第97話 桜・気まぐれ・天気雨 

打ちこんだレポートの文章を確かめながら、もう一冊買ってきた筈の参考書を手を伸ばして探す。


桜の私室の机は、パソコンを拡げるとノートや参考書を置くスペースが無くなってしまう。


彼女が小学校入学時に両親に買って貰った昔ながらの学習机だ。


流石に大学生となった今では使い勝手が良いとは言えないが、桜はこの部屋にある家具は、何一つとして買い変えようとしない。


今は亡き両親との唯一の想い出が残る京極の家は、出来るだけそのままで置いておきたいと思っていた。


昴もその意思を尊重して、桜がレポートをする時は、リビングを使うように言ってある。


なので、今日も午後からリビングのテーブルにはレポートの為の参考文献とルーズリーフが山積みになっていた。


そんな山の中から目的の品を取り出そうとして悪戦苦闘する桜の視線は、液晶画面から離れない。


それと思わしき参考書を引っ張りだして、確認しては横に置いて行くという作業をさっきか幾度となく繰り返している。


「あーれー・・?」


いよいよ4回目の発掘作業にかかると、桜も漸く重い腰を上げた。


立ち上がって参考書の山を睨みつける。


「どこ行ったっけ・・?」


確か昨日返り道で本屋に寄って買った筈。


記憶を手繰り寄せながら、参考文献の選別を行う。


と、未開封の本屋の紙袋が出てきた。


「これこれ!そっか・・開けて無かったのね」


一人ごちで、封を切る。


中を覗き込んで唖然とした。


「っは!?」


慌てて袋を逆さまにして中の本を取り出す。


出てきたものは参考文献ではなく、毎月購読しているファッション誌のみ。


「・・・・うそ・・」


大学を出た後、駅前の本屋で発売日のファッション誌と・・参考資料・・・


「書籍フロア行くの忘れた!!」


今月の付録が待ちに待っていたブランドのトートバックだったのだ。


中身を確かめたい気持ちが先走って、本来の目的である参考文献の資料を買うのをすっかり失念していたらしい。


「どーしよ・・」


時計は午後15時過ぎを指している。


今年の夏は天候が不安定で、急な夕立が多い。


駅前の本屋までは歩いて15分。


曇っては来ているが傘は必要ない気がした。


目的の参考書は決まっているから、迷う事も合い。


「しょーがない、買いに行くか」


財布だけ持つと、ソファで眠っている昴に書置きを残して家を出た。




★★★★★★★★★★★★★




半日だけ出勤して、戻ったのは午後13時過ぎ。


レポートと格闘する桜の都合が着いたら、早めの夕飯を食べに行く約束をした。


手持無沙汰なままで、録り溜めしていたドラマを見ながら、いつの間にか記憶は途切れ、気が付いたら夕方16時を回っていた。


「桜ー・・レポート・・」


寝ぼけ眼で体を起して呼びかける。


が、返事は無い。


リビングは明りがついておらず、開け放たれた窓の向こうには、どんよりと重たい雲で覆われた灰色の空が見えた。


「さくらー?」


もう一度呼びかけて立ち上がる。


リビングテーブルにはノートパソコンが広げたままになっており、参考書が積み上げられている。


その横に、キャラクターの書かれたメモを見つけた。


”本屋さん行ってきます。すぐ戻るね”


「本屋ぁ・・?」


駅前の大型本屋の事かと思いつつ、窓の外に視線を戻す。


今まさに窓ガラスに雨粒が落ちてきた所だった。


「アイツ傘持ってってんのか・・?」


すぐに帰る、という文言からして財布だけ持って行った可能性が高い。


せめて携帯だけでも持っているなら、迎えに行ってやれるかと思いつつ、自分の携帯を取りにソファに戻る。


短縮から桜の番号を引っ張り出してコール。


と、すぐ間近で、着信音が鳴りだした。


リビングテーブルの参考書の上でピカピカと光る携帯電話を見つける。


昴は盛大に溜息を吐いた。


「やっぱりか・・」


こうなっては今から捕まえる事は難しい。


そもそも桜が出掛けたのが何時か分からない。


念のため玄関まで確かめに行ったが、案の定傘は置きっぱなしだった。


つまり、財布だけ掴んで出て行ったのだ。


「ったく・・起こしゃあいいのに」


駅前まで、車なら10分。


雨に濡れるまでも無い。


疲れて帰って来た昴に気を使った事は間違いない。


こういう時こそ甘えろと思うのに、なかなか桜に実行させる事は難しい。


一人っ子だったせいもあるのだろうが、自分に出来る事は、なんでも自分でしようとするのだ。


こっちは甘やかしてやる準備万端なのに・・いつも斜め上に行くんだよなぁ・・・


「アイツらしいっちゃらしいんだけどな」


小さく呟く。


ひとまず濡れ鼠で帰って来るだろうと想定して、風呂を沸かすべく昴はバスルームに向かった。




★★★★★★★★★★★★★





「さっきまで大丈夫だったのにー!!」


本屋を出て、踏切を渡った途端降りだした雨に桜は、空を睨みつけた。


参考書を守るようにパーカーの胸元に抱え込む。


すれ違う人も慌てて店の軒下に入ったり、折り畳み傘を取り出したりと慌ただしい。開き直って濡れるままに歩く人もいる。


「昴起きたかなぁ」


携帯を持って出れば良かったと今更後悔しても遅い。


窓を開けてきたので、目覚めて戸締りをしてくれている事を祈りつつ、ひたすらに走る。


家のカギすら持って来なかった、本当におつかいに行った子供みたいだ。


信号の手前に差し掛かると、傘を差した親子連れが待っていた。


「ほーら、こっち来なさい。濡れちゃうわよー」


母親が折りたたみ傘の中に息子を入れようと躍起になっている。


子供の手を引いて傘をさしかけてやる母親はすでに肩がぐっしょり濡れてしまっている。


「風邪ひいたら困るからねー」


その優しい声に、失くした記憶が頭の片隅を過った。


一瞬立ち止まりそうになるけれど、振り切るようにして歩道橋に向かう。


京極の家まで後5分。



☆★☆★


「ただいまー!昴!あ、良かった起きてた!」


玄関を開けるなり玄関マットの上に立つ昴を見つけた。


「窓、締めてくれた?」


「窓よりまず自分の心配しろ、びしょ濡れ。締めたけど」


溜息交じりに呟いてバスタオルで桜の体を包み込む。


「携帯も鍵も持たずに出るなって言ってるだろ、風邪引いたらどーする」


その言葉にさっきの親子連れの姿が浮かんだ。


黙ったままで桜が抱きついてくる。


「どうした?」


「何でも無い」


「何でも無い事あるか、何かあった?」


「ううん。心配してくれてアリガト」


首を振って呟く。


「そこでありがとうとか言うなよ」


困ったように昴が言って濡れた前髪をかき上げて、冷たい額にキスを落とした。


「冷えてるな。風呂入って来い」


「もーちょっとだけこうしてて」


離れようとしない桜の頭をタオル越しに撫でると、昴と桜の腕を掴んだ。


「いいけど、とりあえず風呂」


それだけ言って、ひざ裏に腕を回して抱き上げる。


脱げたミュールが玄関タイルに転がった。


「歩く!」


この事態は想定していなかった為慌てた桜の唇にキスをして昴が笑った。


「たまには世話焼かせろよ」


一瞬迷った桜がおずおずと昴の首に腕を回した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る