第94話 まどろみsiesta

心地よい風が吹いている。


少し湿り気を帯びた独特の空気と匂い。


潮風だ。


耳をすませば潮騒も聞こえてきそうな穏やかな風は、波間を揺れるようなまどろみを連れて来る。


いつまでもこのまま眠っていたい・・・


すうっと息を吸い込んで、ごろんと寝返りを打つ。


あ、そうだった・・隣で眠っていたのは・・・


シーツの上で絡まっている筈の長い黒髪に触れようとして、違うものにぶつかる。


開きかけた指先を上から握り込むように絡められた掌の温度は、予想していた彼女のものでは無かった。


けれど、全く知らない人間のものでもない。


桜の覚醒に気付いたのか、耳の上の髪を掬い上げた指先が、確かめるように輪郭を辿った。


「・・・ん・・」


くすぐったくて身を捩る。


そういえば、人口ラタンのガーデンチェアの上にいるんだった。


あんまり端に行くと落ちてしまう。


あれ・・でも、それにしては感触が・・


ゆっくりと目を開ける。


こちらを覗き込むように、肘を枕に隣で寝転んでいる昴と目が合った。


「あれ・・みゆ姉は・・?」


寝起き一番に飛び出した元保護者の名前に、昴があからさまに不機嫌な顔になった。


「あのな・・・そこはまず名前を呼べよ」


こんな風に年上の婚約者が、嫉妬を露にするようになったのはごくごく最近の事だ。


恐らく幸のほうでも、同じように一鷹がヤキモキしているのだろうということは想像に難くない。


いつも余裕があって、桜よりもずっと大人で、落ち着いた印象を与える昴が、こんな風に不貞腐れてくれるのは、くすぐったくて嬉しい。


自分が昴にとってどうでも良くない人間なのだと教えられているようで、安心するからだ。


もう少し前の昴なら、文句を言う前に桜の質問に答えてくれていただろう。


だから、これは、桜が昴の内側に入れて貰えた証でもある。


眉根を寄せて声を待つ昴の指を、きゅっと握り返す。


顎まで滑り落ちた指先が、猫にするように喉元を擽った。


吸った息が言葉を紡ぐ前に笑い声になる。


枕にしていた肘を外して、半身を起こした昴が桜の身体の横に手を突いた。


照明を遮るように覆い被さって来る。


圧迫感はあっても重たくはならない事は、もう経験で知っていた。


こういう余裕が残っているあたりが、狡いなと思う。


さっきまで午後の日差しを見上げていたのに、いつの間にか室内に移動していたらしい。


幸とはしゃいでいた記憶が最後だから、眠った後で昴がここまで運んでくれたのだろう。


そういえば、幸と一鷹の客室とは、作りが違うと聞かされていた。


じっくり見て回らないと・・と思っているうちに、額に唇が落とされた。


「・・・桜」


低く掠れた声に、胸の奥がぎゅうっと苦しくなる。


愛しさで胸が痛くなる事を、桜は昴との恋で初めて知った。


この人を失ったら、きっと今度こそ自分は生きていけないと、確信してしまった。


だから、生涯をかけた恋だ。


甘えるように昴の首に腕を回す。


「うん・・ちゃんと目が覚めた・・・昴、おはよう・・運んでくれて、ありがと・・」


背中に回された腕が、僅かに身体を浮かせて、昴の肩に頬が触れる。


上着脱いだの?


あたしのカバンは?


ここってあたしたちの部屋?


聞きたい事はいくつもあるけれど、何から尋ねればいいのか分からない。


鼻の頭にちょんと落ちたキスの後、昴が耳たぶにキスをした。


「・・重たかった」


噛みしめるように言われて、一気に現実味が増す。


「デトックスコース受けたのにー・・」


そりゃあ最近、ちょーっと大学帰りのティータイムが豪華ですよ?


だってね、いつでも好きなだけ食べられるケーキ屋さんが友達にいるんだよ?


寄って帰って?って言われたら、行くに決まってるでしょ?


その度、試作品という名のケーキをずらりと並べられたら、食べないわけにいかないでしょ?


いや、別に親友様のせいではありません・・すべてあたしの不徳の致すところでございます・・


これを機に心を入れ替えて、日々ダイエットに励む事を・・・


心の中で宣言をしている桜の耳に、昴の呟きが聞こえて来る。


「・・安心した」


実感の籠った一言だった。


幸も、桜を抱きしめる度、良かった!ちょっとふっくらした!と嬉しがる。


事故の後がくんと体重が落ちてなかなか戻らなかったので、心配していたせいだ。


一番痩せていた時期を知っている昴だけに、この言葉には他の誰よりも重みがあった。


「・・・調子に乗るともっとブクブク太っていくかも・・」


「いいよ・・」


「ええー・・でもその度に重たかったって言われるんでしょ?」


「俺しか言わないんだからいいだろ、別に」


開き直ったように昴が笑う。



会員制スパリゾートホテル。


通常のスパや大手ホテルとは一線を画した、富裕層向け高級志向を前面に押し出して作られた大型施設。


全室スイートルーム、オーシャンスイートと、ラグジュアリースイート、インペリアルスイートというタイプの違う3種類の居室を選べるシステムになっており、会員権を取得するための費用は、居室のランクによって数百万円から、数千万円だとか。


