第96話 Rose initial
籠った湯気と蒸気の中に溶け込む薔薇の香り。
昼間にエステで使ったオイルや香水の匂いとは違う、もっと生っぽい強い香りだ。
息を吸ったらひりつく喉が、少しだけ楽になった。
時間の感覚はとっくに無くなっている。
酷く怠くて、物凄く眠たい。
身体の何処にも力が入らない。
「んん・・・」
横になっている感覚は無いのに、不思議と安心感はあった。
首を反対側に向けると、がくん、と頭を支えていた何かから外れた感覚があった。
その次の瞬間、ぱしゃん!と水しぶきが上がる。
顔にかかった暖かいお湯と、頬に触れた何か羽のような柔らかい感触に違和感を覚えて、桜は目を開けた。
「眠たいのは分かったから、反対にはいくな。溺れる」
と同時に、背中から回された腕が、もう一度頭をもとの位置へと押しやる。
誰のものか確かめるまでも無い。
ああ・・そうだった・・・でも待って、溺れるのはくたくたのへとへとで、足腰使い物にならないせいで、指先まで力入らないせいで、それって元を正せば、昴のせいだよね?
重たい瞼を必死に持ち上げて訴えてみる。
「んんんー・・疲れた」
良かった、喉は掠れているけれど声は無事だ。
さすがに明日の朝声が出なかったら幸と一鷹に生ぬるい目で見られる事になる。
本音を一言に集約すると、背後の昴がくすりと喉を鳴らして笑った。
それから瞼の縁に唇が落ちて来る。
「悪かった」
「・・思ってない」
「思ってるよ。だから、ほら、見てみろ、お前がやりたいって言ってた薔薇風呂」
そんな言葉と共に、お湯の中を揺蕩っている赤い花びらを摘まみ上げた昴が、頬を撫でて来る。
ああ、さっきの羽の感触はこれかと、漸く合点がいった。
薔薇風呂したいとは言ったけど、言ったけど・・
「こーゆんじゃないぃ」
もうちょっと乙女チックな感じがいいのに!!
薔薇風呂を満喫する体力位、残して置いてくれればいいのに。
やっぱりこれは何処をどうとっても昴が悪い、絶対悪い。
「家の風呂よりずっと広いし、後片付けの必要も無いし、いいだろ?」
「・・・ん・・」
二人で浸かってもお湯が溢れる心配のない広いバスタブはジャグジー付き。
この広さなら、向かい合っても、隣り合っても、余裕で足を伸ばせる。
半身浴も出来るようになっていて、バスピローもあるので、うたた寝しながらのバスタイムなんて最高だろう。
子供なら泳げるかもしれない。
バスルームの天井から注がれているのは粒子の細かいミスト。
肌を潤わせて、保温効果も高めてくれる。
ジャグジーの泡の間を踊る様に舞う真っ赤な薔薇の花びらは、もう少し状況が違えばうっとりと眺められるのだろう。
でもだめ、今は駄目。
折角の豪華スイートルームだし、だだっ広いバスルームだし、向かい合って薔薇の花びらを弄びながら、ちょっと恥ずかしいけど、キャッキャウフフとかも憧れたりするけれど。
でもだめ、今は無理。
だって後ろから回されている昴の腕だけが命綱だ。
これが無くなったら間違いなくお湯の中にドボンな自信がある。
それ位眠たい。
「俺が悪いけど・・・調子に乗って酔っぱらったお前も悪いからな」
呆れたような声と共に首筋に唇が触れる。
肌に張り付いた薔薇の花びらを唇で払って、昴が痕を残すように花びらの痕跡を上書きする。
ぺろりとひと舐めしてからチュッとリップ音が響いた。
もう随分慣れた焼けつくような痛みに、思わず足でお湯を掻く。
ぱしゃん、と波が立って、薔薇の花びらがざわざわ揺れた。
それと同時に花の匂いが一層濃くなる。
「・・酔って・・?」
そう言えば、レセプションパーティーの途中からの記憶が曖昧にしか残っていない。
支配人の挨拶に始まり、経営陣の紹介と、出店ブランドからの挨拶が終わる頃には、グラスは空っぽになっていた。
代わる代わるやって来る取引先の役員に、笑顔で挨拶をしたり、余計な事を聞かれないように部屋の隅に隠れたり。
基本は幸が常に桜の側に張り付いて保護者役をしていたのだが、志堂夫妻目当ての招待客も多く、どうしても終始横にいるというわけにはいかない。
浅海の婚約者として来ているので、先に部屋に戻るわけにもいかず、会場の隅にある椅子に座って大人しく退屈なスピーチを聞いているうちに、ジャズピアニストの演奏が始まって、少し楽しくなって来た頃に、シャンパンを勧められた。
爽やかな飲み口で女性に人気のロゼです、と言われれば断る理由なんて無い。
こういう場所だし、勿論美味しく頂きますと頂戴したら、これが思いの外美味しくて、お代わりしてしまった。
バンケットホステスの説明通り、爽やかでほんのりと甘い女性が喜ぶシャンパンだったんです、と今更言い訳しても、遅い。
父親が懇意にしている取引先に捕まって、桜の姿を見失った。
