第119話 さかさま

書斎から上着を着ながら出てきた一鷹がリビングを覗いて愛妻と桜に向かって微笑みかける。


「幸さん、じゃあ俺そろそろ行くから」


「うん、気をつけてねー」


腕の中に抱えている暁鷹はようやく寝入ったばかりだった。


桜が持っていた暁鷹お気に入りのぬいぐるみを手に一鷹に微笑みかける。


「あっくんの可愛い写真後でメールで送るねー」


「うん。桜ちゃん、ゆっくりしていってね」


「ありがとーお仕事がんばって」


「はい。あ、今日は浅海さん早めに帰れると思うから」


「そーなの?今日は別行動?」


「浅海さんは朝から分家の集まりで動いてかるからね。ご老中の方々にあいさつ回りで絞られてくたびれて帰って来ると思うから、フォローよろしく」


「えー・・そうなの?」


分家の中には、浅海の失脚を手ぐすね引いて待っている連中もいるのだ。


そういう年寄り連中を宥めて、まとめるのも分家筆頭のお役目のひとつだ。


不定期でお呼びがかかるたびに、ピリピリして出かけていく昴を見送る桜の身にもなって欲しい。


肩を竦めて見せた桜に向かって一鷹が片手で詫びるポーズを取った。


「今日は俺も本家の方で動かなきゃならなくてね。じーさま連中の相手してられないんだ」


「ちょっとラッキーとか思ってるでしょう?」


すかさず訊いた桜に、一鷹が苦笑いする。


「まあね。けど、お祖父さんと父上を一気に相手するのも大変だよ?」


「・・ご苦労様です」


「いえいえ。あ、幸さん見送りはいいから。ゆっくりしてて。暁鷹寝たとこでしょう?」


「うん、別宅に着いたら連絡してね?」


「分かってます」


笑って一鷹が携帯と車のキーを定位置から取り上げる。


そして、足早に幸のそばにやってくるとその髪をいつものように優しく撫でた。


二人きりならもっとスキンシップするのだろうが、さすがに桜が目の前にいるので遠慮したらしい。


「遅くなるかもしれないから、戸締りよろしく」


「はい、分かりました」


「帰る前にはメールするからね」


それから、改めて行ってきます。


と告げて幸の指先を握った後、暁鷹の寝顔を眺めてから部屋を出ていく。


一鷹を見送った後で、幸が暁鷹をベビーベッドに下ろしてから言った。


時刻は午後15時過ぎ。


「イチくん今日はお夕飯いらないから、どうせなら昴君とさぁちゃん、食べて帰って?」


「むしろ一緒に作ってってことでしょー?」


「あら、分かっちゃった?」


「分かるよー」


「だって、暁鷹と二人だと落ち着いて料理出来ないのよー。起きてたら目が離せないし、寝てもすぐに泣きだすし。煮込み料理なんて以ての外なの。久々にビーフシチュー食べたくない?美味しいお肉あるんだけどなー。佐代子さんが分けてくれたの」


「・・・揚げ玉ねぎしてくれる?」


「もちろん!生クリームもあるしさぁちゃんの好きなかぼちゃとナッツのサラダも作っちゃおう」


「乗った!」


「よかったー」


嬉しそうに手を叩いて、幸がキッチンに向かう。


ここ最近は一週間分の食材をまとめ買いしているという志堂家。


大きな冷蔵庫を開けて桜を手招きした。


「お野菜もお肉もたーっぷりあるのよー。残ったら持って帰ればいいし」


「あ、それは助かるかもー。明日のお夕飯あたしひとりだし」


「明日はイチ君たち、お義父様と浅海のおじ様とご飯なんでしょう?」


1週間のスケジュールは事前に幸と桜にも知らせてある。


二週に1度は打ち合わせを兼ねて、浅海と志堂の親子二組の食事会が設けられていた。


「打ち合わせだってー」


「また午前様かな?」


大抵4人で飲むと夜中に帰って来る。


「多分ねー」


「じゃあ、ビーフシチュー多めに作ってうちも明日のお夕飯にしちゃおう」


「バケット食べたいなぁ。美味しいーの」


シチューの時にはいつもお気に入りのパン屋のバケットを厚めに切って添える。


幸と桜が一緒に暮らしていた頃からの習慣だ。


「駅前の?」


「うん、駅前の」


頷いた桜に向かって幸が人差し指を立てて言った。


その顔には満面の笑み。


「さぁちゃんメール!」


合点承知とばかりに桜が携帯を掴む。


「了解!」


昴に帰り途バゲットのお土産を要求するのだ。


桜と幸二人がかりで作ったビーフシチューは、昴が持ちかえったバケットと、桜の好物でもあるかぼちゃのサラダとともに美味しい夕飯になった。


暁鷹が泣いてぐずるたびに、桜と幸が交互にあやして、その間にもう一人が料理をする。


昴がやって来てからは、子守は昴の任せて桜と幸がふたりで台所に立った。


子供は苦手だと豪語してた昴も最近は暁鷹をあやすのが上手くなっている。


「はー満腹になったー」


授乳のために暁鷹を連れて寝室に戻った幸の代わりに食器を洗った桜がソファに戻ってきた。


読み損ねた今朝の新聞に目を通す昴に凭れかかる。


「ビーフシチュー久しぶりだったな」


「煮込み料理少なくてすみませんねー」


「何も言ってねーだろが」


「だって冴梨のお店結構忙しいんだもん」


「はいはい、俺別に晩飯に拘り無いって」


「・・・拘り無いのも腹立つ」


「なんだそれ」


笑って昴が桜の髪をくしゃりと撫でた。


「お嫁に行ったらしっかり頑張りますぅ」


「はいはい」


「あ、何、信用してない?」


これでももう間もなく浅海家の台所を預かる身としてそれなりに努力はしているのだ。


「いーや、別に。今からそんな気張ってるとくたびれんぞ」


「平気だもーん」


「意地っ張りめ」


昴の指摘を無視した桜が小さくあくびをする。


「眠いか?」


「ちょっとね」


目を擦る桜の横顔に手を伸ばした昴が頬を撫でる。


そのまま離れるかと思った右手が桜の肩に下りてきた。


抱きこむようにして押される。


傾いた桜の頭が昴の膝に落下した。


急にさかさまになった視界。


天井が真上に見える。


「寝ていいぞ」


「っえ・・」


家の中でもそうそうこんなシチュエーションになった事が無い。


まして誰かの家なんて。


困惑する桜を他所に、昴が慣れた手つきで桜の髪を梳く。


まるで子供をあやすようなその仕草に、ふと暁鷹を抱く昴の姿が浮かんだ。


くすぐったい嬉しさで桜が笑う。


「なんだよ?」


「ううん・・・本気で寝ちゃうかもよ?」


「いいよ」


「置いて帰る?」


上目づかいで問いかけた桜の瞼を親指で優しく撫でて昴が笑った。


安心させるようにそっと呟く。


「・・・ちゃんと連れて帰ってやる」


その返事に、桜がホッとしたように目を閉じた。

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