国内2拠点目として選ばれた人工島に、宿泊施設、ゴルフ場、有名ブランドショップ、遊戯施設を詰め込んだそこは、まさに大人の隠れ家といった雰囲気だ。


敷地全体を囲む高い壁は、外界の雑音を綺麗に遮断しており、重厚な門扉をくぐり抜けると目の前に広がる豊かな緑に圧倒される。


綺麗に整えられた庭園と敷き詰められた石畳の向こうに見えるのは近代モダンな建物。


優美な曲線を描くホテルは、有名建築デザイナーが設計したものだとか。


エントランスの支柱1本にまで拘りが感じられる造りになっている。


全居室合わせても50室足らずという規模の小ささは、隅々まで行き届いた上質なサービスと、そこかしこに滲み出ている特別感で、さらに顧客のステイタスを満足させる。


出店企業や関係者を招いたプレオープンのセレモニーに招待された一鷹達は、男性陣は朝からゴルフ、女性陣はエステサロンへと案内され、それぞれ有意義な半日を過ごした。


ランチブッフェの後、館内を一巡りして客室に案内されたのが2時間程前の事。


海に面したオーシャンスイートと、山に面したラグジュアリースイート、それぞれ違う客室が用意されており、先に幸たちのラグジュアリースイートを覗こうという話になって、4人で客室に入った。


ドアを開けるなり、一番に飛び込んで来たのは、一面ガラス張りの窓の向こうにある専用庭とそこに設置されたミニプール。


大はしゃぎした桜は、幸と並んでプールサイドに座って、ぴかぴかに磨き上げたばかりの素足を遊ばせた。


その後で、庭に設置されている籐製のベッドかと見紛う大きなガーデンチェアに二人してゴロンと横になったのだ。


午後の穏やかな日差しの下、豪華料理で満たされて、エステで揉み解された身体は睡眠を欲しており、そのまま目を閉じてしまったのだ。


恐らく眠ってしまった桜に気付いた幸が、昴に頼んで部屋に連れて行くように頼んでくれたんだろう。


そういえばプールではしゃいだだけで、ちゃんと客室内を見て回っていない。


折角の豪華スイートルームなのだから、どちらの部屋も十分に堪能しなくては。


「・・・起きたってみゆ姉に・・言った方が・・んぅ」


もう喋るなとばかりに唇が塞がれる。


それだけではない。


遠慮なく忍び込んで来た舌先が、ぐるりと口内を一巡りした。


戸惑う舌先を絡め取られると、思考が緩む。


体重はかけないままで、キスも解かずに器用に体勢を変えた昴が、桜の上に馬乗りになる。


「・・幸さんも寝てるよ・・たぶんな」


「・・っ・・ぇ・・・そう・・な・・・ん」


同じようにエステを受けたのだから、幸も睡魔に襲われてもなんらおかしくない。


じゃあお部屋探検はまた後でいいかと、納得して目を閉じる。


夜はさらに豪華なレセプションパーティーが予定されており、ジャズピアニストの生演奏もあるとか。


この後の予定も目白押しだ。


だから、心地よいキスに流されている場合ではない。


パーティードレスはこの一着だけ、代わりの服は、着て来たちょっとお洒落なワンピースのみ。


皺や汚れなんてとんでもない。


とんでもないのに、昴の唇は何度触れても心地よい。


離れると無意識に自分から追いかけてしまうから、いつまで経ってもキスが終わらない。


髪を撫でる指が肩を滑って、離れた。


ゆっくりとキスが解けて、昴が身体を起こす。


火照った頬をひと撫でして、目を細める。


「・・悪い」


「・・謝るの?・・バカ」


「馬鹿でいいよ。俺のせいでいい」


苦笑いした昴が、もう一度桜の隣に横になる。


今度は腕を伸ばして、いつも眠る時のように桜の身体を抱き寄せた。


「一瞬この後の予定が頭から消えた」


「・・ん・・」


「今のでちょっと満足したし・・・もっかい寝ろよ・・俺も寝る」


「・・でも・・服」


「あとな、夜のパーティーは上に何か羽織っとけ。


日焼け防止って言って、ストール持って来てただろ?」


「あのストールあんまりお洒落じゃないんだけど・・・」


パーティードレスにはちょっと・・と言い募ろうとすれば、昴が無防備な耳たぶを甘噛みした。


「っきゃ!」


「ごちゃごちゃ言うなら、羽織らなきゃ出て行けないようにするけど?」


ついと意味深に首筋をなぞられる


昴は本気だ。


桜は大人しく口を閉ざして、そっと目を閉じて、再び眠りについた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る