とは言っても広い会場の何処かにはいるはずだし、何より桜レーダーが付いている幸がいる。
危険に晒される事はまずない。
事実上、浅海昴の婚約者ではあるが、幸も一鷹も、大学生の桜を志堂の人間として表立って紹介するつもりはない。
昴もそれには同感で、あくまで幸の従妹という存在で、普通の大学生活を送らせてやりたいと思っている。
その為、支配人以外には、浅海と桜の婚約は伏せていた。
側に置いておきたいのは山々だが、逆に興味を向けられても困る。
その為、基本的に挨拶周りは昴と一鷹がメインで対応する予定になっていた。
昴がどうでもいい世間話に付き合わされていた頃、一鷹と幸もセットで別の招待客に捕まっているとは、思っても見なかったのだ。
漸く一人になって、会場の片隅に座る桜を見つけた時には、すでに幸と一鷹が手を焼いている状態だった。
いつの間にかシャンパンですっかりご機嫌になった桜は、馴染みの顔ぶれを前に、一気に緊張が解けて酔いが回ったらしく、パーティードレスの裾をはためかせながら椅子の上で足をばたつかせている。
隣に座った幸が、慌てて膝を押さえながら顔を顰めて小声で注意するが、すっかり酔っている桜は聞く耳を持たない。
「さぁちゃん、駄目よ、お行儀悪い!」
「ええーじゃあ、お代わりー」
「桜ちゃん、シャンパンはもう無いよ。そろそろ部屋に戻ろうね」
「なんでー昴がいないー」
「昴くんは、まだお話中・・あ、来た・・昴くん・・」
くっきりとした二重を僅かに緩めて、いつになく砕けた雰囲気の桜が、ひらひらと手を振って来る。
普段はきちんと作動している警戒心が、綺麗に解除されている。
上気した頬と、僅かに唇に残っている淡く光るグロス。
一目見た瞬間に、即座に部屋に戻る事を決めた。
昴ーとどうしようもなく柔らかい声が名前を呼ぶ。
その声で今呼ぶな、と𠮟りつけたくなった。
昴の気持ちなんて知りもしない桜は、ジャズの演奏に合わせて、リズムを取る様に指先と爪先をくるくると動かしている。
可愛いからと膝丈のドレスを桜に選んだ事を、幸はこの時盛大に後悔していた。
必死に両足を押さえながら、さぁちゃん、めっ!と子供を𠮟りつける様に言い聞かせているが勿論効力はゼロ。
一鷹が捕まえたバンケットホステスから受け取った水を差し出すもいらなーいの一点張り。
その間に昴は、周囲に面倒くさそうな招待客が居ない事を確認して、着ていたスーツの上着を脱いだ。
「悪い、一鷹先に戻る。後は任せていいな?」
お願いではなくて、確認、だ。
「勿論です、任されました」
頷いた一鷹が、幸の手を取って立ち上がる。
「え、でも部屋まで一緒に・・」
「こうなったら後は浅海さんに任せた方がいいよ。対処法も分かってる。悪酔いはしてないし大丈夫でしょう?」
不安げな幸と入れ替わりに桜の隣に滑り込んで、脱いだ上着を桜の膝に被せた。
「何かあったら連絡する」
恐らく連絡は来ない事を、この時点で一鷹は理解していた。
理解していなかったのは幸だけだ。
最後まででも、と言い募った幸を半ば強引に引っ張って一鷹が側を離れる。
察しの良い一鷹に感謝しつつ、シャンパンを強請る桜の背中と膝裏に腕を回して抱き上げた。
これ以上桜が妙な色気を振り撒く前に、一刻も早く部屋に戻らなければ。
昴の頭を過ったのはその事だけだった。
”部屋に戻ったら好きなだけ飲ませてやるよ”と言い聞かせて、言葉通り、パーティーの間に新しいものと交換されていたウェルカムドリンクのシャンパンをグラスに注いでやった。
召し上がれと差し出した華奢なグラスの足を惚けた表情で弄びながら、隣に座る昴の肩にこてんと凭れて来た瞬間に、理性が飛んだ。
奪い取ったグラスを煽って一瞬で空にして、飲み込む前にそのまま唇を重ねる。
瞬きをした桜は一瞬驚いて、それから素直に口移しで注がれたシャンパンを飲み干した。
こくんと嚥下する喉元に吸い付いて、そのまま遠慮なく組み敷いた所で、ソファだったと気付いて、どうにかベッドまで移動した。
翌朝の朝食は、客室でも摂れるし、館内のカフェテリアのガーデンスペースでも楽しめるらしく、どうせなら4人で庭で食べよう
!と提案したのは幸だ。
朝8時に1階のカフェテリアの前でと約束した。
俺はともかく桜が起きられる自信がねぇな、と思ったが、何となく別行動になる予感がしたので、途中でやめるという選択肢は昴の中から一瞬で消えた。
恐らく一鷹は、こうなる事を予測している。
で、その場合の一鷹のその後の行動は・・と推測すれば、こういう結論に至るのだ。
「俺も調子に乗った・・」
年甲斐も無く。
大人気も無く。
幸がこの惨状を知ったら激怒するだろう。
酔ったうちの下を介抱するどころかがっつくってどういうことなの!?
