二人きりの夜 02

イドの照明を消し、ベッドの天蓋についたカーテンを閉じてしまうと、あたりには暗闇が訪れる。


 ほどなくして隣から聞こえてきたエステルの寝息にアークレインは思わず吹き出した。

 何かされるのではないかと警戒していたくせに、こうもあっさりと眠ってしまうとは。それだけ今日のパーティーは彼女を疲れさせるものだったという事か。


 アークレインは夜目が利く方だ。音を立てないように気を付けながら隣を覗き込むと、眠り込んだエステルの顔があった。


 我慢強く静かなエステルをアークレインはかなり気に入っていた。望んでもいないのに宮殿こんな所まで連れてこられて、思う所がきっとあるだろうに。


 彼女が望んでいるのは王子妃ではなく、もっと平凡な幸せだという事はわかっている。全てを呑み込み、アークレインの求婚を受け入れたのは不敬罪を畏れてだろう。そんな彼女を強引に引き込んだ事に対して少しだけ罪悪感が湧く。


 しかし反省はしない。アークレインも生き残るために必死なのだ。使えるものは何でも使う。そうしなければこの魔窟では生きていけない。彼女には申し訳ないが、使える駒をむざむざ逃す訳にはいかなかった。


 アークレインも男だ、女の体が近くにあると欲が刺激される。

 情事があったように装う為だなんて言い訳だ。単に触れてみたかったから口付けの痕を残した。

 更に先に進みたいという欲を理性で押しとどめたのは、さすがに可哀想だと思ったからだ。


 手を出すのは何時でもできる。ならばせめてもう少し、心の距離が近付くまでは待ってやってもいい。


 アークレインは眠るエステルの頬にそっと触れてみた。


「うぅん……」


 エステルは眉を寄せると鬱陶しそうにその手を振り払い、寝返りを打った。

 起こしてしまっただろうか。

 こちらを向いたエステルの顔をアークレインはじっと観察する。


 しかし心配は杞憂だった。すぐにエステルは規則正しい寝息を立て始める。アークレインは口元に笑みを浮かべると、頬にそっと口付けた。


 彼女の肌からは甘い香りがした。




   ◆ ◆ ◆




 寒い。

 朝方になって暖炉の熾火が燃え尽きて消えたのだろうか。


 エステルはもぞもぞと動くと温もりを求めて布団の中に頭まで潜った。

 すると、至近距離に温かい何かがあった。湯たんぽにしては大きいがものすごく温かい。エステルはそれにギュッと抱き着いた。


 何だろう。これ。昔飼っていた猟犬を思い出した。


「カイ……」


 帰ってきてくれたの?

 随分前に寿命で天に召されたはずだけど……

 それにこの温かいものはいい匂いだ。日向に干した毛布の匂いがしたカイとは違う。柑橘系の爽やかだけど少しほろ苦い……


「他の男の名前を呼ばれると複雑な気分になるね」


 温かいものに話しかけられて、エステルはギョッと目を見開いた。

 至近距離に精巧に整った金髪の青年の顔がある。


「でんか……?」


 アークレインを認識し、エステルはぴしりと固まった。

 どうしてアークレインが目の前に居るのだろう。

 記憶を探ったエステルは、昨日から天秤宮へ移ってきた事を思い出した。


「情熱的に抱きついて来られて、つい手を出しそうになったけど、気が削がれたよ」


 アークレインの言葉に、エステルはアークレインの胴体にしがみついている事に気付いてさあっと青ざめた。慌てて身を離そうとするが、逆にぐっと抱き込まれる。


「やだ、離してください!」


 逞しい筋肉の感触とベルガモットの香りにエステルは混乱した。

 お互いの肌を隔てるものは薄いナイトウェア一枚という事に頭がくらくらする。


「ねえ、カイって誰? ライル・ウィンティア以外にも男がいたの? 教えてくれたら離すかどうか考えてあげる」

「カイは昔飼っていた犬です! ふさふさのフローゼス犬で、寒い時期は一緒に寝ていました!」


 慌てて弁解すると、ぷっと吹き出す声が耳元で聞こえてきた。


「そんな事だろうと思った。一応君の素行はしっかり調査したからね。男の影がない事は知ってたよ」


(この人は……!)


