第13話 池田屋事件~前編~
私は、廊下で雑巾を絞りながらため息をついた。
これから、池田屋事件を間近で経験することになる。
その実感があまり湧いてこないため、覚悟が決まらない。
まぁ、隊士でない私が池田屋に赴くことはないだろうが、怪我をする藤堂さんや血まみれの新選組の面々を見ることになったら、ただでさえグロ耐性がない私は卒倒するかもしれないし、案外平気かもしれない。
どうなるかはわからないが、楽しみでもあり恐怖でもある。
雑巾を伸ばして廊下に置く。
の上に手を置き、小学生の頃にやった雑巾がけを廊下の端まで一気にする。
雑巾の面を変え、先程通った道の横を通りながら元々いた位置へ駆け戻る。
24歳に雑巾がけは中々にきついものがあった。
「あ~!腰痛い~!」
大きい独り言をこぼしながら、私は腰を左右に捻る。
幕末に来てから数か月、筋トレや稽古のおかげで体力も筋力もほどほどについてきたが、雑巾がけはまた別のしんどさがあった。
「今日も精が出るな」
後ろから声が聞こえ、振り返るとそこには斎藤さんがいた。
「斎藤さん、お疲れ様です!」
「あぁ、久遠もな」
斎藤さんは、新選組の隊服である浅黄色の羽織をはおり、刀を携えていることから巡察の帰りかなにかだろう。
新選組は、古高を見かけたと監察の2人が言っていた日から、目に見えて忙しそうになった。
最近は、鍛錬や稽古も一時中止している。
「あぁ、そうだ。お前に一つ言っておかねばならないことがある」
「え?なんでしょうか?」
斎藤さんから話があるとは珍しいできごとで思わず身構える。
「今夜は忙しくなる。お前も、その心づもりをしておけ」
斎藤さんのその声があまりにも鋭利だったため、私は息を呑む。
おそらく、今夜池田屋事件が起こる。
「……わかりました」
「お前も来い。新選組の一員として、しっかり話を聞いておけ」
「はい!」
私は、雑巾を桶の中に入れ、その桶を中庭に置いて斎藤さんについていく。
こんな緊張感の中、私は斎藤さんの「新選組の一員として」という言葉が妙に嬉しかった。
斎藤さんについていくと、私が普段あまり行かない、隊士たちが大勢いる場所へ来た。
これ以上先へは行くなと言われ、いつもの面々以外と会ったことはあまりない。
一緒に廊下を歩いていると、組長と声を掛けられ挨拶を返す斎藤さんが目の前にいて、改めて斎藤さんが新選組の三番組の組長だということを実感する。
そんな隊士の皆さんが、私を見て誰だ?という顔をしていることに気づいた。
そうだよね、こんな偉い人と一緒に歩いている私が何者か疑問だよね。
私が逆の立場だったらそう思う。そ
の視線を感じてか、斎藤さんが一言発する。
「こいつが何者なのか、後に副長から説明がある」
え?そうなの?の当の本人が一番驚いているが、周りの人たちは副長がそう言うならと先程とは打って変わって私にも挨拶をしてくれるようになったので、私も挨拶を返す。
恐るべき副長パワーである。
廊下を歩いていくと、だだっ広い集会所のような部屋に行きついた。
そこには、ほぼ全部の隊士がいるのではないかというくらい隊服をまとった人がいる。
近藤さんをはじめとするいつもの面々もいて、集まっている隊士たちの前にいた。
「副長、連れてきました」
「おぉ、斎藤ご苦労だった」
「いえ」
私は斎藤さんに土方さんの前まで連れてこられた。
「久遠、時間がない。手短に言う」
「は、はい!」
先程までのんびり雑巾がけをしていた時とは、まるで空気が違った。
どこか張り詰めた空気に私も察した。
「今日、古高が京の町に火を放つ企てをしていると吐いた。よって、俺たちは今から長州が会合をしている四国屋か池田屋に討ち入りに行く。が、あまりにも動ける隊士が少ない。申し訳ないが、お前にも手伝ってもらう」
土方さんの言葉に思わず思考が止まる。私が池田屋事件の手伝い?人を斬るってこと?
