二人きりの夜 01
(疲れた……)
晩餐が無事終わり、ようやく天秤宮の自室に帰りついたエステルはぐったりとソファに倒れ込んだ。
アークレインにエスコートされて会場に入った瞬間の貴族達の刺すような視線と昏く変化したマナは夢に見そうなくらい恐ろしかった。
おかげで晩餐で出た食事はほとんど喉を通らなかった。折角王宮料理人が腕によりをかけて作ってくれた食事なのに、挨拶回りと緊張で食べる余裕なんて無かったのだ。
晩餐の間、エステルの傍には常に王族の誰かがいたので、面と向かって何かを言う人はいなかったが、マナとともに感情の正負を感知してしまうエステルには、精神的拷問を受けているのに等しい。
「エステル様、そのまま寝ちゃ駄目です! お風呂に入りましょう!」
ソファに座ってうとうとしかけたら、リアに叩き起された。
妃の為に作られた部屋だけあって、続き部屋にはエステル個人の為のバスルームがあった。ヘレディア大陸の北部から取り寄せたサウナの設備も付いているという充実ぶりである。
パーティーには宮殿をよく知っているメイが護衛を兼ねてエステルに付いたので、リアは部屋に残り、入浴やナイトウェアの準備など、エステルが眠りにつくための準備をしてくれていた。
酷く疲れていたので、シャワーで身を清めてバスタブに軽く浸かるだけにする。
お湯には薔薇の花びらが散らされていて、優雅な気分になった。
リアに手伝ってもらい入浴を終えたエステルは、着替えとして渡されたナイトウェアにギョッと目を見開く。
純白のナイトウェアは胸元がかなり開いていて、夜の生活を連想させるものだったからだ。
「待って、リア。今日ってこちら側の寝室で眠っていいのよね……?」
「いいえ、殿下からは共用の寝室に来るようにとの指示を頂いております」
「ええっ!? まだ正式に結婚した訳じゃなくて婚約段階よ?」
エステルはさあっと青ざめた。
結婚式は今年の秋に行う予定で現在日程を調整中である。
(子供が出来ることはしないって言ったのに)
「嫌よ! 私、こっちで寝るから!」
こんないやらしいナイトウェアを着て二人きりになるなんて恥ずかし過ぎる。
「駄目です! 私とメイさんの為にも夫婦の寝室に行ってください」
「何でそこでリアとメイが出てくるの!?」
「殿下の言いつけに背いたら罰があるかもしれません」
リアはがしっと腕を掴み、必死に訴えてくる。
(そんな事で罰を与える暴君じゃない……とは言いきれないわね)
時折アークレインが浮かべる獰猛な顔が脳裏をよぎり、エステルは肩を落とした。
◆ ◆ ◆
さすがに肌寒いのでナイトウェアの上にはがっちりと上着を着込み、共通の寝室に向かうと既に中にはアークレインの姿があった。
アークレインはソファに腰掛け、軽食を摘んでいる。
「やっと来た。エステルも食べる? パーティーでは全然食べてなかったよね?」
テーブルの上にはサンドウィッチやカットフルーツなど、簡単に食べられるものが準備されていた。
「少しだけ頂きます」
小声で返事をし、アークレインから距離を取って腰掛けると笑われた。
「そんなに警戒しなくてもエステルが望まないなら何もしないよ。嫌がる女の子に無理強いするほど落ちぶれていない」
「ならどうしてここに呼んだんですか」
「私は君に溺れているという設定になってるから。折角同じ屋根の下で暮らせるようになった婚約者に何もしないなんて、私に何か問題があるのではと思われる。一昔前ならいざ知らず、今は妃の処女性なんて求められてはいないからね」
アークレインの言葉にエステルは硬直した。
「一応聞くけど、エステル、私と本当に肌を合わせるのと、汚れたシーツで眠るのとならどっちがいい?」
「ご質問の意味がわかりません」
「下女が掃除に入った時に痕跡がなかったら怪しまれる。それなりの工作をしておかないとね」
なるほど。
エステルは納得すると同時に何故無意味な質問をするんだろうと思った。答えは決まりきっている。
「汚れたシーツでお願いします」
「そうきっぱり言われると傷付くなぁ」
