第127話 浅海桜

浅海の両親が、取引先からの招待旅行に参加する為行けなくなった1泊旅行。


新婚旅行に行くつもりがないのなら、その代わりに行ってきなさいと譲り受けたそれ。


毎年浅海夫妻は同じ老舗旅館を夫婦水入らずで訪れているらしい。


「おふたりの想い出のお宿なの?」


助手席で、さっきパーキングエリアで買った鯛焼きを食べながら桜が問いかける。


「ああ、結婚記念日に毎年ふたりで行ってるみたいだな」


「みたいって・・昴は行ったこと無いの?」


「俺が?行くわけねーだろ」


「なんで?家族旅行とか」


「夫婦水入らずの旅行と、家族旅行はまた別だろ?俺や兄貴を連れてく時にはもっと家族向けの旅館を選んでたな」


「そんな老舗の旅館なの?大丈夫かな・・」


「なにが?」


「あたしの方が相応しくないんじゃないの?だって浅海のおじ様たちが・・」


「おじ様ー?」


「お、お義父さんたちが行かれるような高級旅館でしょ?」


まだこの呼び方になれない。


あと一年もしたら慣れるのだろうか。


「なーに緊張してんだよ、普通の旅館だ普通の」


「でも、もーちょっと可愛いワンピースとかの方がよかった?」


旅行なら動きやすい服装が良いと思ってパンツとカットソーといういでたちだ。


デニムでなくて良かったと思いつつ昴を窺うと、左手が伸びてきた。


くしゃりと髪を撫でられる。


「だーいじょうぶだ」


「んー・・」


「ほら、もうじく着くぞ、あ。鯛焼き一口」


「はいはい」


慌てて口に残った鯛焼きを飲みこんで齧りかけの鯛焼きの残りを昴の口に放り込む。


「そーだ、夕飯の懐石は相当美味いらしいぞ」


「え・・そうなの?もー先に言ってよ!鯛焼き食べるんじゃなかった」


「そう言いながらいつもデザートまで食うくせに・・」


呆れ顔で言って昴がハンドルを切った。


目の前が開ける。


大きな駐車場の先に、和風の旅館が見えてきた。


本館と離れの別館が連なる大きな建物だ。


「わあー・・」


「へー・・すごいな・・」


「露天風呂もあるし部屋風呂もあるって。本館と別館両方のお風呂絶対言った方が良いってお・・お義母さんが仰ってた。お夕飯の前にのんびりお風呂入んなきゃねー」


パンフレット片手にあれこれと説明を受けたので、事前準備だけはばっちりなのだ。


美肌効果のある温泉らしいので、翌朝の肌にコッソリ期待もしておく。


さっきまでの緊張はなんのその。


あっという間に旅館が気に入った桜は停めたばかりの車から飛び降りた。


「桜、携帯忘れてんぞ」


運転席から降りた昴が呆れ顔で呼ぶ。


ダッシュボードに置きっぱなしのそれを掴んで見せた。


「あ!ごめんー荷物・・」


「いいよ、こっちは持ってやるほら。お前が携帯忘れるなんて珍しいな」


桜のカバンと二つ荷物を纏めて持って昴が車をロックする。


キーを手にしてこちらに歩いて来た昴の方を見て桜が言う。


「ちょっと浮かれてた」


それからキーを握ったままの昴の手を見て桜が覗うような視線を送る。


「ん?」


「手、開けて」


「ああ」


頷いてキーを上着のポケットに入れて桜に向かって手を差し出す。


「昴のスーツとじゃ釣り合わないかな?」


やっぱりもう少しかちっとした服装にすれば良かった。


午前中は仕事に出ていた昴はいつも通りのスーツ姿だ。


「まーだ気にしてんのか?」


ほら行くぞと歩き出した昴に惹かれて旅館に向かう。


「だって・・」


呟いた桜の耳に、車を見て迎えに出てきた旅館の仲居の姿が見えた。


すぐに女将と思わしき女性もやって来る。


「ようこそいらっしゃいました」


その声に昴が営業用の笑顔を向けた。


「こちらこそ、お世話になります、予約をお願いしていた浅海です」


