる方なのよ……)


 そんな事はリアもわかっているはずなのに。エステルは心の中で呟いた。




   ◆ ◆ ◆




 午後になると、アークレインがエステルの部屋を訪れた。


「体の具合はどう? 大丈夫そうなら天秤宮を案内するよ」


 今日はメイにもリアにも体を気遣われるのだが、初めてとはそんなに体の負担がかかるものなのだろうか。痛いとは噂に聞くけれど、いずれアークレインとする事になると思うと不安が湧き上がる。


(する事自体は嫌じゃない。……というかむしろ光栄な事よね。殿下はこんなに格好いいんだし)


 背景が大層で命の危険もあるという、大きな問題が存在するのだが。


 貴族の娘に生まれた以上は誰かに嫁ぐのは義務だ。あまり変な人にシリウスがエステルを嫁がせる事はないだろうが、アークレインに見出されていなければ、男性としては数段以上落ちる人にこの身を任せる事になっていたはずだ。


 アークレインに並ぶような男性がいるとしたら、ライルやクラウスくらいしか思い付かない。ライルはもうエステルのものではないし、クラウスは接点が少なすぎて性格がよくわからない。アークレインの性格は良いとは言い切れないけれど、少なくとも基本的に紳士的ではあるし何より王子様だ。政治的な立場が安定してくれさえすれば、考え得る中で一番最良の相手と言える。


「エステル? どうしたの? 体調が悪い?」


 再び声をかけられて、エステルははっと我に返った。


「申し訳ありません。考え事をしていました。体調は大丈夫です。行けます」


 エステルは慌ててアークレインに返事をした。




 アークレインの部屋に始まり、客室、応接室、広間、画廊――

 エステルはアークレインの案内で天秤宮の中を見て回った。食堂や倉庫、住み込みの職員の宿舎など、宮殿内で働く使用人が使う場所も含めて、広大な宮の中を順番に案内してもらう。


 宮殿の中で王族の手足として働く職員は、男性を侍従、女性を女官と呼ぶ。

 侍従・女官とは別に、護衛を担う職員として王室護衛官ロイヤルガードが編成されており、エステルとも何度か顔を合わせた事のあるニール護衛官はそこの所属だった。射撃がしたければ、王室護衛官ロイヤルガードの訓練施設に設備があるので、そちらに行くようにとの事である。


 基本的に天秤宮で働く職員は、ロージェル侯爵家経由でアークレインに忠実で信頼できる人間だけを雇い入れたそうだ。

 しかし、マナを見た限り、すれ違う職員の全員がエステルに好意的な訳ではなかったので、側仕えのメイやリアのありがたみを思い知る結果となった。なお、エステルに対して含むところのありそうな者は、後日配置換えを行いエステルからなるべく遠ざける事になっている。


 天秤宮の中だけでもかなりの部屋数があり、一通り見て回るだけで一時間以上はかかった。


「基本的にこの天秤宮の外には出ないようにして欲しい。庭に出る時は必ずメイと王室護衛官ロイヤルガードを連れて行く事。命が惜しいなら約束して欲しい」

「……仕方ないですね」


 了承しながらも息苦しさは感じてしまう。しかしそれがアークレインの婚約者になるということだ。受け入れるしかない。


 一番最後に案内されたのはアークレインの執務室だった。


「私は外に出る公務の時以外は基本的にこの部屋で過ごしている。その時はエステル、君にはこちらの部屋に詰めていて貰いたい」


 そう言われて通されたのは執務室の続き間だった。その部屋には仮眠する為なのか、ベッドとソファ、そして大量の本が納められた書棚があった。


「私の執務中はここで講義を受けてもらう。ある程度こちらに慣れてきたら、簡単な執務を手伝ってもらおうかなと思ってる」

「こき使うおつもりですか?」

「いずれ君は私の妃としてこの宮を管理する立場になるからね。その予行演習だよ。あまり負担にならないよう配慮はする」

「……わかりました。社交に関してはどうすればいいんでしょうか?」

「最低限で構わないよ。公式に婚約者と発表されたから、今頃大量の招待状が届いていると思うけど、こちらで分別して応じた方がいいものについては後で私から伝えるよ。君は言わば灰かぶり姫シンデレラだからね。今世間の注目を一番集めているのは間違いなく君だ」


 アークレインの言葉にエステルは改めてうんざりした。


「君にここで過ごしてもらう理由は、異能で警報装置としての役目を果たしてもらうためだ。不審なマナを感じたら、その指輪で教えて欲しい」


 アークレインに渡されたのは、一見すると宝石のように磨きこまれた魔導石が埋め込まれたシンプルな指輪だった。


「その指輪は私のカフスと対になっている」


 そう言ってアークレインは自分の袖口のカフスを示した。


「君が指輪にマナを流せばわずかに振動して私に伝わるようになっているから、何かあればすぐに知らせるんだ。一応君の中指に合わせたサイズにしてあるから付けてみてほしい」