口ではそう言うものの楽しげな様子でアークレインは席を立ち、テーブル脇のワゴンへと移動した。ワゴンにはティーセットと魔導ポットが置かれている。どうやらお茶を淹れるつもりのようだ。
「お茶なら私が」
「疲れてるだろうからエステルは座っていていいよ」
アークレインはエステルを制すと、慣れた手付きでお茶の準備を始めた。すぐに紅茶のいい香りが漂ってくる。この香りはアップル系のフレーバーティーだろうか。
「ご自分でよく淹れられるんですか?」
「うん。執務中に人に出入りされるのは好きじゃなくてね」
アークレインが淹れてくれたお茶は普通に美味しくて、お腹の中から体が温まった。サンドウィッチも普通に美味しい。パーティーの食事は味わう余裕なんてなかったので、久し振りに味のするものを食べた気がする。
「美味しい?」
「はい」
「それは良かった」
アークレインはにっこりと微笑んだ。
「殿下、兄に良くしてくださってありがとうございます」
晩餐の前にこちらに招いてくれた事もだが、晩餐中もアークレインはシリウスの元に行き、婚約者の兄として色々と気遣ってくれたのだ。
「未来の義兄になる人だからね。それにシリウスは気性が真っ直ぐだから付き合いやすい」
アークレインは微笑みながらティーカップを傾けた。単純馬鹿で扱いやすいと言われているような気がするのは穿ちすぎだろうか。
「あの……リーディス殿下とはお会いしないままこちらに移ることになりましたが良かったのでしょうか?」
リーディスの顔は新聞記事や絵姿などで知っているが、まだ成人前で社交の場には出てこない。結局直接会わないまま宮殿に来てしまった。
「いいんじゃないかな。私とリーディスは仲が良いとは言えなくてね。会うと向こうが突っかかってくるから面倒なんだ」
アークレインはため息をついた。兄弟仲は噂通り悪いようだ。
「君も気を付けた方がいい。リーディスは甘やかされて育ったせいで、自己中心的で我儘な子供なんだ。もし私がいない時に何か言われたら怒らせないようにする事だけ考えて欲しい。あいつはかなり強い念動力者だから、下手に逆上させたら怪我をさせられるかもしれない」
「……気を付けます」
なかなかの危険人物のようである。
「ところで今日参加した貴族達のマナはどうだった?」
アークレインはこれ以上リーディスの話をしたくないのか話題を変えてきた。
「ほとんどの人が陰っていました。……あ、でもマールヴィック公爵は喜んでいらっしゃいましたね」
エステルは皺くちゃのマールヴィック老公爵の顔を思い出した。今のマールヴィック公爵は、トルテリーゼ王妃の父親である。
「あの老害野郎は喜んでたの?」
「はい」
「王妃はどうだった?」
エステルはトルテリーゼ王妃の赤薔薇のような威厳ある姿を思い出した。彼女はこの婚約をにこやかに祝福していたが、前回のティーパーティーの時と同じで、エステルを視界に入れる度にマナを陰らせていた。
「王妃陛下はやっぱり私の事がお気に召さないようでした。不思議ですよね。私、王妃陛下に対して何か仕出かしたんでしょうか?」
「分からないな……調査はさせているけど今のところ何も出てきてないんだ」
アークレインは顎に手を当ててうーんと考え込んだ。
お腹が満たされると眠くなってきた。ふわあと欠伸をすると、アークレインが手を差し伸べてくる。
「疲れてるんだね。もう休もうか」
「もしかして同じベッドで眠らなきゃいけませんか……?」
「そうじゃないと怪しまれるよ。それにソファじゃよく眠れないからね」
夫婦の為のベッドだけあってここのベッドはもの凄く広い。一緒に眠るといっても端と端で眠れば体が触れ合う事はないだろう。エステルはため息をつくと妥協する事にした。
エステルがベッドに移動すると、アークレインの念動力によってベッドサイドの魔導ランプだけを残して部屋の照明が落とされた。わざわざスイッチがある場所に移動しなくていいのは少し羨ましい。
そしてアークレインは上に着込んだ上着を脱いでこちらにやってくる。ナイトウェア姿になったアークレインの胸元からは、普段は衣服によって隠されている鎖骨と鍛えられた筋肉がちらりと覗いていて、エステルは思わず目をそらした。
「もう少し真ん中で寝たほうがいい。落ちるよ」
