第145話 溺れてみるか?

「ワインなんていつ覚えたの?さぁちゃん」


並々と注がれた白ワインを眺めて幸が小首を傾げる。


その拍子にぶら下がりの細いチェーンピアスがキラキラと揺れて、トップの真珠が蛍光灯を受けて淡く光る。


幸は真珠のようだと桜は思う。


ミルク色の淡くて優しい光。


丸くてどこにも角が無いそれは誰も傷つける事がない。


掌に馴染んで、宝石なのにどこか温かみのある柔らかい輝き。


見る人を包み込むような穏やかで高貴な雰囲気を漂わせるそれは、まさに桜にとっての幸そのものだった。


彼女にとって幸は物ごころついた時からいつも”綺麗なお姉さん“だったから。


いつか、こんな風になりたいと憧れている。


「昴がいつだったか買ってくれたの」


「へー、焼酎派なのにね、彼。あ、美味しいわね、飲みやすい」


一口飲んで幸が満足げに頷いた。


グラスを戻してボトルを確かめる。


「あたしがお酒飲みたい!って言ったら買って来てくれたのよ。アルコールそんなにきつくないし、飲みやすい初心者向けのワインだって」


「ふーん、そう」


呟いて、幸がぷうっと頬を膨らませた。


「お酒なら、あたしだって教えてあげられるのになぁ。もう卒乳してるし」


「知ってる」


分かり易い幸のヤキモチが嬉しくて頬が緩む。


一鷹がいたらきっと眉間に皺を寄せたに違いない。


が、生憎彼は今仕事で会社に缶詰め状態だ、ここ2日帰ってきていないらしい。


昴も付き合っているので、こうして女ふたりでお留守番というわけだ。


「あなたもいつの間にか大人になっちゃったしねー・・・新婚生活はどぉう?」


「んー・・・普通だよ、あんまり変わらない」


「なら、何よりね」


「え?」


「結婚した途端、分家の事で苦労させられる何て、あってはならないもの」


悠然と答えたその言葉は、志堂幸としてではなく、”本家の妻”としての一言で、つまり、桜が浅海家に嫁ぐにあたって、僅かでも障害となるものは全て排除した結果でもある。


「あなたが、あの家で静かに暮らせるなら、何でもいいのよ」


伏し目がちに告げた一言が幸自身の胸に落ちる。


あの日、冷たい霊安室で桜の両親を前に誓った事。


桜のこれからの”幸せ”を全力で守ると。


「だから、それに相応しい人を選んだつもり・・・複雑な気持ちはあったけれど、昴君で良かった思ってるわ」


入籍届を提出した日、桜が急にお酒が飲みたい!と言いだした。


成人してから、それなりに酒量も覚えたが、自宅で自ら進んで飲みたがる事は無かった。


お酒が美味しいとは思っても、楽しいと思った事は無かったから。


いつも甘口のカクテルばかり飲んでいた。


けれど、お祝いに”お酒”はつきものだと思っていたから。


「酒ェ?ビールでも飲むか?」


冷蔵庫に向かおうとした昴に向かって桜が眉を吊り上げて言い返した。


「何で今日に限ってその選択なの!?ねえ!今日って入籍記念日でしょお!?」


昴が一鷹のように”女の子を喜ばせる能力”に長けていない事は知っている。


別に、彼のように家じゅうに花を飾って喜ばせろとか、サプライズで家に特大ケーキ届けさせろとか言ってるわけじゃない。


ただ、昔ドラマで見たワンシーンみたいに、グラスワインで乾杯位したいなと思ったのだ。


なのに、どうしてビールなのか?