「お待ちいたしておりました。お父様からご丁寧にご連絡を頂きまして、ありがとうございます」


「そうですか」


「今回は急なご予定で、息子様ご夫婦が代わりにいらしてくださると」


「ご・・」


ご夫婦、とはっきり言われるのは初めての事だ。


思わず声を上げそうになった桜の言葉を遮るように昴が頷く。


「父から声をかけられまして、折角なんでありがたく行かせて貰う事にしました」


「左様ですか・・ありがとうございます。すぐにお部屋へご案内致します。ご両親もとても気に入ってくださったうちの自慢の離れなんですよ。若奥様もお待ちしておりました」


そう言って女将が玄関へと先導していく。


「わ・・若奥様・・・」


「まあ、順番的にはそうなるよな、嫌か?」


「そんなことは・・ないけど」


「ならいいだろ?ほら行くぞ、奥さん」


意地悪く笑って昴が桜の手を引いて歩き出す。


戸籍上も浅海桜になったのだから、奥さんで若奥様なのだが、やっぱり全然しっくりこない。


いつも通り落ち着きを払っている昴に引っ張られるように、本日の宿泊先へ到着する。


女将の言葉通り通された離れは、立派なものだった。


6畳の和室が2間続きで、縁側からは旅館の裏手にある渓谷が見渡せる。


雪が降る景色は静かでけれども静謐な美しさを湛えている。


「すごく良いお部屋!」


桜の声に女将が嬉しそうに頷く。


「部屋風呂から見る景色も素敵ですよ。お夕食は、19時でよろしいですか?」


「あ・・はい!お願いします」


「畏まりました。若奥様、あんみつはお好きですか?」


「はい!」


「良かった、お茶と一緒にお持ちしますね。今回は新婚旅行で?」


「え・・ええ」


困り顔で答えた桜の横顔を見て昴が笑う。


お祝いを述べた女将が部屋を出ていくと、昴は縁側に出た。


障子戸一枚隔てて板間の縁側があり、1人がけの上品なソファが置かれている。


ミニテーブルに置いてある灰皿を引き寄せて煙草に火をつける。


「桜」


荷物を片づけている桜を手招きする。


「お前の欲しがってた空気清浄機あるぞ」


「え!」


慌てて桜が縁側に飛び出して来る。


昴の足元にある薄型の空気清浄機を見て歓声を上げた。


マイナスイオンとアロマがセットになった最新モデルだ。


「すごーい!うちにも最新式の買おうよ!今あるやつ結構古いし。リビングと寝室にこれ置きたいなー」


京極の家で暮らし始めた当初は、出来るだけ桜の思い出を壊さないようと最低限のリフォームで留めた家も、結婚を期に古くなっていた家電は買い替えを行った。


後回しにしていうた内のひとつが空気清浄機である。


スイッチをあれこれ押して愉しむ桜を横目に、火をつけた煙草を灰皿に押し付けて昴はソファに腰かけたまま腕を伸ばした。


桜の腰を攫って引き寄せる。


「っ・・」


抱き寄せられた桜は目を白黒させるほかない。


そんな桜の頬を指でなぞって昴が目を閉じるように促す。


目を閉じかけた桜はさっきの女将の言葉を思い出した。


「お茶来るって」


「ああ」


頷いて昴が更に距離を詰める。


それでも逃げようとする桜を抱き上げると強引に膝の腕に下ろしてしまう。


と同時にドアがノックされた。


「お茶をお持ちしました」


「ちょ・・」


和室に戻ろうとした桜を留めて昴が障子を閉めた。


「どうぞ、テーブルに置いておいてください」


平然と言って桜の唇を自分のそれで塞ぐ。


愉しむかのように伸びてきた手が項を撫でた。


「っ」


身じろぎ一つ取れない桜は声を漏らさないように必死になる。


「もぅ!」


唇を離した昴が小さく囁く。


「新婚旅行だろ?」


甘ったるいだけの囁きは、桜の意地をグズグズに溶かしてしまった。

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