ロージェル侯爵邸 01

 舞踏会での襲撃事件から一週間が経過したが、エステルの姿はいまだにロージェル侯爵家の邸にあった。

 左腕の傷口はほぼ塞がった。治りが早いのは貴族が持つ自然治癒力によるものだ。

 残念ながら医師の見立てどおり、傷痕が残りそうな治り方をしている。銃弾で肉をごっそりと抉られたため、傷が塞がってもぼこぼこと醜い盛り上がり方をしていた。


 怪我が治ってもエステルがまだロージェル侯爵家に滞在しているのは、アークレインからの求婚が原因だった。


 《覚醒者》である事を明かし、アークレインから婚約を迫られた後――


 エステルが意識を取り戻したと聞きつけ、様子を見にきたシリウスに、アークレインはエステルとの婚約を正式に申し入れた。


 この国は男尊女卑である。女は大学には入れないし、爵位や財産も国からの特別な許可がなければ継承できない。結婚にしても同じで、誰に嫁がせるかの決定権を握っているのは家長である。エステルの場合はシリウスだ。


 シリウスは簡単に婚約の許可を出してしまった。異能の秘密を盾に取られたエステルがアークレインに見初められて喜ぶ演技をした事もあるが、彼が婚約の許可を取る為に捏造したもっともらしい口上をあっさりと信じてしまったのだ。


(いや、あの場合アークレイン殿下の腹黒さの方が問題だったかも……)


 エステルはその時の事を思い出し、頭痛を覚えて頭を押さえた。


 アークレインは口がうまい上に腹黒だ。シリウスの中でのアークレインは、エステルに一目惚れしたロマンチストの王子様ということになっている。




 ――身を挺して暗殺者の凶弾から庇ってくれたエステル嬢は聖女だ。

 ――その後の謙虚な姿勢にも心うたれた。こんなに可憐で心根の美しい女性は他にいない。

 ――エステル嬢の体には私のせいで消えない傷痕が残ってしまった。でもその事を喜んでいる自分がいるんだ。責任を取るという名目で自分のものにできるのではと考えてしまう。シリウス殿、そんな醜い私を許して欲しい。

 ――エステル嬢は私の運命だ。ウィンティア伯爵家との婚約が破談になったのも私と出会うためだったに違いない。



 もの凄く真剣な表情で言葉を紡ぐアークレインは、エステルには熟練の詐欺師にしか見えなかった。


 しかし第一王子との婚約だ。正式な決定には身上調査が入り、更に国王と議会の承認がいる。現在エステルはロージェル侯爵家に滞在しながら手続きが終わるのを待っている所だった。


 フローゼス伯爵家のタウンハウスに戻らずそのままロージェル侯爵邸に滞在しているのは、アークレインから求婚された事でエステルに警護が必要になったためだった。

 一軒家という規模に過ぎないフローゼス伯爵家のタウンハウスでは、防犯上の不安があるとアークレインから説得され、そのままロージェル侯爵家で過ごす事になったのである。エステルを押し付けられたクラウスは、ぶつぶつと文句を言っていた。


 また、エステルには射撃の心得があったので、念の為に護身用の銃も携帯する事になった。今もドレスのスカートの下に小型の魔導銃を忍ばせている。


(危険なだけじゃなくて勉強までやらされる羽目になるなんて)


 エステルはとんでもない人物に目を付けられたことにため息をついた。


 腕がだいぶ良くなったと同時に、エステルには家庭教師が付けられた。

 語学、宮中祭祀、ローザリアと近隣諸国の地理歴史、礼儀作法の見直しなど未来の王子妃として身に付けるべき知識や教養は山のようにあり、この勉強もまたエステルにとってはストレスの原因になっていた。




(えっと……ここはロージェル侯爵領で、主要産業は農業。生産物は小麦がメイン。その隣はマールヴィック公爵領で……)


 邸の図書室で地理の課題に取り組んでいたエステルは、頭痛を感じて頭を抑えた。


 学生時代から地理は苦手だった。

 領地のある大ローザリア島の北部の産業ならなんとなくわかるのだが、馴染みのない地域の事になるとさっぱりだ。興味もないからなかなか覚えられなくて、地理の講義は天敵だった。


 女学校を卒業してやっと解放されたと思ってたのに。

 王子妃になるなら国中の貴族や領地の知識は必須だ。貴族の顔や名前と一致させて覚えなければ、妃として社交界で困る。

 他にも宮中祭祀やら語学のレベルアップ、近隣諸国のより深いレベルでの地理歴史の知識など、身につけるべき知識や教養は山のようにあった。


 教本テキストと照らし合わせ、うんうんと唸りながら課題の白地図に領主の名前と主要産業を埋める作業をしていると、机の上に人の頭の形の影が差した。

 驚いて顔を上げると、そこにはエステルをこんな状況に追い込んだ張本人であるアークレインが立っていた。


「アークレイン殿下」

「こんにちは、エステル。様子を見に来たよ」

「ノックもなしに入ってこられるなんて……」

「ノックならしたよ。集中し過ぎて気付かなかったんじゃないかな?」

「……公務はどうされたんですか」

「今日は早く終わったんだ」


 むっつりとした顔で尋ねるエステルに、アークレインはにこやかに返事をした。

 この十日間、アークレインは『エステルに一目惚れした王子様』を演出するため、二日に一度のペースでロージェル侯爵邸を訪れていた。その度に楽しげにエステルをからかって去っていくのだから性悪である。


