第86話 癖 

「桜?今どこに居る?」


授業中に携帯が震えた。


講義中なのでマナーモードにしておいて良かった。


授業中に着信が鳴ると、この教授は物凄く不機嫌になるのだ。


隣りでノートを取っていた絢花が”浅海さん?”と声に出さずに訊いてくる。


桜は携帯を開いてメールの受信BOXを確かめる。


「あ・・」


珍しい絢花の予想通り昴からのメールだった。


”授業何時に終わる?”


向こうは仕事中だし、桜は大学。


日中に連絡があることなんて滅多にない。


高校時代の復学当初は、授業中に何度が具合が悪くなることがあったので、たびたび幸や昴から確認のメールが来る事があったけれど、健康体に戻った今は、そんなことも無かった。


だから、昴からこんな風に連絡が来るのはよっぽどの緊急事態、もしくは喧嘩した翌日。


でも、今回は後者じゃない。


というか、喧嘩するほどここ最近一緒に居なかったし。


昴は、社長(一鷹の父親)のお伴で昨日は東京出張。


戻ってくるのは今日の夕方って言っていたから・・・


今から新幹線に乗るとかそういうタイミングだろう。


”16時過ぎ”


手短にメールを送るとものの1分で返信が届いた。


”そっちまで迎えに行く”


・・・・え・・・


届いた文面を見て思わず嘘でしょ、と呟いてしまう。


これまたほんとに珍しい。


女子大は、女子高同様独特の雰囲気があるらしく、昴は余程の用事が無い限り寄りつこうとはしない。


出掛けるついでに桜を拾いに来る時も、必ず少し離れた場所で落ち合うようにしていた。


これはもしや出張続きのスケジュールの埋め合わせだろうか?


