第132話 散らないサクラ

だだっ広い前庭を抜けて、裏口から屋敷を出る。


浅海の屋敷に入るにはこちらを通る方が近道になるのだ。


表玄関を尋ねる時は、素直に正規ルートを辿る方がよいが、今日は勝手口から顔だけ出す事にする。


喋り始めると止まらないのはどこの母親も同じだ。


ちょっと桜の顔を見せてやれば満足するだろう。


この後もがっつりと過密スケジュールが待っているので、長居はできない。


一鷹もそれは承知なので、昴の手を煩わせるような事はしないだろう。


多少、多々、幸と暁鷹と離れがたいとは思うが。


休む暇なく働く上司へのささやかなご褒美だ。


一鷹へのご褒美とは言いながら、同じように甘い汁を啜っているので、無理な寄り道も負担ではない。


計算で桜を選んだわけではないが、幸とセットで動いてくれて助かっている。


上司の寄り道先に新妻がいるのは正直なところとても有り難い。


”少しだけ顔を見られれば”


一鷹が口にする言葉の意味を身をもって実感することになるんて思ってもみなかった。


離れている時間、相手がどうしているかなんて、気に留めるような恋愛をしてこなかったから。


こうして隣を歩く相手の、見えない部分が気になるなんて、昴にしてみれば天変地異のようなものだ。


馴染んだ浅海の敷地を目の前にして、昴は足を止めた。


「そういや、本家も奥方様は不在だったよな」


家が無人になるのでお花見にお邪魔するのだと桜が話していたことを今になって思い出したのだ。


「え?うん。なんかお花の発表会で」


「しまった・・・分家も出てるやつだな」


そういえば数日前に着物を新調するとか言って、騒いでいた。


案の定いつもは開けっ放しの裏門にもしっかり施錠がされている。


「ええ!?お留守なの?」


「みたいだな」


「じゃあご挨拶はまた今度ね・・・ねえ、あとどれくらい時間あるの?」


「ん?そうだな、10分、15分くらいか」


腕時計を確かめながら答えた昴に、桜がふーんと気のない返事をする。


どうせこのまま戻ったって馬に蹴られるに決まっている。


仕事の時とは打って変わって蕩けそうな笑みを浮かべた一鷹は、今頃、思う存分幸と暁鷹を抱きしめているだろう。


邪魔をするつもりもない。


立ち止まった昴の視界の隅で、ひらりと何かが揺れた。


少し首を傾けてみると、桜の髪にまとわりついた花びらが見える。


さっきの桜の雨のせいだ。


「お花見、楽しそうだったな」


桜の髪に指を通しながら昴が尋ねた。


「うん・・・なに?」


「花びらついてる」


「ひらひら舞ってたから・・取れる?」


「ああ」


曖昧に頷いて、髪に絡めていた指を離して、そのまま腕を回して肩を抱き寄せた。


完全に油断していた桜の身体が、簡単に傾く。


「え・・・花・・びら」


「もう取れた」


「・・誰か通るかも」


肩に頭を預けた桜が、狭い路地の向こうを見つめて呟く。


「こんな裏道誰も来ねぇよ」


「でも、みゆ姉たちが・・・」


「こっちのこと気にする余裕なんてあるわけねぇだろが。今頃、一鷹の事でいっぱいになってるよ」


「・・・」


耳障りの良い甘い言葉で骨抜きにされた幸が目に浮かぶ。


妻を甘やかす事にかけて一鷹の右に出るものはいないと昴は思っている。


見ているだけで砂糖まみれのコーヒーをがぶ飲みした時のような胸やけを覚えるほどだ。


ああいう愛し方は、自分には出来ない。


「幸さんが甘やかされてんなら、俺もお前の事甘やかしておかないとな」


さらさらと指から逃げる髪を追いかけながら、昴が桜の頭に頬を寄せる。


抱き寄せた桜の匂いと、馴染んだぬくもりに少しずつ意識が仕事から逸れていく。


髪の隙間から見える柔らかい耳たぶを甘噛みしたら、桜の身体が面白い位撥ねた。


「昴っ」


咎める声が震えている。


なだめるように背中を撫でて、腕の力を強くする。


白い頬に赤みが刺して、桜の指がスーツの背中を握った。


かき上げた髪を背中に流して、覗いたうなじに唇を寄せる。


相変わらず綺麗な肌だ。


先日こっそり付けた痕が少しだけ残っていた。


重ねるように吸い付く。


しっかり抑え込んだ桜の身体が小さく震えた。


「ちょ・・」


「味見だ、味見」


「しなくていいっ」


「とか言いながら・・指に力入ってねぇぞ」


ずるずる背中を滑り落ちる桜の指先。


しれっと返した昴を潤んだ瞳で睨み返してくる。


威力ゼロ、むしろそそられるだけ。


吸引力は無限大の瞳を覗き込んで、昴が笑う。


残り時間は少ないけれど、今晩家に戻るまで、桜の頭を自分の事でいっぱいにするくらいの時間ならある。


震える唇に指を滑らせると、桜が小さく呟いた。