「わかりました」


 エステルは頷くと、魔導具の指輪を受け取り、左手の中指にはめた。シンプルなので薬指の婚約指輪を邪魔しないデザインになっている。


「サイズは良さそうだね。試しにテストしてみようか。マナを流してみて」


 エステルは指輪にマナを流した。すると、アークレインのカフスボタンがかすかに振動した。よく見ないと気付かない程度の微振動である。


「良さそうだ。じゃあ次に行こうか。今度は庭を案内するよ」


 アークレインは微笑み、エステルを庭の散策へと誘った。




   ◆ ◆ ◆




 夜はまたアークレインと共に眠る事になった。

 アークレインがエステルを溺愛しているという設定をより効果的に周りに知らしめる為である。

 エステルに狂っていると思わせておけば、誰にも疑われる事なく警報機を側に置けるという作戦だ。


(心臓が持たないわ……)


 メイとリア、二人がかりで磨きこまれたエステルは、げっそりとしながら共通の寝室へと向かった。


 今日も寝室に入るのはアークレインの方が早かった。ソファに座り読書していたようだ。


「今日もしっかり侍女に色々されたみたいだね。顔が疲れてる。座りなよ」


「はい、殿下。失礼します」


 勧められるままにアークレインの向かい側に腰をおろすと、アークレインは読みかけの本をテーブルに置いた。タイトルを見ると、意外にも大衆向けの冒険小説を読んでいたようだ。


「そういう本もお読みになるんですね」

「寝る前は何も考えなくても読める本がいいから。それよりもその殿下って呼ぶのはそろそろやめて欲しい」

「では何とお呼びすれば……」

「アークでいいよ。婚約者なんだから」


 そう言われても、王族を名前だけで呼ぶのは抵抗がある。


「エステル、アークって呼んで」

「…………」

「アーク」


 アークレインはしつこい。呼ぶまで許さないという気配を感じる。エステルは仕方なく口を開いた。


「アーク様」

「……今日の所はそれで許してあげるよ」


 渋々そう呼ぶとようやく納得したようだ。面倒臭い王子様である。


「ここでの暮らしはどう? やっていけそう?」

「やっていけるかどうかではなく、慣れなければいけないと思います」

「優等生の回答だね」


 アークレインは苦笑いした。マナを見る限り不快には思われていないようだ。


「話題を変えようか。エステル、突然だけど君、刺繍は得意?」


 本当に唐突な質問だ。意図がわからずエステルは首を傾げた。


「人並みには出来ると思いますが、どうしてそんな事をお聞きになるんですか?」


 針仕事は女性にとっては貴賤問わず重要な役割だ。

 庶民の場合は生計を立てる手段になるし、上流階級の女性にとっても、夫の持ち物に家紋の刺繍を入れるのは妻の重要な仕事とされているためだ。

 特に淑女にとっては刺繍の出来が悪いと夫に恥をかかせる事になる。だから皆必死に子供の頃から針を持ち必死に学ぶ。


 アークレインはテーブルの上に置かれていたロイヤルブルーの布を手に取ると、エステルの目の前で広げた。


「この生地に刺繍を入れて欲しいんだ。実は三月に狩猟大会があってね」


 アークレインの発言でピンと来た。


「マントですか?」


 狩猟大会とは、軍事訓練を兼ねた大々的な社交イベントである。首都郊外の王室が所有する森で行なわれ、誰がどれだけ沢山の獣を狩ったかを競い合う。


 狩猟大会に参加する男性は、近しい女性が家紋の刺繍を入れたマントを毎回新調して身に纏うという慣わしがあった。これは、戦場に赴く家族の安全を祈願したのが始まりと言われている。

 マントを準備し刺繍を入れるのは、配偶者や婚約者が一般的だ。どちらもいない場合は、家族や親戚の女性が代わりに準備をする。


 フローゼス伯爵家の場合は竜伐の時期と被るため、狩猟大会に参加することはまずない。しかし竜伐の為に山に入る男性に狩猟大会同様マントを贈る風習があって、シリウスのマントを用意するのはエステルと叔母の仕事だった。


「うん。仕立ての時間も考えると、出来れば一ヶ月以内に仕上げてもらいたいんだけど……」


 エステルはアークレインから生地を受け取った。かなり厚手のウール生地だ。生地をよく見ると、刺繍の為の図案が既に書かれていた。


「この図案の位置に入れればいいんですね?」

「うん。出来そうかな? 時間が厳しそうなら教育の時間を削るから」


 刺繍は利き腕の逆側に手の平サイズのものを入れると決まっている。だが、図案が二つ書かれていたのでエステルは顔を顰めた。普通の貴族なら家紋のみで済むのに、アークレインは王族だから、王家の紋章とアークレイン個人の印章の二つを刺繍しなければいけないのだ。しかも王家の紋章もアークレインの印章も複雑なので、見るからに面倒臭い。


(分厚い生地に刺繍をするのは大変なのに)


 エステルは頭を押さえつつも、嫌いな授業をサボるいい口実が出来たと悪い事を考えた。


「とりあえず一日三、四時間程度の作業時間を頂けますか? 間に合わなさそうならまたご相談します」

「わかった。スケジュールを調整する」


 エステルは生地に視線を落とした。シリウスのものを準備した時と違ってうんざりするのは、アークレインに対する気持ちがないからだろう。そう分析すると、エステルは図案を指先でそっとなぞった。

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