 机の上にアークレインの手が伸びてきて、エステルが取り組んでいた課題を奪い取った。


「これは地理? かなり苦戦してるみたいだね」

「……苦手なんです」

「知ってる。君の学生時代の成績を見させてもらったけど、なかなか芸術的な成績だった」

「うそ……ご覧になったんですか?」


 女学校時代のエステルの成績は、いい科目と悪い科目がハッキリと分かれていて、大嫌いだった地理と歴史の成績は壊滅的だった。それをアークレインに見られたかと思うと恥ずかしい。

 睨みつけるとアークレインは楽しげに笑った。マナが明るく輝いているのがまた憎たらしい。


「身上調査の一環でね。フローゼス伯爵家の財政状況から君たち兄妹の学生時代の成績、日常生活などありとあらゆる事が調べられて父上に報告されてるはずだ」


 最悪だ。エステルはその場に突っ伏した。


「地理も歴史も嫌いです。覚えられません。学生時代は丸暗記でどうにか落第だけはしないよう凌いだんですが、卒業した瞬間に全て忘れました」

「丸暗記より地理現象を科学的に理解した方が効率がいいよ」

「科学、ですか……?」


 エステルはアークレインの助言にきょとんと首を傾げた。


「例えばクラレット伯爵領はワイン事業で有名だよね? ワインを造るのに必要な果物は何?」

「葡萄です」

「葡萄の栽培に必要なのは乾燥と日照だ。クラレット伯爵領はほら、ヘレディア大陸から張り出した半島に守られるような地形になってるから、雨が降りにくいんだ。そう考えると白地図のここは埋まるよね?」


 アークレインはトン、と白地図の大陸に接した領地を指で小突いた。


「エステル嬢の領地はエールとソーセージで有名だよね? それは何故?」

「土地が痩せていて寒いから大麦じゃないと栽培できなくて、そもそも作れる作物が限られているから豚の放牧をする農家が多いから、です」


 他所の事は覚えられなくてもフローゼスの事ならばわかる。自信満々に答えると、アークレインは意地悪そうな笑みを浮かべた。


「数ある家畜の中で、牛でも羊でもなく豚なのはどうして?」

「えっ……」


 突っ込んだ質問に、エステルは固まってしまう。

 アークレインは軽く肩を竦めると解説を始めた。


「豚は効率がいいからだよ。すぐに育って早く肉になる。北部に混合農業が行われる地域が多いのも、北の厳しい風土が影響している。混合農業の解説も必要かな?」

「馬鹿になさらないでください。それくらいは分かります」


 混合農業とは、家畜飼育と作物栽培を組み合わせた農業の事だ。痩せた土地で行われる事が多く、食用の作物と飼料作物である牧草を栽培しながら家畜の飼育、販売を目指す農業である。


 フローゼス伯爵領では食用として大麦とじゃがいもを、飼料作物として牧草となるアルファルファや甜菜てんさいなどを育てながら養豚で生計を立てている領民が多い。


「それぞれの地域で発達した産業には、気候や地理条件なんかの科学的な理由が大抵あるんだよ。製鉄所が海沿いに多いのは、製鉄に必要な鉄鉱石と魔導石の輸送が船で行われるからだ。その辺りを理解すると覚えられるんじゃないかな?」

「……はい」


 力なく答えると、ハーフアップにして下ろしていた髪にアークレインの手が伸びた。

 アークレインはエステルの髪を撫でるように梳くと、一房つまみ上げて口付けた。ベルガモットの香りがふわりと鼻腔をくすぐる。


「!?」

「君には申し訳ないけれど頑張って。警報装置として役に立ってもらう分、相応のものはあげるから」


 至近距離で微笑む秀麗な容貌に胸が高鳴った。

 この王子様は性質が悪い。自分の容姿が持つ破壊力を理解してこのような行動に出てくるのだ。


 アークレインとクラウスはエステルの願いを汲んで、今のところ異能の事は秘密にしてくれている。

 エステルが《覚醒者》だと知っているのは、今のところアークレインとクラウス、クラウスの母のシエラ、そして傍仕えの侍女兼護衛としてアークレインの元から派遣されてきたメイという女官の四人だけだ。


 異能を隠す条件は、アークレインの傍に侍り、その異能を彼のために役立てる事だった。

 伯爵令嬢を傍に置く手っ取り早く誰にも怪しまれない手段は結婚である。だからアークレインはエステルに求婚をした。まずは婚約者として。いずれは王子妃に。子供も最低一人は産んで欲しいというのが彼の希望である。しかしそれはエステルの人生を縛る事だ。


 当然エステルは抵抗した。

 そんなエステルに、アークレインは代償として、妃として最大限尊重する事を約束した。そこにはフローゼス伯爵領のために、アークレインが政略的な便宜を図ることも含まれている。

 しかしエステルの感覚としては、アークレインが第二王子派との政争に敗れた場合のリスクを考えると素直に喜べない。




(勘違いしちゃ駄目)


 エステルは、アークレインから目をそらすと自分を戒めた。

 アークレインがエステルを求めるのは、自分に都合のいい異能を持っているから。エステル自身を求めた訳じゃない。


(酷い人)


 彼がエステルに優しくするのは、あわよくばエステルを自分に惚れさせて利用するために決まっている。そんな事わかっているのに、アークレインの行動に一喜一憂して心が動かされる自分に腹が立った。


 いずれ彼と結婚して、夜の生活もすると考えると嫌ではなくて……むしろドキドキする自分がいる。


(馬鹿みたい)


 エステルはアークレインに傾きつつある自分の気持ちを追い出すために軽く頭を振った。

 この王子様は権力と脅迫で強引にエステルを利用しようとしている酷い男なのだ。それを肝に銘じておかなければいけない。

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