「安心しろ。お前に人を殺させはしない。だが、いざというとき自分の身を守れるようにしておけ」
「……はい」
いざというとき……私は、思わず体に力が入る。まさかこんなことになるなんて、微塵も思っていなかった。
「お前には、なにかあったときの伝令役を頼みたい。……できるか?」
土方さんにまっすぐ見つめられる。
それくらいならできるだろうと思う。
私は、今まで掃除と洗濯くらいしかしてこず、新選組のために役に立っているのか、私がこのままここに居ていいのかと思ったことも少なくなかった。
新選組が拾ってくれたおかげで、今私はこの時代で生きていけている。
その事実に偽りはない。
私は、すぅーっと息を吐き、土方さんの目を見つめ返す。
「はい!できます!やらせてください!」
「すまない。助かる」
一瞬、土方さんの眉間から皺がとれるが、またすぐに元に戻る。
「これが池田屋と四国屋までの道だ。覚えておけ」
「はい!」
渡された紙には池田屋四国屋間の地図が書いてあった。
思ったより近い場所にあることに気づく。
いや、寸法がわからないためなんとも言えないが、覚えやすい場所にあるのは確かだ。
現代にいるときは、もう少し遠いものだと思っていたが。
「皆、一度聞いてくれ」
隣にいる土方さんが大きな声を出すので、驚いて私も地図から目を離す。
「紹介する。俺の小姓として新選組に入ることになった、久遠だ」
土方さんはそう言いながら、私の肩に手を置く。
私、いつから土方さんの小姓に!?という疑問を抱いたが、土方さんから目で挨拶を促されたので、前を向く。
「あ、初めまして!久遠と申します!よろしくお願いいたします!」
隊士の中から、拍手が上がる。
なんだか、それにより心がとんでもなく暖まった。
「以上だ。各々、討ち入りに備えておけ」
土方さんがそう言うと、隊士の注目は解ける。
「私、いつから土方さんの小姓になったんですか?」
「何を言っている。お前が新選組に来たときからだ」
「え?聞いていませんよ?」
「言っていないからな」
なぜ、言ってくれなかったのかはよくわからないが、多分言うと私の反応が面倒くさいからだろう。ひどいよ。
「そんなことより、場所ちゃんと覚えておけよ」
「はい……」
土方さんは、私が土方さんの小姓になったことに対する反応が面倒にならないように、このタイミングで言ったのだと悟った。
こんなピㇼついた空気の中、さすがの私もオタクを出せない。
土方さんは、あまりにも私を理解しすぎている。
あれから少し時間が経ち、すっかり夕方になった。
だが、新選組は動く気配がない。
土方さんも段々苛立ちをみせてきた。
「会津藩と所司代は、まだ動かないのか?」
土方さんは山南さんに声をかける。
「まだ、なんの報せもありませんね」
「仕方ねぇ。俺たちだけで踏み込もう!」
「いや、でもまだ四国屋と池田屋、どちらが本命か分からないからなぁ」
近藤さんがう~んと唸る。
その言葉に、そうか新選組は本命が池田屋であること知らないのかとはっとした。今、ここで私が池田屋にいると教えることは簡単だ。
でも、そうしてしまうと歴史を変えてしまうことになる。
ただの一般人が歴史を変えるなんて、そんなことしていいのだろうか。
私は彼らとは違う意味で唸った。
「普段から池田屋を頻繁に利用しているようですから、古高が捕縛された重要な日にまで池田屋で会合を開くとは思えません。本命は四国屋とみて動いた方がいいかと」
私は、山南さんのその言葉に思わず振り向く。
池田屋に最初踏み入れた時、人数が少なかったのはこういう理由かと納得してしまった。
それも一理ある。
が、実際問題、本命は池田屋である。
「……久遠くん、なにか?」
山南さんに注目され、思わず冷や汗が伝う。
ここで、私が池田屋と言えば今から一斉に池田屋に乗り込むだろう。
しかし、そうしては歴史が変わってしまう。
だが、みな私が未来から来ていることを知っている。
ここで、話すべきか話さないべきか……。
私は今、冷静に判断することができない。
胸の前で両手を握りしめる。
私は言葉が詰まったため、思いっきり首を横に振る。
それを見た山南さんは、私から視線を逸らした。
「では、池田屋には俺と総司、永倉くんと藤堂くんが行こう。残りはトシが四国屋へ連れて行ってくれ」