「・・・あ、あたしの事いつから好きだったの?」


「・・・は?」


まさかこの流れでそんなことを尋ねられるとは思ってもみなかった。


たじろいだ昴の胸を押し返しながら、桜が続ける。


「は?じゃなくて、大事な事だから。あたしだって聞きたい。みゆ姉みたいに言われたい」


「なんで今更・・」


「今更じゃないし!」


なおも食い下がる桜に、昴がどうしたもんかと天を仰いだ。


昴にとっては物凄く今更だ。


桜に対する告白の前に、昴は一度、幸と対決している。


幸の結婚にあたって、桜の後見をどうするのか、桜の身の置き場をどうするのか、彼女の将来をどうするのか。


桜の事を思えば、一度は志堂の元に身を委ねて成人を待ってから昴の元に嫁がせるのが一番だ。


少しでも早く桜を手元に置きたがったのは、昴と昴の両親だ。


一鷹と幸との婚姻を皮切りに分家間での諍いが生まれることは目に見えており、その駒のひとつに桜が上げられることは分かり切っていた。


目に見える形で桜を守る手段として、浅海の元に身を寄せて、志堂の後見を受け続けることで話が纏まった。


一鷹と昴を敵に回してまで桜を手に入れようとする馬鹿な分家はいない。


それでも、桜にはごく平凡な幸せを願っていた幸の心配は尽きなかった。


幸と説き伏せることが、昴が桜を手に入れるための最大難関だったのだ。


一生に一度の告白は、実のところ桜にではなく幸にしたと、昴は思っている。


そして、もう二度と言いたくないとも思っている。


「ねえ、いつから?」


「・・・」


いつもなら視線を逸らすのは桜の方なのに、今日に限っては逃げの一手だ。


昴はばつが悪そうに桜を抱きしめて、自分の顔が見えないようにした。


「抱きしめたら伝わる、とか、今日は無しだから。いつもみたいに誤魔化されないからね。あたしに分かるように、ちゃんと言ってよね」


「今日に限ってしつこいな、お前」


「だって・・・みゆ姉と一鷹くんには、二人が過ごしてきた長い時間があるわけでしょ?一鷹くんなんて、一目惚れでみゆ姉を好きになってるんだから、ずっと意識して見守って来たわけじゃない?数えきれない位の思い出がそこにはあるよね。みゆ姉にしたって、どうでもいい相手の家に何度も通ったりはしないと思うの。きっと、無意識のうちに少しずつ一鷹くんに惹かれてたのよ。長い時間をかけて、ゆっくり向かい合って好きになったんでしょ?そういう、思い出がちょっとでもいいから欲しいの」


確かに一鷹のアレはレアケースだ。


ひとめ惚れの相手を思い続けて成就するなんて、少女漫画だ。


階段を一段ずつ上るように、キラキラした思い出を重ねて来た二人を桜が思い描いているのは見て取れた。


最初に桜と出会った時は、必死に現実にしがみついている印象しか受けなかった。


恋や夢に胸を躍らせるような少女じみた部分は見つけられなかったのだ。


必死に背伸びして大人になろうとしていたせいだろう。


こんな風に憧れを語る子供っぽい桜を見れただけでも、寄り道して良かった。


「思い出・・な・・」


「昴のスーツ、いっつも煙草の匂いがする・・・あたし、煙草って言ったら、一番にこの匂い思い出すわ。これも・・・思い出なのかな」


抱き寄せた腕の中で、桜が胸元に頬を押し当てた。


ほっと息を吐いて目を閉じる様は、いつもリラックスした時に見せる表情だ。


この場所でなら気を張らなくていいと彼女が本能で理解している事が心底嬉しい。


昴にとって愛しさは、そういうことだ。


穏やかな日常を繰り返して行く中で、ふとした瞬間に訪れるどうしようもなく幸せなひと時、必死に守って生きていく。


いつも、その幸せの中心には桜がいる。


その笑顔が見たいから、未来へ続けと願うから。


春が来るたび、祈るのだ。


「俺は・・・お前に出会ってから、春が来るたびいっつも桜の事を思うよ。本家の桜も綺麗だったけどな。もう、ずっと、一番綺麗なのは、お前だったんだろうな」


言葉にしたら、答えが目の前に落ちてきた。


雪のように舞うはかなげな雨を見ても、空一面に咲き誇る薄紅の花びらを仰いでも、命が芽吹く季節を迎えるたび、何度も何度も桜を思う。


最初に出会った時、綺麗に咲かせてやりたいと思った。


彼女の未来が、少しでも明るく、世界が優しくあるようにと。


たぶん、それが始まりなのだ。


蕾の時から知っていた。


季節を誰より鮮やかに彩る存在になることを。


すっかり大人しくなった腕の中を覗き込めば、桜がすすり泣きを上げていた。


泣かせるつもりではなかった。


「こら、戻るまでに泣き止めよ・・俺が幸さんに怒られるだろ」


昴にとってのは、春は、抱きしめた桜のことだ。

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