「記念日・・・ああ、記念日な」


漸く思いついたとでもいうように頷いて昴が冷蔵庫の前から戻って来る。


不貞腐れた桜を前に昴が肩を竦めた。


「じゃあ、記念日に奥さんは何を御所望で?」


「・・・・美味しい大人のお酒!」


「はぁ?」


呆れ顔で言って昴が桜の両頬を引っ張る。


「美味しい・・・なぁ・・・分かった、なら俺の好きな焼酎分けてやるよ」


眉根を寄せたままで桜がますます顔を顰める。


「焼酎は嫌!」


「全否定かよ?結構美味いけど?」


指先で桜の耳たぶを撫でた後で、首筋から項に手を滑らせる。


距離を詰めた昴の唇が桜の額に、頬に落ちた。


「その答えしかないの?・・・40点」


「お前な、新婚初日から辛口すぎやしねェか?」


「乙女心の欠片も分かんない男には辛口採点でもしょうがないよね?」


尖らせた唇に音をたててキスをして昴が笑う。


「キスで誤魔化さないでよね」


直ぐに離れた唇が寂しくて、強請るように自ら唇を寄せたら、昴が小さく笑った。


「でも、まだ欲しいんだろ?」


「嫌とは言ってない」


悔し紛れに言い返してキスを返す。


今度は自分から舌を絡めた。


昴とのキスはいつも煙草のせいでほろ苦い。


けれど、それが不思議と嫌じゃない。


他の人とのキスなんて今更思い出す事も出来ない。


甘くて苦いキスの後、昴の耳元で桜が”美味しいワインが飲みたい”と強請った。


綺麗にラッピングされたボトルワイン。


ご丁寧にリボンまでかけられている。


桜色の和紙で包まれたそれを差しだして昴が桜に採点を問うた。


「何点?」


翌日の夜の事だ。


支店の入っている百貨店の地下の洋酒専門店で見つけて来た白ワイン。


グラスに注ぎ分けたそれを一口飲んで、桜がにっこりと微笑んだ。


「120点!」


「20点は?」


「包装紙とリボンがあたしの色だったから」


「そりゃ良かった。飲みやすいやつ選んだつもりだけどな。


結構アルコール強いから、飲み過ぎるなよ」


「うん。そうする」


素直に返事してグラスを空にした桜。


昴は空いたそれに新たにワインを注ぐ。


「んで、俺にご褒美ないのか?」


「何を?」


「お前の機嫌取ってやったご褒美だよ」


「・・・無い事も無いけど」


向かい合わせで座っていた桜が立ち上がって、椅子に腰かけた昴の真横に立つ。


「ん?」


「ありがとう」


呟いて昴の肩に腕を回して抱き付いた。


「ああ」


まんざらでもなさそうに頷いて、昴が桜の腰に腕を回す。


「また買って来てくれる?」


「気にったならな」


「すっごい気に入った!」


はしゃぐように言って桜が昴の頬にキスをした。


その無邪気な仕草に昴が一瞬目を丸くしてつい先日妻となった桜をまじまじと見つめる。


「もう酔った?」


「溺れる位お酒飲んでみたかったのよね」


それには答えず桜が答えた。


昴が呆れ顔で桜の額を指先で弾く。


「こら、酒に溺れるなんて言語道断だぞ。嗜む程度に飲む事、いいな?」


いつもと逆の見上げる形になった昴が桜の長い髪を指先に巻きつけて弄ぶ。


僅かに赤くなった頬が、桜の酔いが回っている事を物語っている。


「でも、あたしは溺れるほど飲んだ事何かないし」


「そりゃそーだ。それに、お前は酒に溺れる前に」


そこまで言って昴がワイングラスを置いて立ち上がった。


再び立ち位置が逆転して見下ろす事になった桜を軽々と抱き上げる。


「きゃ、何!?」


慌てて昴の首に抱きつくと、聴こえて来た囁き声。


「・・・溺れてみるか?」


「・・・っ」


ますます真っ赤になった桜の頬にキスをして昴が意地悪く笑う。


耳元でこだまする昴の声。


”俺に”


そんなのもうとっくに溺れている。


とは言えないから、ありったけの力を込めて旦那様に抱き付いた。

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