「わかった」
近藤さんが近藤隊と土方隊に隊を分けるという作戦を口に出す。
池田屋事件が何故あんな隊分けになったのかが分かり、私は内心ドキドキしていた。
「山南さんは、屯所の警護を頼む。この隙に、攘夷浪士共が攻めてこないとも限らないからな」
「分かりました」
作戦が次々と固まってくる目の前の光景に、少し頭がぼーっとする。
なんだか、夢を見ているようだ。
「久遠は俺と一緒に来い。四国屋に討ち入りが決まったら、池田屋に報せに行ってくれ」
突然、土方さんに話しかけられ、体が少しビクッとする。
そうか、私も行くんだった。
「は、はい!」
土方さんには怪訝な表情を向けられたが、この気持ちは土方さんには分からないだろう。
というか、そもそも討ち入りは四国屋で起こるのだから、私が伝えることはあるのだろうか。
「桜ちゃん、もしかして緊張してる?」
沖田さんがニヤニヤした顔で話しかけてくる。
なんで、そんなに嬉しそうなんだろうか。
「そりゃ、もちろんです!今までぽけーっと過ごしてきたので、まさか私もいけだ………」
池田屋事件に関わることになるとは、と言いかけて黙った。
これを言ってしまえば、彼らにとってネタバレ状態になってしまうからだ。
それは、つまり歴史を変えることと同義だ。
「……討ち入りに参加することになるとは思いませんでしたし」
あははと苦笑いで誤魔化すが、沖田さんは片眉を下げた。
「……それより、僕が教えた護身術、ちゃんと覚えているよね?」
沖田さんが話題を変えたのでそれに乗っかる。
そう、私は素振りの他に護身術も沖田さんに教えて貰っていた。
正直、実戦でそれができるとは到底思えないが、型だけは覚えた。
「はい!バッチリです!」
「そう、なら良かった」
沖田さんなり私のことを心配してくれているんだなと心が暖まる。
なんだかんだ世話焼きなところあるんだから、沖田さんは。
「そろそろ外に移動しようか」
近藤さんが土方さんにそう言うと、土方さんは頷く。
隊長たちが部屋を出て草履を履き始めたので、私も草履を履いて外へ出る。
しばらくして、隊士たちが一通り中庭に集まった。
「お前ら、準備できてるか!?」
土方さんがその場にいる全員に聞こえるように叫ぶ。
その声に、一瞬にして場が引き締まった。
「一番組、二番組、六番組は近藤さんと池田屋へ、それ以外は俺についてこい!」
「おおおおおっ!!!」
それぞれの組長が近藤さんと土方さんの前に集まり、各々の組に属する隊士たちはその後ろについた。
私はどうしたらいいか分からず、とりあえず土方さんの隣にいる。
土方さんは、少し声を細め私に問いかける。
「久遠、お前走れるか?」
「え?あ、は……走れます!」
正直に言うと走るのは死ぬほど苦手だが、ここで走れないとは言えない空気に押され、走れると言ってしまった。
「久遠は俺についてこい」
「はい!」
一旦、頭を空っぽにして土方さんに着いていくことだけを考えることにした。
「行くぞ!!!」
土方さんが走り始めたのをきっかけに、池田屋と四国屋に向かう隊士たちが一斉に走り始める。
私もそれに負けじとついていく。
この前川邸から、四国屋、池田屋までどれくらいの距離があるのだろうか。
私は、少しだけ嫌な予感がした。
走り始めて10秒も立たないうちに、土方さんの走るスピード速すぎることに気づく。
待て待て待て、私は50m走10秒台の女だぞ、みんな絶対6秒とかでしょ、ついていけるわけなくない!?
しかも、絶対に四国屋はここから50mよりは遠くにあるはずだ。
そうなると、持久走になる。
前述した通り、私は持久走をサボりにサボっていたため、走り慣れていない上に多分遅い。
もう走るのが嫌になってきた。
「ひ、土方さん、これ、どれくらい走るんですか……!?」
「大体30町だ」
……いや、30町って何!?
距離の単位なんて1里という呼び方があることくらいの知識しかない。
ちなみに、その1里も何mかわかっていない。
「じ、時間に換算するとどれくらいですか?」
「四半刻くらいだな」
「…………」
これまでの生活でわからないことをスルーしてきたのが裏目に出た。
丑の刻みたいな時間を表現する言葉はなんとなくわかっているが、時間の長さを表す言葉を知らない。
一刻って何分間だ?
