第77話 離さない

無言のまま面白そうな表情で終始こちらを眺め続ける余裕たっぷりの昴に、先に音を上げたのは桜のほうだった。


「分かってると思うけどっ」


「分かってるよ」


先手を打って投げられた答えに、きゅっと唇を引き結ぶ。


さっきから明らかに挙動不審なのは自分でも分かっていたし、どうにかしようとはしてみたのだ。


けれど、落ち着かない気分ばかりが強くなって、ちいとも平常心に戻れない。


ついには、そもそも平常心ってなんだっけ?という極限状態にまで追い詰められてしまった。


一人百面相を続ける桜を、黙って見守り続けてくれた昴の優しさには感謝している。


けれど、そこに含まれる明らかなからかいの色に気付かないと思ったら大間違いだ。


「今日は、みゆ姉と‥寝るっ」


「そんな必死になって言わなくても、幸さんを招待するって決めた時から俺は分かってたけど?」


「じゃあなんでそんな面白そうなわけ!?」


「いや・・・ここで俺と暮らし始めた頃の桜を思い出して、ちょっとな・・・ここはお前の家なのに、どこに居ても落ち着かないって顔して、常に動き回ってただろ?んで、見てられなくなって抱きしめたら・・」


「っきゃ!」


伸びて来た腕が、やすやすと桜の細腰を捕まえて引き寄せる。


強引なのに、力加減は絶妙で、こんなところにも昴の余裕が伺えて、なんだか悔しい。


タバコと香水の香りがする胸元に顔を埋めたら、昴が落ち着かせるようにぽん、と頭を撫でた。


「今みたいに悲鳴上げて肩震わせてさ・・・俺はちょっといけない事をしている気分になったなぁ・・・もうとっくに保護者公認なのにな」


「ちょ・・・あ、やだ・・・」


「なにが?どれが嫌なんだ?」


くすくすと楽しげに喉を震わせながら、昴の指が脇腹を擽る。


薄いパジャマの内側に悠々と入り込んだ掌が、腰のラインを撫で上げた。


ぞくりと這い上がる感覚が、快感なんだと覚え込まされたのはつい数か月前の事。


堪えるように目を閉じた桜の瞼に甘やかすようにキスを落としながらも、昴の掌は彷徨うのを止めない。


ここは京極の家のリビング。


付け替えたばかりの照明が煌々と照らす中、腕に囲い込んだ桜の表情をじっくりと見下ろしながら、昴が静かに言った。


「何をそんな緊張してんだよ、お前は」


「ん・・・っや・・・っ・・・は、なして」


背骨に沿って四本の指を撫で下ろす昴の手つきには迷いがない。


すでに息も絶え絶えな桜とは正反対の、余裕の表情がいつにもまして恨めしい。


思えば最初から、この腕の中で余裕を保てた事なんて一度も無かった。


安堵した数秒後には、すぐに熱に攫われてしまう。


項を撫で上げた昴が、長い髪に指を絡ませて低い声で桜を呼ぶ。


「桜」


甘やかすような、誘うような掠れた声は、過去はともかく、今はもう桜だけのものだ。


縋る様に首に腕を回したら、腰に回した腕を僅かにずらしてそのまま抱き上げられた。


爪先が床から離れて慌てて逞しい肩に縋りつく。


「大丈夫だ、落とさねぇよ・・・しっかし、お前ほんとに慣れねぇな」


自由な片手で器用にソファの上の荷物を端に避けて、桜を抱えたまま腰を下ろす。


膝の上に下ろされた桜が居心地悪げに身動ぎするけれど、昴は一向に構う素振りを見せない。


子供のように向かい合わせで抱き合うのは初めてではないけれど、それはあくまで二人きりの時だ。


「待って、みゆ姉が・・・」


つい先ほど、出張中の一鷹から電話が来て二階の客室に向かった幸は戻ってくる気配がない。


不在の間の妻の様子を少しでも知りたい一鷹が、4、5分で電話を切るとは思えないけれど、やっぱり自分たち以外の人の気配がする中で、甘い雰囲気には浸れない。


それを分かっていながら、桜を手放そうとせず、むしろけしかけてくる昴にも腹が立つ。


その反面、すっかり力を抜いて委ねてしまっている素直な自分の身体が、少しだけ、羨ましい。


気持ちは全然付いて行っていないのに、身体はもうとっくに心地よさを覚えてしまっているのだ。


逞しい腕に甘える事に。


「後10分は戻ってこない。賭けてもいい・・・」


囁いた昴が、躊躇うように旨に手を付いた桜を強引に抱きしめる。


首筋に顔を埋めたら、ほんの少し香水の香りが強くなった。


朝とは違う、男っぽさを滲ませた大人の香り。


桜を腕に抱くとき、いつも昴からはこの匂いがする。


色んな言い訳も抵抗も、全部グズグズに溶かして、遠くへ押しやってしまうそれは、桜のスイッチを的確に押してくる。


「男の人には・・・分かんないと思う・・・」


「なにが?」


「だから・・・みゆ姉って、お姉ちゃんだし、今は母親代わりみたいなもんだし・・・好きな人と一緒にいる所を見られると、落ち着かないっていうか・・・居た堪れないっていうか・・」