 最低。馬鹿。

 エステルは心の中で罵倒した。口には出せない。不敬罪になってしまう。


「教えたので離して下さい」

「寒いから駄目。他人と寝るのは初めてだけど寒い時期にはなかなかいいね。温かい」


 エステルは藻掻くが逃げられない。男女の力の差を思い知らされただけだった。こうなったら仕方ない。エステルは早々に諦めると暴れるのをやめた。


「おや? この状況を受け入れるの?」

「無駄な事はしない主義なだけです」


 エステルは虚ろな眼差しでそう返した。


 ベッドを覆うカーテン越しに日差しが差し込んでいるところを見るともう朝なのだろう。

 宮殿に暖炉は存在しない。遥かに高価な魔導式の空調設備が備え付けられている。肌寒いのは恐らく空調のマナが切れたせいだ。人肌の温もりが心地よくて、エステルは目を閉じてアークレインに身を委ねた。


 ここにいるのは王子様ではなくて兄だ。そう思い込む事にする。子供の頃はシリウスとカイと、二人と一匹でよく一緒に眠ったものだ。


 そんな事を考えているうちに再び眠くなってきた。エステルは現実から逃げたくて睡魔に素直に身を委ねた。




   ◆ ◆ ◆




 エステルが次に目を覚ましたのは、隣の温もりが逃げて行ったからだった。


「ん……」

「起きた?」


 誰かに声を掛けられ、パチリと目を開けると、半身を起こしたアークレインと目が合った。


「??!」


 抱き締められて二度寝してしまったのだ。状況を把握したエステルが目を白黒させると、アークレインは吹き出した。


 至近距離に顔が近付いてきたかと思ったら、頬に口付けられ、エステルはビクリと身を震わせる。


「婚約者がいた割に免疫がないんだね。ライル・ウィンティアとはこういう事はしなかったの?」

「し、しません! 手を繋ぐくらいはありましたけど……真面目な人でしたから」

「へえ……ライルが真面目野郎で良かったよ。自分のものには手垢が付いていないに越したことはないからね」


 アークレインは目を細めて笑った。どこか人を馬鹿にした笑いだ。


「何にしても私とのスキンシップには少しずつ慣れてもらわないと困る。昨日は許してあげたけど、いずれ私は君を抱くよ」

「で、殿下に必要なのは私の異能ですよね……そういう事も私とされるおつもりですか?」


 尋ねる声は我ながら震えていた。アークレインの手がエステルの頬に触れる。


「……いずれはね。でも、君の心の準備ができるまで、もう少しくらいは待ってあげる」


「わ、私としては白い結婚でも全く問題はないのですが」


「それはさすがに困るかな。君の期待に沿えなくて申し訳ないけどね」


 アークレインはにこやかに微笑んだ。


「私は面倒な事は嫌いなんだ。男だからそういう欲は湧くけど、欲の発散を外でするのは非効率極まりないからね。合法的に抱ける君という存在に、手を出さないというのは個人的にはありえない。一人の女性を溺愛する方が周囲の心証もいいしね」


 この人には人の心があるのだろうか? 思わず疑ってしまいたくなる言い草だった。


「私はもう起きるけどエステルはどうする?」

「起きます。十分に休みましたから」

「なら食事はこちらに運ばせよう。今日の君は私に愛されて足腰立たない設定だから午前中はゆっくり休むといい」

「なっ」


 エステルはかあっと頬を染めた。情事を示唆する言葉を言われる度に反応してしまう自分が恨めしい。

 貴族の夫人は朝食を寝室で摂る事が許されているけれど、それはこういう意味だったのだ。


「メイにだけは君と私の間に何もなかったことを伝えておくけど、他の人の前では振る舞いに気を付けて欲しい。何か不自然な行動を取ったとしてもメイがフォローに入ると思うけど」

「リアには伝えていないんですか?」

「リアは君の為にここに迎えたけど、まだ完全に私が信用できていないから。ごめんね、君の信頼する侍女なのに」

「いいえ、殿下にとってはまだ付き合いが浅いのでそれは仕方のないことかと思います」


 エステルの回答は正解だったようだ。アークレインは満足気に目を細めた。


「午後からはこの天秤宮の中を案内するよ。昨日はそれどころじゃなかったから」


 アークレインはエステルの頭をくしゃりと撫でると、共通の寝室から自分の部屋の方へと出て行った。

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