入れ知恵をしたであろう一鷹と、彼の最愛の妻を思い浮かべる。


有難いけど・・・


ここで”仕事は?”とか送ると昴の機嫌が悪くなる。


”なんで素直に待ってる。とか言えないんだお前は”とかいういつものパターンになるのは避けたい。


というわけで、今回は”ありがとう。嬉しい”と素直に返事を返しておく。


もちろん本心なんだけど。


「えー。デート?いまから?」


「いいなー!!」


大親友ふたりにこれからの予定を伝えたら、まるで自分のことのようにはしゃいでくれた。


デートかどうかは定かではないが、まあちょっとの期待も込めてそこは素通りする事にした。


「でも、浅海さんが来るなんて珍しいね」


「でしょ?ここのとこ、忙しかったから気を使ってるみたい」


「あたしも最近亮誠とお昼間にデートなんてしてないよ」


「でも、先週ふたりで旅行行ってたじゃない」


「そ・・・そうだけどっ・・」


「旅行かー・・いいなー」


「いいよねー」


「カズくんと行けばいいじゃない」


「カズくん家庭教師のバイトあるし・・なかなか時間取れないのよ」


「あらら・・・すごい人気らしいもんね、綾小路先生」


「そーなの・・・最近の中学生とかませてるし・・困る」


「え、担当の生徒さん女の子?」


「女の子が1人と男の子2人。カズくんのメアドとか訊いてくるみたいだし・・・心配ないって言ってくれるし、分かってるけどやっぱりねー・・・」


学生同士の恋愛ならではの悩みもあるらしい。


年上の恋人を持つ桜と冴梨には全く縁のない話でむしろ新鮮ですらある。


「大変だー・・」


「お互いね・・・まあ、でも桜は浅海さんとのデート楽しんで」


「ありがとー。ふたりは?もし、まっすぐ帰るなら、昴に言って送って貰うけど」


きっと、三人娘を見たらいつものようについでに送ってやると言うだろうし。


「あたしたちのことは気にしないでいいからっ」


慌てて冴梨が首を振る。


「そうよ。せっかくふたりで会うんだから」


絢花も付け加えて来た。


「んー。じゃあそうさせてもらう」


持つべきものは気の利く女友達という事で。





カフェテラスを出たところで、図書館に寄り道するというふたりと別れて校門に向かって歩き出す。


と、タイミングよく携帯が鳴った。


「はーい。もしもし」


「着いたぞ。いつも降ろす角な」


「すぐ行きまーす」


そっけない電話でも、どうしてだか頬が緩む自分がいた。


助手席のドアを開けると同時に


「おかえり」


と告げる。


ハンドルから手を離した昴が笑った。


「どっちかってーとお前がただいまだけどな」


そう言ってから”ただいま”と答えた。


「だって、昨日あたしが起きる前に出て行ったから。行ってらっしゃいも言ってなかった」


「部屋覗いたけど、お前熟睡してた」


「え、そーなの?」


シートベルトに手を伸ばした桜の指を絡め取って昴が爪の先にキスをした。


いきなりのことに驚いて視線を上げる。


車の中だけど、夕方だし、人通りもある通りでこんなことする人じゃないのに・・・


いつも通りの表情で桜の頬に彼が手を伸ばして来る。


まるでそうすることが当然のように、指の背で頬の高い場所をなぞられて、心臓が跳ねた。


夕方過ぎの車内でこんな雰囲気になった試しがなかった。


「・・・す・・・昴・・・」


「ん?」


桜の動揺なんてまるで気にする素振りも見せず穏やかな返事が返ってきた。


耳の下で纏めてある長い髪を節ばった指が掬う。


エンジン音と、ドアの向こうを行き交う人の姿。


フロントガラスから差し込むオレンジ色の夕日。


心臓がドキドキ高鳴る音が、すぐ側に聞こえる。


くるくると巻きとった髪を解いて、また巻きつけて。


それを何度か繰り返してから、昴が言った。


「起そうかと思ったんだけどな」


「・・・起してくれたらよかったのに・・」


必死になって言い返せば、昴が吐息だけで笑った。


距離が少し縮まって、吐息が頬に触れる。


目を閉じたい衝動を必死に堪えた。


そうしてしまえば流されることは目に見えているから。


「起すの可哀想になるくらい、気持ちよさそうに寝てたんだよ。朝早かったしな」


「・・・何時・・・?」


「6時過ぎ」


「・・絶対夢のなかだった」


「だろ?」


小さく答えた彼が桜の頬にキスをする。


「・・っ・・・ど・・・どこ行くの?」


この状況をどうにかしたくて、彼の腕を軽く押さえてみるけれど。


けれど、あっという間に反対の手に指先を握られてしまった。


「桜が見たいって言ってた映画。レイトショーでやってるとこ探したから」


桜の好きな女優が数年ぶりに主演をした恋愛映画。


内容は、女性受けを狙ったストーリーで、男性人気は皆無。


昴に言えば、無理やり付き合わせることになるだろうから、冴梨たちに声をかけようかと考えたけれど、生憎電車で行けるところに上映している映画館が無かったのだ。


雑誌広告を見た時から絶対に行きたいと思ってたんだけど・・・


「え・・・連れてってくれるの?」


「見たいって言ってただろ?」


「そ・・・そうだけど・・・恋愛モノだよ?」


「知ってる」


「・・・後で文句言わないでね・・?」


念のために言ってみれば、昴が距離を詰めてきた。


項を撫でる指の感触に、頭の中で警告音が鳴り響く。


「車っ・・・」


キスの予感に目を閉じつつも最後の抵抗で言ってみる。


気持ちと言葉はまさに裏腹。


それでも、やっぱり羞恥心から俯いてしまった。


「そこで逃げようとしても無駄」


俯いた桜を覗き込むように額が触れる。


次の瞬間、掬いとるように唇が重なった。


啄ばむような触れるだけのキスの後、昴が桜の頬を親指でなぞりながら言った。


「お前の癖だな」


「え?」


「絶対外でキスしようとしたら俯く」


「っ!!」


図星を指された桜を横目にアクセルを踏みながら昴が言った。


「抵抗しても無駄なのに」


何も言い返せずに赤くなったことは、言うまでもない。

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