ここは自分の家で、唯一無二の領域だけれど、そこにある当たり前の日常をさらけ出してしまう事にどうしても抵抗を覚えるのだ。


いくら公認の同棲とはいえ、やっぱりどうしようもなく恥ずかしい。


★★★★★★★★★★★★★


幸は、昔から京極の家にしょっちゅう遊びに来ていた。


桜が両親の愛情を一身に受けて生活していたこの場所を誰よりも知っている。


だから、その家族で過ごした空間が、桜と昴のふたりの空間に変化している事も、きっと鋭く見抜いてしまう。


女同士だから、分かってしまう、そういう些細なポイントが、いちいち恥ずかしいのだ。


例えば、殆ど使われていない桜の部屋のベッドや、昴の部屋に置き去りになったままの愛用の枕。


二人暮らしの片鱗に気付かれる度、心臓がきゅっとなる。


幸は桜の表情を確かめる事はしても、何も言わない。


その気遣いが、余計に恥ずかしい。


これが、絢花や冴梨なら、赤裸々な事もぶちまける事が出来るのに、身内という枠が一つ内側に入っただけで、どうしようもなくハードルが上がるのだ。


「・・・思春期の子供みたいな事言うんだな・・まあ、ついこないだまで思春期か」


昴の腕に身体を預けて、ぽつりぽつりと零したら、昴が大きな手で桜の頭を優しく撫でた。


さっきまでの色っぽさは何処にもない、ただただ優しいだけの掌。


初めて出会った頃の昴は、よくこうして桜の頭を撫でてくれた。


その手に焦がれて、物足りなくなって行ったのは、きっと桜のほうが先だ。


「子供っぽくて悪かったわね・・・」


こういう時、大人の女性がどんな風に振舞うのか桜にはわからない。


一番身近な大人の女性である幸は、一鷹の前になると、それこそ初心な少女のように頬を染めてしまうから。


そして、そんな幸を、一鷹が嬉しそうに甘やかす姿を間近で見て来た桜としては、どこに正解があるのよ!?とちゃぶ台をひっくり返したい所だ。


「・・・いいや。悪くない」


「・・嘘・・どうせ呆れてるくせに」


「可愛いな、とは思うけどな」


「っっ!!・・・ほ、本気・・・?」


「この程度で呆れるようなら、俺はお前の事捕まえて無かったと思うけどなぁ」


「え、あたし・・捕まったの?」


その感覚は無かった。


伸ばした手を掴んで貰えた、という表現の方が桜にはしっくりくる。


「そうだよ・・・ほかの誰にも捕まらないように。俺が捕まえて閉じ込めた」


確かめるように輪郭を撫でた指が、顎を捕まえて引き寄せて来る。


キスの予感に目を閉じたら、吐息が瞼を掠めて、頬にキスが落ちた後、唇が重なった。


桜の緊張と、不安を取り除くような、触れるだけの優しいキスだ。


初めての時も、唇の表面を辿るだけの優しいキスは、桜の身体から余計な力が抜けてしまうまで続いた。


強引に唇を割られる事は無くて、息継ぎの合間に少しずつ深くなるキスに酔っているうちに、気付けば舌を絡めとられていた。


何もかもが初めてで、夢中になってその熱を追いかけた。


解いてほしく無くて、もっとと強請った桜をやんわりと押しとどめて、焦らなくていいと教えてくれたのは昴だ。


「だから、戸惑いも、恥ずかしいのも、全部俺のせいにすればいいよ」


熱で潤んだ瞳を覗き込むようにして、昴が静かに囁く。


桜にだけ聞こえるように紡がれた声は、熾火のような情熱を孕んでいた。


ジリジリ焦がれてるように胸の奥が熱くなる。


「・・・そう・・いうの・・・っ・・・ん・・・八つ当たり・・って、言わない?」


掠めるように贈られるキスの合間に、浮かんだ疑問を口にする。


些細なすれ違いでへそを曲げた桜を甘やかすのは、もう昴の特技になりつつある。


その上八つ当たりしていい、なんて、どこまでこの人はあたしを甘やかすつもりなの・・・?


触れ合う唇が甘くて、解けるのが切なくて、目を閉じて待つだけじゃもどかしくなって、自分から唇を誘いに行く。


こんな大胆な事をする桜を、幸はおろか誰も知らない。


迎えに来た唇が啄んで離れた後、昴が掠れた声で囁いた。


「そうだ・・・お前は俺のものだから、それ位の八つ当たり、甘んじて受けてやるよ。


その代わり、どれだけ嫌がっても絶対幸さんの元へは返さないけどな」


白い歯を覗かせて、昴が勝ち誇ったように宣言をする。


「そんな事思ってない・・・」


そもそも幸はもう一鷹のものになってしまった。


昴が桜の手を離したら、桜の居場所はどこにもなくなってしまう。


この腕にすがりたいのは、いつだって桜のほうだ。


「は、なさないで・・って思ってるのに・・気付いてない?」


「知ってるよ。ただ、聞きたくなっただけ」


火照った頬を包み込んで、昴がもう一度唇にキスをする。


響いたリップ音に、桜がきゅっと目を閉じると同時に、二階から桜を呼ぶ声が聞こえて来た。


「さぁちゃーん。ごめんね、長く話しちゃって・・・」


「ほら、行ってこい。今日は妹の日、だろ。たまには、幸さんにも甘えてこいよ」


昴が小さく笑って、そっと膝の上から桜を下す。


「・・ねえ、淋しい?」


問いかけた桜の視線の先、ちょっとバツが悪そうに視線を逸らした昴が、無言のままにキスを返した。


「っぁ・・・っん」


思い切り仕掛けられた本気のキスに、慌てて声を堪える。


いつも昴がくれるきすより、ほんの少し、余裕のないキスだった。

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