「落ちません! 寝相はいい方なんです」
くすりとアークレインが笑う気配がした。
「さて、寝る前に工作だけはしないとね」
そう言うと、アークレインは枕の下から短剣を取り出した。
「何でそんなものがそこにあるんですか」
「暗殺対策。ああ、でもこれで寝首を掻こうなんて考えないでね。相当なマナを込めないと私は傷付かないし、隣でそんな動きをしたらさすがに気付くから」
どうやら短剣はマナブレードらしい。柄に魔導石が埋め込まれていて、マナを流す事で切れ味が上がるという代物だ。
アークレインは短剣にマナを流すと左の手の平を切り裂いた。エステルはぎょっと目を見開く。
「ちょっと斬り過ぎたかな? 結構痛い」
「手当てを……」
「いらない。すぐ塞がる」
アークレインはポタポタとシーツに血を落とすと、ベッドサイドに置かれていた小箱を開けた。中にはウェットタオルが入っていて湯気を立てていた。アークレインはタオルを一枚取り出すと、血で汚れた手の平をぬぐう。すぐ塞がると言っていた言葉の通り、既に傷口は跡形も無く消えていた。
(これが王族の自己回復力)
マナが見えるエステルにはわかる。アークレインもサーシェス王も非常にマナの量が多い。
一般的な平民は心臓の辺りに握りこぶし大のマナが銀色の光として見える程度だが、アークレインの場合は体全体を覆い尽くすくらいに多い。貴族や竜伐銃の使い手でも胴体を覆う程度なので、王族のマナは一段階違う。
噂には聞いていたけれど、実際にその回復力を目の当たりにすると複雑な気持ちになった。
(私が庇う必要なんて本当に無かったのね)
心の中がもやもやする。エステルは傷痕が残った左腕を、そっと服の上から押さえた。
「エステル、その分厚い上着は脱いだ方がいいと思うよ。いくら冬でもこの部屋は暖かいし、布団を被ったら確実に寝汗をかく」
「ぬ、脱げません! ナイトウェアに少し問題があって……」
アークレインに声をかけられ、エステルはぎゅっと自分の体を抱き込んだ。
「ああ、初夜用のものを着せられた? なら向こうを向いているから、上着を脱いだらすぐに布団で隠せばいい」
寝汗をかくというアークレインの言う事はもっともだ。エステルはアークレインが後ろを向くのを確認すると、するりと上着を脱ぎ、ふかふかの羽毛布団の中に潜り込んだ。
その直後だった。
こちらを振り向いたアークレインが、布団を勢いよく剥ぎ取った。
「なっ!」
「へえ……」
「何をなさるんですか!」
「隠されると暴きたくなるよね」
アークレインの眼差しは、大きく開いた胸元に注がれている。
エステルは頬を染めると、アークレインを押し退けてその場から逃げ出そうとした。しかしそれは叶わず、覆い被さってきたアークレインによってベットのシーツに縫い止められる。
「で、殿下、離して……」
「駄目」
囁きと共に秀麗な顔が至近距離に近付いてくる。
ふわりと鼻腔をベルガモットの香りが掠めた。
振り解きたいのに力の差があり過ぎてビクともしない。
恐怖に顔を思い切り背けると首筋に何か濡れたものが触れた。
「っ……!」
唇だ。首筋に口付けられている。エステルの肌が粟立った。
「やっ、何するんですか!」
「何って、工作」
「え……?」
アークレインはエステルの首筋から唇を離すと、楽しげに微笑んだ。そして次は胸元に顔を埋めてくる。
「一応情事があったらしい痕跡を残しておかないと」
言われて胸元を見ると、鬱血して赤くなっていた。
悪戯っぽく笑ったアークレインはエステルから身を離すと、布団を元に戻して自身もその隣に滑り込んできた。
「この先もお望みとあらばするけど?」
「け、結構です!」
エステルはかあっと頬を染めると、アークレインに背を向けた。クスクスと笑い声が聞こえてくる。マナも輝き実に楽しそうだ。
弄ばれている。
腹が立つと同時にものすごく恥ずかしかった。
心臓のドキドキが治まらない。
エステルはこっそりと指先を胸元にやり、アークレインの唇の痕に触れた。
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