一刻というくらいだから、1時間くらいだろうか。
……わからないが、そういうことにしておこう。
一刻が1時間だとして、その4等分だと考えたら約15分くらいか。
それくらいなら、まだギリギリなんとかなりそうだ。
※一刻は約2時間のため、四半刻は約30分です。
「……なるほどっ!じゃあ、ギリギリなんとかなりそうです!」※なりません。
私が盛大な勘違いをしていたことに気づいたのは、それから約20分後のことだった。
まったく四国屋に着く気配がなく、私の心身は限界を迎えていた。
「ひ、ひじかった、さんっ……ガチ無理、もう走れない……」
前を走っている土方さんがこちらを振り返り、ため息をつく。
ごめんなさい。でも、この時代の日本人歩きすぎなのですよ。
「……仕方ねぇ」
と土方さんがボソリと呟く。
「斎藤!先に四国屋まで行ってくれ!」
「承知しました」
私たちの後ろを走っていた斎藤さんが前に踊りでると、土方さんがスピードを緩めたので私も地面に落ちる。
その横を隊士たちが通り過ぎる。
「おい、桜大丈夫か?」
気づくと横に原田さんもいた。
「あぁ、大丈夫だ。すぐ追いつく」
肩で息をしている私の代わりに土方さんが答える。すぐは無理です。
「がんばれよ」
原田さんの爽やかな笑顔に心は癒されたが、体が追いつかない。
こんなに走ったのは学生の時以来だ。
「ほら、これ飲め」
土方さんから竹でできた何かが渡される。
その中身をよく見てみると水が入っていた。
「あ、ありがとうございます!」
私は遠慮もなしに水を一気飲みする。
水がなければ、体力的にも正直しんどかった。
「生き返る〜!」
久しぶりに走ったので汗がとまらなく、このままだと脱水になりそうだったので大変ありがたかった。
この時代のこの時期の夜はめちゃくちゃ涼しいのだが、だからといって汗はかかないわけではない。
「……走れるか?」
正直、まだ心臓はバクバクだし、足は疲れきっているが、副長である土方さんをこのままここに留めておく訳にはいかない。
「……走ります!」
「わかった」
土方さんも私の気持ちを汲んでくれたようだ。
私は意を決して立ち上がり、土方さんに水筒を返す。
土方さんが水筒をぶら下げだところで、お互い目で合図をする。
「行くぞ」
「はい!」
そこからは、頭で何も考えずただひたすら土方さんの後ろをついていくことにした。
土方さんが気持ち遅めに走ってくれていたのも、心が折れなかった原因だろう。
しばらく、走っていると新選組の集団が前方に見えてきた。
斎藤さんや原田さん、井上さんが見えることから、どうやら四国屋の前に着いたようだ。
大通りから家の脇に入り、四国屋を見張る各々。
土方さんが来たことで、隊長格が前に出てきた。
私は地面にしゃがみ込み、息を整える。
「どうだ、状況は」
「今のところ、動きはないようです」
斎藤さんが土方さんに答える。
どうやら、まだ事が起こる前に着いたようだ。良かった。
「しばらく四国屋を見張る。全員、身を隠せ」
土方さんの言葉に再び元の位置に戻る隊長たち。
「ほら、お前も立て」
土方さんがしゃがんでいる私に手を伸ばしてきたので、その手をとり1度立ち上がる。
土方さんが斎藤さんのいる路地の方へ向かったので、私もそれについていき、狭い路地へと入る。
「お前は少し座ってろ」
「ありがとうございます!」
私は、再び地面に座る。
かれこれ30分くらい走っただろうか。
ほとんどマラソンである。疲れないわけがなかった。
この時代の人達は、30分を余裕で走るのだろうか。それとも、鍛えられた新選組だからこそなのだろうか。
それから3時間ほど経ち、すっかり夜になった。
四国屋は明かりが灯ったが、怪しい浪士たちは出入りしていない。
だが、いつ来るかも分からないその時のために新選組は四国屋を見張る。
この頃には、すっかり息も整い、クリアになった頭で考える。
私は、このままこうしていていいのだろうか。
池田屋だと言うべきなんじゃないだろうか、だが歴史を変えるなんて大それたことをしても許されるのだろうかと一人葛藤していた。
私が池田屋だと教えなくても、そもそも池田屋事件は新選組にとっていい方向にいく。
私が何かをする必要はないんじゃないだろうか。……うん、そうだ。
やっぱり、黙っておこう。
池田屋であることを言わないと決めた瞬間、集中して四国屋を見張っている土方さんや斎藤さんが視界に入る。
目の前にいる、今を生きている人達に少しだけ胸が痛んだ。
この罪悪感から逃れたくて、池田屋だと言いたくなる。
しかし、それを言ってしまうと今を生きる人達からは、今まで知っていて黙っていた最悪の人間だと思われてしまう。
私は、やはりどうあがいても2022年の人間なのだ。
そう考えていたところで、私のお腹が盛大に鳴る。
そういえば、今日は晩御飯を食べずに討ち入りにきたのだ。
その腹の音に注目される。
「す、すみません……」
緊張感があるこの場面でお腹を鳴らすのは失礼だと顔を俯く。
穴があったら入りたい。
「……そういえば、夕餉をまだ食べていませんでしたね」
「……そうだな」
斎藤さんと土方さんがそんな会話をする。
斎藤さんを見ていた土方さんが私の方を向く。
「無事に終わったら、たらふく食えばいい。それまで我慢できるか?」
私に問いかける時の土方さんは、時折とても柔らかい表情になる。
私は、この土方さんの表情がたまらなく好きだ。
「私そこまで子どもじゃないので、我慢くらいできますよ〜」
「そうだな」
フッと笑った後、またいつもの険しい顔に戻る。
このギャップで落ちない女子はいないだろう。しかも、顔が良いのである。
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