鬼の形相をした従姉姫がグイグイ詰め寄って来る姿が想像できる。
この場合、一鷹は完全に幸の味方に付く。
返す言葉もございません、と開き直るしかないのだが・・
俺が調子に乗った原因はお前だからな、と眠気と戦っている腕の中の桜に視線を向ける。
こちらとしては、スプリングの効いた豪華なベッドまで我慢した事を褒めて貰いたい位だ。
言った所で理解も納得もして貰えないだろうが。
さっきベッドで散々散らした赤い花に、適当に千切って放り込んだ薔薇の花びらが寄り添うように張り付く。
意識を手放した桜を寝かせてやっている間に、バスタブに湯を張りながら、この後どうやって機嫌を取ろうかと考えた。
朝食は桜の希望に合わせて、カフェテリアでも、客室でも好きな方を選ばせよう。
チェックアウトは遅めの11時設定なので、今度こそのんびりと過ごして、帰り道でガーネットに立ち寄る。
桜のお気に入りのケーキを買って、今週のデザートも好きなだけ選ばせよう。
機嫌取りの定番は、甘いものと買い物だ。
雑誌に載っていたバックが欲しいと言っていたから、チェックアウトの前に、ブティックストリートを覗いてもいい。
この際だから、洋服でも靴でも好きなものを買ってやる。
ああ、でも洋服ってなると試着か・・・まあ、どうにかなる、だろ。
真新しい店内の、無駄に広くて豪華なフィッティングルームの磨き上げられた鏡の前で、声にならない悲鳴を上げる桜がぼんやり浮かぶがすぐにかき消す。
どうせちゃんと朝、目が覚めた時点で気付く事になるのだ。
昴がどれ位本気で、桜を抱き潰したか。
ここまで一通り翌朝のスケジュールを組み立てて、これだけではまだ足りない、もうひと押し何か・・と思った所で、目についたのが目の前のテーブルで鮮やかに咲き誇る薔薇の花だった。
どうせ明日には出て行く部屋。
一日限りの花なら有意義に使い切ってなんら問題はない。
ベッドに撒くよりはバスタブだな。
いつだったか、桜が人気モデルがブログで紹介していたセレブ感満点の薔薇風呂に憧れると話していた事があったのだ。
買い物に出かけた先で、入浴剤を選んでいた時だった気がする。
グレープフルーツはとまだしも、ストロベリーの入浴剤というのを見つけて、愕然としていた昴に、桜が花の香りのオーソドックスな入浴剤を示して言ったのだ。
どうせなら、豪華に薔薇風呂とか入ってみたいよね。
薔薇をバスタブに浮かべる意味が分からない。
ゴージャスな雰囲気なら別の方法で味わえばいい。
というような事を言い返して、言うと思った!と呆れられた気がする。が、今日は別だ。
一本数百円か数千円か知らないが、どう見ても手触りの良さそうなベルベットの花びらを遠慮なく千切ってはバスタブに投げ入れた。
24時間フル稼働の空調に晒されたせいで、殆ど萎れていたので、こういう使い道も有効かもしれない。
程よく湯が張った所で寝落ち状態の桜を抱えてバスルームに運んで、今に至る。
さすがにこれ以上疲れた身体を酷使させるわけにはいかないのだが、名残の残る身体は唇で触れる度、面白い位反応して震えるので、思わずその気になりそうになる。
まあでも、明日の事もあるし・・
仕方ないと納得して、仕上げとばかりに薔薇の花びらが浮かぶ湯を掬い上げて、肩から流してやる。
花びらが肌の上を滑るむず痒い感覚に、桜がきゅっと眉根を寄せた。
その唇を軽く啄んで、肩の上に残る花びらを払って落とす。
繰り返したキスのせいで赤くなった唇が、やけに艶めかしい。
エステの効果か、いつも以上に桜の肌は触り心地が良かった。
若々しい弾力と、瑞々しさに溢れておまけにしっとりと滑らかで・・・
「これ以上すると本気でのぼせそうだな・・」
備え付けの冷蔵庫に入っていたガス抜きの水を何度か口移しで飲ませてはいるが、安心できない。
「よし・・桜、ほら腕回せ。後はやってやるから、もう寝ろ、な?」
浮力を利用して、桜の身体を横抱きにするとバスタブから上がる。
この後も甲斐甲斐しく世話をして、髪を乾かして水分補給をして、漸く桜をベッドで寝かしつけたのが夜更けの2時過ぎ。
一人で飲み直した昴が、放置したままのスマホに届いている一鷹からのメッセージに気付いたのは、ベッドに入る朝方の事だった。
”すみません。明日は先に帰ります”
朝食は別に、どころか先に帰るって・・・まあ、有難いっちゃ有難いけど
何となく向かいの部屋の様子が想像できて、昴は微妙な心持ちで桜の眠る薔薇の香りのするベッドへ潜り込んだ。
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