第109話 愛情 

「・・・・あら・・・」


ティーセットを持ってやってきた幸さんがダイニングのソファに座る俺を見て小さく呟いた。


「・・・」


俺は人差し指を立てて”静かに”と合図する。


幸さんは笑って頷いた。


紅茶とコーヒーのカップをそれぞれの前に置き、自分用のマグカップを両手で持ってソファに腰掛ける。


目立ち始めたお腹を撫でてから、彼女は俺の右肩に凭れて寝入ってしまった桜に視線を送った。


「だからお土産なんて後でいいって言ったのに・・」


その言葉とは裏腹に、表情は穏やかで柔らかい。


桜の来訪を心から喜んでいるのが見て取れた。


妊娠した今も、幸さんの”桜至上主義”は健在だ。


高校時代からの友人である冴梨ちゃんたちと1泊2日で旅行出かけていた桜は、帰るなり俺にこう詰め寄った。


「みゆ姉のとこ連れてって!」


断る理由もなく、即座に頷いたのだが・・・


急いで来たかったのはこういう理由だったわけか。


ダイニングテーブルに載せられた”お守り”安産祈願と書かれたそれは、有名な神社のものだ。


幸さんと、お腹の子供の事を思って選んできたに違いない。


朝方4時まで喋っていたというから、昨夜はほとんど眠っていないのだ。


帰りのバスの中では熟睡したと言っていたけれど・・・


任務を無事に完了してホッとしたらしい。


てっきり賞味期限が短いもんでも買って来たのかと思ったけど。


車のなかで、ずっと大切そうに握っていた紙袋の中身はコレだったのだ。


「どうしよ・・・横にさせる?」


立ち上がりかけた幸さんを慌てて止める。


「いや、このまま寝かせとくから」


「そう・・・?昴君しんどくない?」


「・・・慣れてますよ」


テレビを見ながらうたた寝なんて、しょっちゅうだ。


揺すり起こすと凶悪に機嫌が悪くなるのでそのまま放置することを覚えた。


桜にとって、ここが一番心地よいのだと思うと肩の重みは少しも苦にならない。


マグカップから立ち上る香りは紅茶でもコーヒーでもなく・・


「ほうじ茶?」


「そうよー。よく分かったわね」


「お袋が飲んでるのと同じ」


「あ・・・そうね。これ、浅海のおば様が下さったの。妊娠中はカフェイン良くないからって」


「へー・・・」


「みんなに大事にされて・・申し訳ない位」


肩をすくめた幸さんが笑う。


「そりゃあ・・・待望の初孫だから」


浅海にとっても、志堂にとっても。


生まれる子が、男の子であっても女の子であってもとにかく楽しみでしかたないというのが両家の親たちの本音なのだ。


「うん・・・それにしても・・・ほんとに気持ちよさそうに寝てる」


マグカップをテーブルに戻して幸さんがまじまじと桜の顔を見つめた。


「・・・・だな・・」


「・・・いつの間にか、昴君にこんなに甘えるようになっちゃったなぁ・・」


「ようやくね」


「・・・」


俺の言葉に頷いて彼女が何かを考えるように口を閉ざす。


頬杖ついたまま黙り込む幸さんを黙って見守っていたら、しばらくしてから彼女が懐かしそうに呟いた。


「嬉しかったなぁ・・・」




★★★★★★★★★★★★★




あの事故の後、退院してきたさぁちゃんはあたしと暮らし始めてからぐんぐん元気になっていった。


表向きは・・・だ。


朝起きて、一緒にご飯を食べて、一緒に出かける。


夜には2人で夕飯を作って、テレビを見て、その日あった出来事をあれこれ話して、笑っておやすみと言ってベッドに入る。


さぁちゃんは、本当によく笑った。


どんなことでも楽しんでいた。


どこまでも走ろうとする彼女の姿勢が心配になったあたしは眠る前に言ったことがる。


”無理して笑わないでいいのよ”


夜中に魘されて何度も彼女が目を覚ましていることを知ってからは、あたしの部屋で一緒に眠るようにしていた。


並べた布団のに入って、明りを落とした後消え入りそうな小さな声でさぁちゃんが言った。


”笑ってないと、あの事故の記憶に塗りつぶされてしまう気がする”


それが、彼女が零して見せたはじめての”本音”で、誰にも言えなかった”弱音”だ。


たぶん”寂しい”も“怖い”も”不安”も。


何もかも、胸に押しとどめて生きていこうとするんだろう。


いつもいつも“強く”あろうとするんだろう。


早くに母を亡くしたあたしも、同じ体験をしたから余計に分かる。


“独り”は“覚悟”を伴う。


その未来を選ばざるを得なかった彼女の気持ちを思うとかける言葉が無くて、ただその手を握ることしかできなかった。


こんなときの”大丈夫”が本当に気休めにしかならない事をあたしは誰より知っていたから。


”泣けない”ことが一番悲しいこと。


さぁちゃんの言葉を聞いてから、あたしが決めたこと。


”仕事以外の時間は出来るだけ彼女と一緒に過ごす”


余計な言葉はいらないと思った。


側にいることで、伝わるものってあるから。


下手な慰めよりも、すぐ抱きしめてあげられる場所にいつもあたしがいること。


さぁちゃんの居場所はここだよって。


そう伝えてあげることが、一番だと思った。


母を亡くした時・・・一緒にいてくれたのは他の誰でもない、まだ小さいさぁちゃんだったから。


あたしは、彼女の純粋な心に何度も励まされてきたのだ。



二人で見たいと話していた映画のDVDを借りてきて日曜の昼間から映画観賞会をすることにした。


午前中に二人で簡単に掃除をして、お夕飯はピザを取ることに決めてある。


さぁちゃんがピカピカに磨いた窓から眩しい日差しが入ってフローリングの床を照らす。


クッションを抱えてお気に入りのソファで並んで映画を見ていたら、右肩に重みがかかった。


あたしはそっと視線を送る。


閉じられた瞼、その寝顔はとても穏やかだった。


すっかり熟睡してしまっている彼女の深い寝息が聞こえる。


“怖い”夢は見ていないらしい。


そのことにホッとして、そうして気づく。


この家に来てから、彼女は一度だってこうやってうたた寝したことなんてないのだ。


いつも、どこか気を張っていたんだろう。


やっと・・・・ここが、さぁちゃんの家になった。


あたし・・・ようやく家族になれた。


さぁちゃんが、気を許して眠れる場所を作れた。


さぁちゃんが”甘えてもいい”相手になれた。


主人公カップルがテレビの中では派手な喧嘩をしている。


ちっとも泣けるシーンではないのに。


あたしは、ひとり声を出さずに泣いた。


どうしようもないくらい・・・嬉しくて。


この子の幸せを、これからもずっと守って行こうと、改めてそう決めたのだ。


そして、いま、さぁちゃんは、自分で新しい未来を一緒に歩く人を選び出した。


その事が、何よりも誇らしい。

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